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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

崎浜横穴群

2025-05-28 23:32:01 | 古墳

崎浜横穴群(さきはまよこあなぐん)。崎浜横穴墓群、崎浜横穴古墳群とも表記される。
場所:茨城県かすみがうら市加茂782-1外。国道354号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「手野町南」交差点から県道を南東へ約6.6km。駐車場なし。
「崎浜横穴群」は、霞ケ浦に面した丘の崖下に並ぶ横穴古墳群で、古墳時代後期頃(7世紀頃?)に造られたとされ、現在までに17基が確認されている。横穴古墳は、茨城県内では、ひたちなか市の「十五郎穴」(2018年6月23日記事)や日立市の「十王前横穴墓群(かんぶり穴)」(2020年2月29日記事)など県北部に多く、県南部では珍しい。面白いのは、この崖は、約13万~12万年前の古東京湾形成時の牡蠣(カキ)化石床が露出する地層で、今も大量に堆積した牡蠣殻を見ることができる。これは貝塚ではなく、牡蠣の世代交代により自然にできた貝殻層で、かつては、ここが海底だったことを示すという。
なお、「崎浜横穴群」の崖上に小さな観音堂がある。通称「崎浜観音堂」というが、元は「隣海山 普門院 佛前寺」という寺院で、現在は聖観音(正観音)を祀る観音堂と墓地しかないが、観音堂は「常陸西国三十三札所巡り(観音霊場)」第11番札所となっている(管理は、かすみがうら市加茂の「五智山 光明院 南圓寺」が行っている。)。堂本尊の聖観音は高さ約1.2mの立像で、厨子の中に安置されている。この観音像については、前項で書いたように、「歩崎観音」(「宝性院 歩崎山 長禅寺」2022年5月21日記事)と「立木観音」(前項)と同木で造られたという伝承がある。


筑波山地域ジオパークのHPから(崎浜・川尻)


写真1:「市指定史跡 崎浜横穴群」標識と「崎浜・川尻ジオサイト」説明板


写真2:横穴内に安置された仏像(地蔵菩薩)。本来は、上の段に棺、下の段に副葬品を納めたらしい。地蔵像は安山岩製で、江戸時代頃のものらしい。


写真3:牡蠣殻の堆積


写真4:仏像(弘法大師?)


写真5:横穴墓


写真6:同上。左側の横穴は、上段の左・右と奥に棺を置いたらしい。


写真7:同上。「崎浜横穴群」は昭和初期の県道工事により発見されたが、同工事によりかなり削られてしまったとのこと。元はもっと深かったのだろう。


写真8:丘の上にある「崎浜観音堂」。写真1の説明板の右側の狭い山道を上ると墓地があり、その奥の一段高いところにある。扉に貼られた紙札は、新盆を迎えた家で故人の戒名を記した紙100枚を用意し、近くの仏堂に貼っていくという民俗行事(「百堂詣」または「札ぶち」という。)によるものだろう(「出島の椎」(2025年5月10日記事)参照)。


写真9:「崎浜横穴群」の南東、約140mのところにある「八坂神社」鳥居の額。竜の彫刻がしてあって、なかなか味わい深い。「八坂神社」の創建は大宝年間(701~704年)という。祭神:須佐之男命。

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風返稲荷山古墳

2025-05-17 23:32:29 | 古墳

風返稲荷山古墳(かざかえしいなりやまこふん)。
場所:茨城県かすみがうら市安食(字風返)1526。茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)と同194号線(宍倉玉里線)の交差点(宍倉総鎮守「鹿島神社」がある。)から194号線を北~北東へ、約500m。駐車場なし。
「風返稲荷山古墳」は、「風返古墳群」の盟主的存在の前方後円墳。大きさは墳丘長約78m、前方部長約35m・幅約57m・高さ約8m、後円部径約43m・高さ約10mで、東西を主軸として前方部が西を向いている。南側は自然の谷で、他は周濠が廻らせてあったらしい。昭和39年に日本大学により発掘調査が行われ、括れ部から箱形石棺、後円部から複室構造の横穴式石室が発見された。石棺は地表下約2mのところに天井石があり、側壁は1枚大片岩、石材はいずれも黒雲母片岩で、大きさは長辺約2m・短辺約1m。副葬品として円頭大刀1振、金銅製耳環2個などがあり、棺外に馬具一式が出した。石室は後円部の真下約6mに奥壁を設け、そこから南に後室、前室、羨道が造られていた(全長約9m)。後室に3つの石棺があり、大刀などが出土したが、前室と後室の仕切り石に直刀2振が交差して立て掛けられていた。大きな石材を使うようになったのは6世紀以後、切石積みの長い石室が造られるようになるのは7世紀以後とされるが、当古墳では6世紀後半~7世紀中頃にかけて4回の埋葬行為が行われたと推定されている。盗掘の跡がなく、金属製の馬具をはじめ、銅鋺・太刀・鉾などの出土品は精緻な工芸品で、一部は金属の光沢を保つなど、保存状態も良かった。馬具には奈良「法隆寺」の救世観音の冠と似た模様があるなど、出土品は様式的・技術的に朝鮮半島・百済からの搬入品か、その技法によって製作されたものと推定されている。出土品74点が茨城県指定文化財として「かすみがうら市歴史博物館」に収蔵され、うち53点が令和5年に国指定重要文化財(美術工芸品)に指定された。古墳自体は文化財・史跡には指定されておらず、当地の有力豪族の墳墓であろうということしかわからない。しかし、6世紀末頃の築造とすれば、東日本でも最末期の前方後円墳であり、出土品から見て、大陸・朝鮮半島からの技術移転に積極的だった聖徳太子及びその一族(上宮王家)を支えた豪族「壬生(みぶ)」氏のものではないかと推定されているようである。
なお、「風返古墳群」は、当古墳のほか、「風返大日山古墳」(帆立貝形、長径約55m・短径約46m・高さ約6m、6世紀前半頃?)、「風返浅間山古墳」(円墳、直径約40m・高さ約6m、7世紀頃?)など計34基の古墳群となっている。


文化庁の国指定文化財等データベースから(茨城県風返稲荷山古墳出土品)


写真1:「風返稲荷山古墳」入口。古墳は、この先の森の中。


写真2:入口の足元を見ると、石室の石材?


写真3:説明板。この右手、奧が前方部(西側)


写真4:前方部


写真5:前方部(西側)から後円部(東側)を見る。


写真6:後円部


写真7:後円部から前方部を見る。


写真8:前方部から後円部を見る。

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太子古墳(茨城県かすみがうら市)

2025-05-12 23:32:27 | 古墳

太子古墳(たいしこふん)。通称:太子の唐櫃(かろうど)。
場所:茨城県かすみがうら市安食734-1。茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)「馬場山」交差点から東へ約4.6km、「→太子古墳」という案内板がでているところで右折(北西へ)、約60m。駐車場なし。
「太子古墳」は、元は全長約60mの前方後円墳だったとされているが、現在は墳丘の殆どが削平され、横穴式石室のみが露出している。明治23年、開墾の際に横穴式石室が発見され、直刀・刀子・銀環・須恵器等が出土したとされている。明治28年、小室竜之助によって「東京人類学雑誌」に発表され、翌29年に大野延太郎(雲外)によって「奥壁ハ全面朱塗リニシテ左右両側壁ニハ朱ノ丸数個画キアルヲ認メタリ」と同誌に発表された。所謂「装飾古墳」であるが、現在では彩色は殆ど確認できないようである。南側に開口した横穴式石室は、全長約3.8m(羨道部約1.5m+玄室約2.3m)で、両側壁とも2個の石で組まれ、奥壁は高さ約1.3mの一枚岩が使われている。おそらく後円部に築かれたものと考えられており、築造時期は7世紀前半と推定されているという。昭和52年、茨城県指定史跡に指定。
なお、前方後円墳で「装飾古墳」は東国には少なく、九州北部に多く見られるとのことで、あるいは当地にも九州北部出身の有力者がいたのかもしれない(茨城県内での装飾古墳の代表例である「虎塚古墳」(2028年6月16日記事)参照)。
因みに、この古墳が「太子」と結び付けられた由来は不明だが、聖徳太子(厩戸豊聡耳皇子命)は推古天皇30年(622年)に亡くなっているので、時期的にはちょうど合うことになる。


写真1:「太子古墳」入口と説明板。個人住宅の庭の一部が見学できるように整備されている模様。


写真2:石室


写真3:同上

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牛渡牛塚古墳

2025-05-05 23:32:35 | 古墳

牛渡牛塚古墳(うしわたうしづかこふん)。
場所:茨城県かすみがうら市牛渡2041-1。国道354号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「手野町南」交差点から県道を南東へ、道なりに約9.5km進んだところで左折(東へ)、約40m。県道から入る道路は狭いので注意。駐車場なし。
かすみがうら市の旧・霞ケ浦町(出島村)地区は霞ケ浦に突き出した半島で、古墳が多いが、「牛渡牛塚古墳」は市内で最も標高が低いところに築かれた円墳である。直径約40m、高さ約4mで、鳥居と小祠?がある。周辺から壺形埴輪片が採集されており、5世紀頃に築造されたものと推定されている。
伝説によれば、「常陸国府」(現・石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事参照))に向かう勅使を載せてきた牛が、霞ケ浦を船で渡る勅使の後を追って泳いできたが、力尽きて当地で死んだのを、村人が手厚く埋葬した。よって、当地を「牛渡」といい、牛が飛び込んだ霞ケ浦の対岸を「牛込」(現・茨城県美浦村牛込)と称するようになったという。
「出島村史」(昭和46年)では、古代東海道の「榎浦」駅を現・茨城県龍ヶ崎市馴馬、「榛谷」駅を現・茨城県稲敷市羽賀に比定し、現・美浦村馬掛に「馬掛」駅、現・石岡市井関に「井関」駅があったとし、「馬掛」からは船で牛渡浜にわたり、現・かすみがうら市を通って、「井関」からは再び船で現・石岡市高浜に向かったと想定している。根拠としては、上記の伝説のほか、牛渡浜に「大道」という地名、井関と現・かすみがうら市風返の間に「大道南」・「大道北」という地名が残る。また、旧・井関小学校の敷地は「月の台」といい、これは「(馬)次の台」の意味で、長者峰の豪族が駅長を兼ねていたのだろう、としている。そして、「牛塚」の伝説については、「ウシ」は貴人等の尊称である「大人(うし)」のことで、当地の豪族の古墳をそう称したのが後世誤解されたのだろうと説明されている。
蛇足:古代東海道に関して、現在の通説では、平安時代のルートでは「榛谷」駅を現・龍ケ崎市半田町に比定し(「榛谷駅」(2022年1月22日記事参照))、現・稲敷市下君島を経由して北上(「下君島廃寺跡」(2022年2月12日記事参照))、霞ケ浦の南畔を西へ向かって、現・茨城県土浦市(「曾禰駅」(2022年3月26日記事参照)から石岡市に向かったと想定されている。なお、「榎浦(津)」駅は奈良時代のルートで、現・稲敷市柴崎が有力(「榎浦津駅」(2022年2月5日記事参照))。


写真1:「牛渡牛塚古墳」前景。南側の県道側から見る。


写真2:鳥居


写真3:祠。祭神は「牛司大権現」とされる。


写真4:祠の中は、観音?の石像。


写真5:東側からみる。北側は蓮根畑となっている。

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秋葉山古墳(茨城県八千代町)

2024-12-14 23:33:10 | 古墳
秋葉山古墳(あきばやまこふん)。
場所:茨城県八千代町尾崎字前山415-1。「尾崎前山遺跡製鉄炉跡地」(前項)の東、約140m。駐車場あり。
「秋葉山古墳」は、現・茨城県南西部にかつて存在した大きな沼「飯沼」を望む、旧「飯沼入江」(現・入沼排水路)西岸の台地突端に立地し、現在は干拓された台地下の水田地帯を一望できる場所にある。古墳名は、北側に「秋葉神社」が鎮座しているため、その名がある。全長約45mの前方後円墳で、かつては他に2~3基の古墳があったらしいが、現在は消滅している。明治24年の発掘調査によれば、縦7尺(約212cm)×横2尺5寸(約76cm)×深さ3尺(約91cm)という石棺が発見され、その中から人骨2体、直刀2口、槍2幹、小刀2口が出土したとされている(出土物は所在不明。)。人骨は「秋葉神社」北側に埋めて塚とし、石棺の石材を石碑としたという。


写真1:「秋葉山古墳」案内板と説明板


写真2:古墳は台地上に(北西に)上っていく道路の右側(東側)。木々に覆われ、古墳は殆ど見えない。


写真3:前方部。後円部(北西側)から見る。写真の左手など、かなり崩落しているようで、形がわかりにくい。


写真4:後円部。北西側から見る。なんとなく円い形に見えるが、この位置からだと前方部は更に下がっていて、見えない。


写真5:後円部から見る「秋葉神社」社殿。こちらのほうが前方部のように見えるが、そうではないらしい。


写真6:シャッターが閉められた小屋のような「秋葉神社」社殿


写真7:「秋葉神社」の裏(北側)にある塚。
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