神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

六所神社(山形県鶴岡市上藤岡)

2015-07-25 23:52:25 | 神社
六所神社(ろくしょじんじゃ)。
場所:山形県鶴岡市上藤島字六所畑62。JR羽越線「藤島」駅前から南東に約300m進み、突き当りを右折(南西へ)して約230m進むと、山形県道30号線(藤島由良線)沿いに石灯篭・社号標・説明板があり(写真1)、そこを左折、約190m。駐車場なし。
山形県鶴岡市には「六所神社」という神社が多いが、当神社は出羽国の総社であるとの伝承がある。社伝によれば、延暦13年(794年)の創建で、往古は国土経営の神として国常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、素戔鳴尊、大己貴神、事代主神の六柱を奉斎したという。現在では、延喜式神名帳の出羽国式内社のうち現・山形県内に鎮座する大物忌大神、小物忌大神、月山大神、出羽大神、由豆佐賣大神、遠賀大神を祀っている。
確かに、当神社は、出羽国創建時の国府所在地との説がある場所に近く(前項参照)、「六所神社」という名も他国の総社にもよくあるものである。「六所」というのは6柱の祭神を指すこともあるが、管内の神社を登録・管理・統括する「録所」の意味であると言われることもある。元々、国司の重要な任務として管内の重要な神社の巡拝があったが、交通手段が限られ、管内も広いといった事情から、国府の近くに管内の神を合祀した総社を設け、巡拝を省くことが次第に行われるようになった。これはあくまでも便宜で、正式な制度ではなかったため、その成立時期は国によってまちまちだったと考えられているが、早くても平安時代以降と思われる。
さて、当神社が出羽国の総社だったのかどうか、次の通り、検討を要する事項が多い。即ち、
1.JR「藤島」駅付近に出羽国創建当初の出羽国府があったという説が有力であるが、発掘調査等では確認されていない。
2.出羽国創建前に「出羽柵」が設置され、「出羽柵」が出羽国府になったとみられるが、「出羽柵」は天平5年(733年)には秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)に移された。このとき、国府も移転したとみられる(反対説有り)。
3.「出羽柵」は後に「秋田城」となり、国府機能を持っていたが、蝦夷の反乱により、奈良時代末に国府は再び現・山形県庄内地方に移された。その経緯には諸説あるが、平安時代の出羽国府は「城輪柵」(現・山形県酒田市)であるとみられる(「城輪柵」の創建時期は9世紀第1四半期頃と推定されている。)。
4.そうすると、当神社が当地に総社として創建されたという意味は如何。
5.なお、山形県鶴岡市内には「六所神社」という名の神社が多くあるが、当神社が総社であるとする根拠は如何。
さて、どうだろうか。


玄松子さんのHPから(六所神社(鶴岡市上藤島))


写真1:「六所神社」参道入口。社号標と説明板がある(県道50号線沿い)。


写真2:正面鳥居と社号標


写真3:社殿。屋根が特徴的。
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藤島城址(出羽国府・その1)

2015-07-18 23:04:08 | 史跡・文化財
藤島城址(ふじしまじょうし)。
場所:山形県鶴岡市藤島字古楯跡108(「八幡神社」の住所)。JR羽越線「藤島」駅前から山形県道339号線(添津藤島停車場線)を東へ約500m。駐車場あり。
「藤島城址」は築城時期不明の平城跡で、一説に、和銅5年(712年)に「出羽国」が創設されたときに当地に国府が置かれ、出羽国司の居館のあった場所であるという。その後も領主を変えながら存続し、土塁や水堀(藤島川を利用)を備えた城となっていたが、元和元年(1615年)、最上氏の改易に伴い廃城になったとされる。現在は鶴岡市の史跡に指定され、「八幡神社」(旧村社、祭神:應神天皇ほか)が鎮座している。
「出羽国」は、大和政権の東北地方への勢力拡大に伴い、和銅元年(708年)、「越後国」の北端に「出羽郡」を置き、前線基地として「出羽柵」を設置した。「出羽」は「いでは」と読み、「越後国」の出端という意味であった。和銅5年(712年)9月に「出羽国」に昇格し、翌年には「陸奥国」から置賜郡と最上郡を割譲された。出羽国府は出羽郡内に置かれたと思われるが、その位置は確認されていない。諸説あるが、最上川より南側で、おそらく赤川流域の鶴岡市あるいは酒田市付近とみられている。地名等から、JR「藤島」駅南側の鶴岡市藤島字「古郡」、あるいは北側の字「平形」付近が有力とされ、特に後者には「国分」・「堂の上」・「堂の下」という小字地名もあり、これが「国分寺」に関連があるのではないかともいわれてきた。こうしたことから、「平形」周辺一帯について昭和45年から53年まで7次にわたり広範囲に発掘調査が行われたが、奈良時代に遡る遺構・遺物は発見されなかった。掘立柱建物跡等は出土したが、9世紀後半~10世紀頃の集落跡で、寺院跡らしい遺構は確認されなかったという。


山形県鶴岡市観光連盟のHPから(藤島城祉)


写真1:「藤島城跡」水堀(南側から見る)


写真2:東側に「史跡藤島城址」の石碑と「八幡神社」の鳥居・社号標


写真3:「八幡神社」境内から入口側をみる。土塁がよくわかる。


写真4:「八幡神社」社殿
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神明社(秋田県秋田市添川)

2015-07-11 23:44:46 | 神社
神明社(しんめいしゃ)。通称:添川神明社(そえがわしんめいしゃ)。
場所:秋田県秋田市添川字古城廻り51。JR奥羽本線「秋田」駅東口から北へ向かい、秋田大学前を通って秋田県道15号線(秋田八郎潟線)を北上し、秋田自動車道の高架下を過ぎて約400mの「秋田東警察署旭川駐在所」横から鋭角的に北西に曲がって約200m。水路に沿った狭い道路を東に進むと参道の石段がある。駐車場なし。
当神社の創始は不明。近世には「杉生(すぎう)大明神」と呼ばれていたが、昭和3年に神明社、熊野神社等を合祀して村社となった、という。現在の主祭神は天照大神。
志賀剛氏の説で、当神社が式内社「副川神社」の古社地とされているとのことで、有名な玄松子さんも当神社に参拝されている。志賀剛著「式内社の研究 第十巻 東山道」(昭和61年12月)では、式内社「副川神社」の所在地を「南秋田郡内川村大字浦大町」(現・秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町)としながら、旭川流域の添川村(現・秋田市添川)にありとするのが妥当、としている。それは、単に「そえがわ」という地名が通じるということだけではなく、蝦夷の反乱により秋田城が焼き討ちにあった「元慶の乱」(元慶2年:878年)のとき、添川・覇別・助川の3村だけが律令政権側に付いたという「日本三代実録」の記事があり、その功により式内社が置かれたのだろうとしている。即ち、「副川神社」は、「古四王神社」(現・秋田市寺内)とともに「秋田城」の守護神であったとする(「古四王神社」は式外社だが。)。このとおり、「式内社の研究」では、当神社が「副川神社」の後身であるとはされていない。古代の「副川神社」が現・秋田市添川にあったとしているだけである。因みに、当神社の裏山の辺りには「古城廻窯遺跡」があり、ここで平安初期の「秋田城」の「十五葉細弁蓮華文軒丸瓦」などが生産されていたことが明らかになっている。
確かに「元慶の乱」の記事での「添川(添河)」は現・秋田市添川付近に比定されているけれども、「添川」という地名自体は他にもあり、当地のみに特定はできない。また、「延喜式神名帳」では、「副川神社」の鎮座地を「山本郡」としているが、「和名類聚抄」(承平年間:931~938年頃の成立)によれば「添川郷」は「秋田郡」内に所在する。このことについて、「式内社の研究」では、「延喜式神名帳」の誤記としているが、これはいただけない。なお、江戸時代の紀行家・菅江真澄も当神社を訪れ、「副川神社」と同じ「杉生の神」を祀っていると指摘しているが、この「杉生大明神」という神様がよくわからない。結局、現・秋田県大仙市に鎮座する「嶽六所神社」またはその里宮である「(神宮寺)八幡神社」が古社地であり、江戸時代に現・秋田県八郎潟町に移された「副川神社」が現存する式内社というのが通説となっている。


秋田県神社庁のHPから(神明社)

玄松子さんのHPから(添川神明社)

秋田市のHPから(添川地区古城廻窯跡)


写真1:「(添川)神明社」の白い鳥居(コンクリート製?)


写真2:社殿正面。木々に囲まれ、良い雰囲気。


写真3:社殿


写真4:参道横はグラウンドになっている。

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嶽六所神社

2015-07-04 23:59:25 | 神社
嶽六所神社(だけろくしょじんじゃ)。
場所:秋田県大仙市神宮寺字落貝7(「神宮寺岳」山頂)。JR「神宮寺」駅前方面から秋田県道30号線(神岡南外東由利線)を南下、雄物川に架かる「岳見橋」を渡り、約100mのところで左折(東へ)(「神宮寺岳入口」の案内板がある。)、約500m進んで左へ、更に約500m進むと「神宮寺岳」登山口。駐車スペースあり。そこから、登山道を山頂(標高277m)まで登る(徒歩約40分)。さして高い山ではないが、見たとおりの急坂。
出羽国式内社「副川神社」は現在、秋田県八郎潟町の「高岳山」山頂に鎮座しているが、中世には祭祀が廃絶しており、所在も不明になっていた。秋田に入封した領主・佐竹氏が式内社復興のため「保呂羽山波宇志別神社」社家・大友氏に鎮座地を探させたところ、「神宮寺岳」にあったと判ったが、城都の北方鎮護のため、敢えて「高岳山」山頂に再興された(前々項「副川神社」参照)。同様に廃絶していた式内社「塩湯彦神社」の本来の鎮座地には諸説あるが、「副川神社」の場合、「神宮寺岳」にあったことには殆ど異説がない。「神宮寺岳」(別名:「副川岳」、「岳山(だけやま)」)は、雄物川に玉川が合流する位置にあり、河畔からピラミッドのような形で立つ姿は「神奈備山」というに相応しい。現在も、JR奥羽本線(秋田新幹線)や国道13号線からもよく見え、旅路の目印となっている。式内社「副川神社」は、本来は「神宮寺岳」自体を神体山とした自然神だったと思われる。
社伝によれば、大宝元年(701年)に藤原不比等が奏聞して創建(「副川神社」として?)。同2年(702年)に斎藤安房守が「神宮寺岳」山頂に6堂を建立して6柱の神を祀ったという。大同2年(806年)には、坂上田村麻呂が里宮を建立、八幡大神を合わせ祀ったため、「八幡神社」が優勢になり、「副川神社」の名が隠れたという。なお、秋田県神社庁のHPによれば、現在の祭神は大田命、興玉命、句々土命、大山祇命、磐戸命の5柱で、「六所」には1柱足りないが、一説には鹽槌翁を加えるという。
なお、地元の蔵元「刈穂酒造」の関係者の方から聞いた話。当神社の祭礼として「嶽六所神社奉納梵天(神宮寺梵天)」があり、棒の先端に球状の装飾物を着けた「梵天(ぼんでん)」を担ぎ、一気に「神宮寺岳」山頂まで駆け上がる。「神宮寺岳」の神は女神で、「梵天」は男性のシンボルであることから、一気に駆け上がって「梵天」を届けると、女神がことのほか喜ばれる、という。


秋田県神社庁のHPから(嶽六所神社)


写真1:「神宮寺岳」


写真2:山麓には縄文時代の遺跡(「小沢遺跡)もある。


写真3:登山口にある石鳥居。傍らには「式内社 副川神社跡」の木碑が建てられている。


写真4:山頂の「嶽六所神社」社殿


写真5:同上、内部
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