神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿島神社(茨城県小美玉市下吉影字宮脇)

2019-02-23 23:58:55 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。同名の神社と区別して、通称:宮脇鹿島神社。
場所:茨城県小美玉市下吉影899。国道50号線沿い、「貝谷公民館」あるいは「小美玉市消防団第11分団」の辺りから1本西側の道路に入り、北へ。最初の角を左折(西へ)、道なりに進んで、突き当りは右折(北へ)。「貝谷公民館」付近からは約450mで、参道入口(社号標がある。)。ただし、道路が狭いので、参道入口付近には駐車できないし、参道には階段もあるので、徒歩となる。自動車の場合は、国道50号線を「貝谷公民館」から北へ、約400m進んだところで左折(西へ)、約150m進むと左側に当神社の社殿横に入る入口があって、駐車スペースもある。
常陸国式内社「主石神社」について、たいてい論社として紹介されているのが当神社である。ただし、どうも論拠が薄いような気がするのだが、念のため訪問してみた。
社伝によれば、創建は文治2年(1186年)。「延喜式神名帳」に登載された神社を「式内社」と称するが、それは「延喜式」が延長5年(927年)に完成したものなので、その時点で官社であった神社を指す。よって、創建が文治2年ということからすれば、「式内社」ではありえない。ところが、延享2年(1745年)に二宮茂直が著わした「常陸二十八社記」に「吉影村に主石神社がある」と書いてあるという(原文未確認)。二宮茂直は、吉影村のどの神社、と特定していないが、それがどうやら当神社のことらしいとされている。そして、境内の「本殿改築記念」碑によれば、まず「天慶年間社頭焼失」とあって、次いで「文治丙午年本社創立三神ヲ祀リ石神明神ト称ヘタリ」となっている。「天慶年間」というのは938年~947年で、「文治丙午年」というのは上記の通り、文治2年(1186年)のことである。「天慶」自体は「延長」より後の年号だが、このとき既に何らかの「(神)社」があった可能性はある。また、「石神明神」と称していたということから、神聖な「石」を祀っていた可能性もあることになる。そして、後半の記述だが、「水戸義公(徳川光圀)の命により、村内に散在していた鹿島・香取神社を合祀して「鹿島神社」と名乗った」ということが書いてある。他にも色々と合祀しているようで、現在の祭神は伊弉諾命(イザナギ)、伊弉冉命(イザナミ)、武甕槌命(タケミカヅチ)、経津主命(フツヌシ)、姫大神命(ヒメオオカミ)、國常立命(クニトコタチ)、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ)、天児屋根命(アメノコヤネ)としている。
式内社としては、前項の「主石神社」で良いのではないかと思うのだが...。当神社が仮に天慶年間以前に存在していたとしても、「石神明神」としたのは文治2年以降のような書きぶりであるし、徳川光圀は常陸国の式内社復興に努めた人物であって、その光圀が当神社を(「主石神社」ではなく)「鹿島神社」にしたということには何らかの根拠があってのことだったのではないかとも思う。因みに、前項の「主石神社」が現・鉾田市(旧・鹿島郡鉾田町)に所在するので、「延喜式神名帳」に「茨城郡」とされているのと矛盾するのではないか(当神社は旧・東茨城郡小川町に所在)という問題がある。しかし、近世の鹿島郡と茨城郡の境界である「巴川」は中世に拡幅されて境界となったものらしく、古代の鹿島郡(香島郡)は現在の「涸沼」の西端から概ね真南に引いたラインが想定される(現在の茨城県道50号線(水戸神栖線)の感じだろうか。)ところから、「主石神社」も古代茨城郡の域内と言えるらしいので、この点を問題にしている論者は殆どいないようだ。


写真1:「(宮脇)鹿島神社」参道入口。路地のような参道で、進むと、いったん石段を少し下り、また石段を少し上がる。途中は民家も途切れ、両脇の草木が被さってきている。


写真2:参道を進むと、鳥居と社号標がある。


写真3:社殿(拝殿)


写真4:社殿(拝殿と本殿)


写真5:境内の「鹿島神社本殿改築記念」碑



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主石神社(常陸国式内社・その14)

2019-02-16 23:43:48 | 神社
主石神社(ぬしいしじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市大和田1028-1。茨城県道360号線「大和田」交差点から北西に約450m。駐車場なし。
社伝によれば、第29代欽明天皇の御宇(539~571年?)、村人が拾った小石が成長し、4~5尺(1尺=約30cmとして約120~150cm)までになった。ある夜、石が光り、老翁が現れて「吾は大山祇神である。庶民の愁いから護るため出現した。」と言って消えた。そこで、村人が石の上に祠を建てて、「主石大明神」と称したという。こうした経緯から、現在も祭神は大山祇命で、伊予国一宮「大山祇神社」(現・愛媛県今治市)の末社といわれたこともあるが、元々、霊石信仰が草創であることから、「大山祇神社」とは直接関係はないとされている。「延喜式神名帳」に登載された式内社「主石神社」に比定される神社であり、六国史にも記事があるとされるが、それは次の通りである。まず、「日本文徳天皇実録」嘉祥3年(850年)に「鴨大神御子神主玉神」を官社に列するという記事があるが、これを「鴨大神御子神」と「主玉神」の2つに分けて、後者を当神社のこととする。また、「日本三代実録」貞観3年(861年)には従五位上の神階授与の記事があるが、ここでも「主玉神」となっている。これを当神社のこととするについては、異論もある(「鴨大神御子神主玉神社」2018年8月25日記事参照)。


写真1:「主石神社」境内入口の鳥居と社号標。


写真2:境内


写真3:本殿。社伝によれば、祠に祀ってからも霊石は成長し、祠の縁板(床板?)を壊したそうな。現在の社殿は安土桃山時代の天正年間(1573~1593年)建立と伝えられるが、霊石の成長はいつまでだったのだろう。


写真4:鳥居を潜って直ぐ左にある小丘。上り口に注連縄が張ってある。


写真5:上ると、小祠がある。当神社の北西側にいくつか古墳跡があるが、この小丘が古墳かどうかは不明。
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手接神社(茨城県小美玉市)

2019-02-09 23:35:06 | 神社
手接神社(てつぎじんじゃ)。
場所:茨城県小美玉市与沢1112。茨城県道8号線(小川鉾田線)と同360号線(大和田羽生線)の「茨城空港南」交差点から北に約120mのところで斜め右方向(北東へ)に入り、直進約190mで当神社正面。駐車スペース有り。
室町時代の寛正6年(1465年)頃、芹沢村領主・芹沢俊幹(常陸大掾氏の一族)が梶無川を通りかかった際、乗っていた馬の尾を河童(かっぱ)に掴まれたが、刀でその手を切り落として難を逃れた。その夜、手首のない河童が領主の屋敷にやってきて「七郎河童」と名乗り、手が無いと老いた母を養えないので手を返してほしい、と泣いて懇願した。哀れに思った領主は手を返してやったが、代わりに、河童の先祖から伝わる手接ぎの秘法や「きりすね」という糸(疵や痛みに巻いておくと、糸が切れる頃に治っているというもの。)を授かった。また、翌朝から、人知れず庭に川魚が届けられるようになった。それがしばらく続いたが、ある寒い冬の日から魚が届かなくなった。領主が梶無川に見に行ってみると、七郎河童の死体が見つかった。不憫に思った領主は、梶無川の畔に小祠を建てて「手接大明神」として祀った。この祠に参ると手の病気が治ると評判が立ち、多くの参拝客を集めた。永正4年(1507年)に現在地に遷座、嘉永2年(1849年)に社殿焼失するも、直ぐに再建されたという。日本で唯一、河童を祀るとされるが、現在の祭神は罔象女命(ミズハノメ)、大巳貴命(オオナムチ)、少彦名命(スクナヒコナ)となっている。河童を水神としてミズハノメに当てたのだろう。
蛇足。「日本に1社」とあるが、現・千葉県旭市にも「手接神社」があり、同じ祭神を祀っている。実は、同地に住んでいた八角茂兵衛という人が当神社に参拝したところ手の病気が治ったというので、勧請したものという。霊験あらたかなこと、かくの如しかも。


小美玉観光協会のHPから(手接神社)


写真1:県道からの入口にある「手接神社」の看板。「日本に1社 かっぱの神様」とある。


写真2:おなじく参道入口の社号標


写真3:境内入口、社号標


写真4:拝殿


写真5:石造の河童像。下に当神社の縁起が刻されている(上記本文中の記載と多少異なるところがあるが、民話として流布しているので、資料によって細かな異同がある。)。


写真6:拝殿脇に手の形に切り抜いた板や手袋が奉納されている。奥は本殿。
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玉井(茨城県小美玉市)

2019-02-02 23:31:26 | 史跡・文化財
玉井(たまい)。玉乃井之跡(たまのいのあと)。
場所:茨城県小美玉市上玉里。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」交差点から北東へ約260mのところで左折(北へ)、約180m進んだところの右側(東側)。駐車場なし(手前にある「小美玉市 玉里総合支所」に広い駐車場がある。)。
「常陸国風土記」茨城郡の条の最後に、「茨城郡家の東、10里(約5.3km)のところに桑原岳(くわはらのおか)がある。昔、倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)が岳の上にしばらく休み、食事を差し上げようとしたとき、水部(もいとりべ)に命じて新たな井戸を掘らせた。湧き出た泉は清浄で香気があり、飲んでみると美味しかったので、「能き停水かな(よきたづみかな)」とおっしゃった。これを、地元の人は「よくたまれる水かな」という。これによって、この里の名を今は「田余(たまり)」という。」という記述がある。「桑原」という地名には遺称地がないものの、旧・茨城県新治郡玉里村は昭和30年に田余村と玉川村が合併してできたもので、田余村の名は「和名類聚抄」にある「田余郷」に由来し、これが「常陸国風土記」にいう「田余」の里であるとされる。そして、「小美玉市 玉里総合支所」(旧・玉里村役場)の向かい側に鎮座する「大宮神社」社地及びその北西部の台地(「宮平」という。)が「桑原岳」、「大宮神社」の東側にある「玉井」が泉の跡に比定されている。
社伝によれば、「大宮神社」は和銅年間(708~715年)の創建で、祭神として武甕槌命(タケミカヅチ)を祀り、鹿島明神と称していたが、元禄9年(1696年)に徳川光圀が巡視のときに「大宮大明神」と改め、明治になって「大宮神社」としたという。「玉井」のある場所は、台地を少し下ったところだが、ここもかつては「大宮神社」の社地内であったらしい。「玉井」は昭和20年まで水が湧いていたが、現在は埋められ、暗渠に水を流しているとのこと。なお、当地には「六井六畑八館八艘(ろくい・ろくはた・はったて・はっそう)という言葉が残っており、6つの井戸、6つの畑、8つの館(城)、8つの艘(前方後円墳)という豊かで歴史のある場所だ、ということのようである。
ところで、上記の「食事を差し上げようとしたとき」の原文は「進奉御膳時」となっていて、これを「(ヤマトタケルが)土地の神に神饌を献じようしたとき」と解釈すれば、あるいは「桑原岳」が神聖な場所だったのかもしれず、「大宮神社」はその後身であるのかもしれない。


茨城県のHPから(玉井)

小美玉観光協会のHPから(大宮神社)


写真1:「小美玉市 玉里総合支所」敷地内にある「閉村記念碑」。上記「常陸国風土記」を引用して「玉里村」の地名が1300年の歴史のあることを記している。


写真2:「大宮神社」境内入口(場所:茨城県小美玉市上玉里119。「小美玉市 玉里総合支所」の向かい側)


写真3:同上、立派な両部鳥居。


写真4:同上、社殿


写真5:「玉井」。「玉乃井之跡」という石碑が建てられている。
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