神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

柚木山神古墳

2010-10-29 21:02:00 | 古墳
柚木山神古墳(ゆのきやまがみこふん)。
場所:静岡市葵区柚木692(古墳上にある「浅間神社」(通称「柚木浅間神社」)の住所)。この古墳がある谷津山はハイキングコースが整備されており、登り口はいくつかある。最も近いのは、静岡鉄道「柚木」駅から山側に向かい(北西へ)、日本通運警護支店の裏に回る。石の鳥居を潜って、10分程登る(かなり急坂)。緩やかに登るなら、「静岡県護国神社」(駐車場あり。)の西端から登るのがよい。
「柚木山神古墳」は、静岡平野に浮かぶ島のような低山、谷津山(標高108m)の山上にある古墳群の1つ。全長約110mの前方後円墳で、築造時期は4世紀後半頃とされ、静岡・清水平野で最古・最大の古墳とされる。このため、「廬原国」の首長の墳墓であろうとされている。
後円部に、南麓の旧・曲金村の氏神「浅間神社」(「柚木山上神社」(ゆのきやまがみじんじゃ)と呼ばれていたらしい。)の小祠が現在もあるが、かつて山上は松などの雑木が生い茂り、斜面は茶畑になっていたという。発掘されたのは明治12年(1879年)とされているが、村民は古墳の存在を知らず、木造であった「浅間神社」祠は台風で毎年破損してしまうので、台座を作り、石祠にすることになった。山上の雑木を伐採し、祠の辺りを掘ったところ、薄い板のような石(「ヘギ石」)が大量に出てきた。これを台座などに使い、石祠を祀ったとされる。
というようなことで、残念ながら、石室は消滅しているが、大量の「ヘギ石」の存在から石室があったことは確実で、どうやら朱を塗った木棺があったらしい。6面の銅鏡や鏃・剣なども出土したらしいが、散逸している。資料が少なくて残念だが、確かに静岡・清水平野を見下ろす絶好の場所であり、強力な古代首長の墓にふさわしい。
なお、この古墳が静岡・清水平野で最古ということは、その後の重要な古墳の築造時期などからすると、「廬原国」の首長権が谷津山丘陵→瀬名丘陵→有度丘陵北麓へと移動していったことを示す、という。


oobutaさんのHP「oh!古墳探訪」から(谷津山古墳群):http://homepage2.nifty.com/o-obuta/kofunn/sizuoka/sizuoka/yatuyama/yatuyama.html


写真1:山上の「柚木浅間神社」鳥居


写真2:「柚木浅間神社」(中央)。左右にあるのは、境内社の「白髭社」と「山神社」。「山神社」は、元は「竜爪権現」を祀っていたらしい。神社(祠)の前に積み上げられた薄い板状の石が、古墳の竪穴石室の「ヘギ石」。


写真3:「柚木山神古墳」。奥が「柚木浅間神社」が鎮座する後円部。

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池田神社(駿河国式内社・その10)

2010-10-26 23:42:02 | 神社
池田神社(いけだじんじゃ)。祭神:事代主神。
場所:静岡市駿河区池田1207。 県道407号線(静岡清水草薙線)「聖一色」交差点を南東へ(「日本平動物園」方面などの案内標識がある。)、道なりに約800m、右手(南側)に川に隔てられた小さな森がある。その川に架かる橋を渡るとすぐ。駐車スペースあり。
式内社「草薙神社」の元鎮座地は有度丘陵の北麓にあり、当神社は西麓にある。直線距離では2~3kmしか離れていない。日本平(これも日本武尊の縁の地である。)には、自動車では、当神社の前を通って上っていく。
当神社の創建時期は不明。古社の場合、神社名と地名が同じとき、どちらが先かは難しい問題である。当神社の場合は、今も隣接して大慈悲院川という川が流れ、近くにある西峯田緑地が元は雨乞いをした池であったという社伝もあり、池のある田の間に鎮座する神社として、先に地名があったのかもしれない。そして、「式内社調査報告(第9巻)」(昭和63年1月)によれば、「先代旧事本紀」の国造本紀の記事により、「廬原国造」意加部彦命の子孫(吉備氏族)で「池田坂井君」という氏があったということから、この「池田君」を祀ったのではないか、とする。小生も、当神社が「廬原国造」と関連があるとは思うが、では、なぜ祭神が事代主命になったのか。事代主命は、大国主の子で、いわゆる出雲系の神である。
当神社には、明和年間(1764~1771年)の大旱魃のとき、村中の水が枯れたが、当神社の井戸を掘ったところ、水が湧き出して村人を救ったという伝承もある(この井戸は大慈悲院川の河川改修工事により埋められてしまったらしい。)。
元は「池田君」を祀ったのかもしれないが、日本武尊の草薙伝説などと結び付けられなかったせいで祭神が忘れられ、後世になって、水をもたらす神としての「事代主命」が祭神となったのではないかと思われる。


玄松子さんのHPから(池田神社(静岡市)):http://www.genbu.net/data/suruga/ikeda_title.htm


写真1:「池田神社」正面。社号標には「神饌幣帛料供進指定式内池田神社」とある。


写真2:社殿。全体に明るく、簡素だが清楚な美しさがある。


写真3:西峯田緑地。確かに、水の無い調整池のような感じ。もとは「峯田の溜池」といったらしい。有度山(有度丘陵)は低い山で、しかも案外、坂は急なので水が溜まりにくかったようで、溜池が必要だった。(場所:静岡市駿河区聖一色14。当神社の北西約160m。駐車場なし。)。
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首塚稲荷神社(静岡市清水区草薙)

2010-10-22 22:14:19 | 神社
首塚稲荷神社(くびつかいなりじんじゃ)(正式には、単に「稲荷神社」。)。祭神:宇迦之御魂神。
場所:静岡市清水区草薙1124。清水有度第二小学校の南東、約300m。駐車場なし。
当神社の創建時期は不明。元は式内社「草薙神社」の境内摂社で、日本武尊東征の折、この地で地方豪族と戦ったときの戦死者の首を埋めた塚であるといい、北側の谷に流れる小川を「血流川」という、とされる。
しかし、「首塚」と称するのには、他にも2つの説がある。1つは、正治2年(1200年)、梶原景時が大内山で戦死した際、乗っていた名馬「磨墨」の首がこの地に飛んできた。また1つは、文明8年(1476年)、今川義忠(今川氏7代目)が急死すると、今川氏親(義忠の子、後の今川氏8代目)とその従兄弟の小鹿範満の2派に分かれて跡目争いが起きた。このとき、有度山東麓を本拠とした矢部一族は小鹿範満に味方して戦ったが敗れ、戦死した遺骨がおびただしく散らばった。これを村民が集めて埋葬し、付近に野狐が多かったことから、稲荷社を勧請して祀ったとする。
現地は予想以上の急坂の上にあり、南側は整然と区画された住宅団地であるが、ここだけ社殿辺りがほの暗くなっている。一方、参拝を終えて境内入口に出てくると、北側が開けていて、見下ろす眺めがとてもすばらしい。なお、当神社の北側に「草薙杉道」という地名があるが、これは当神社の杉に因んだものという。


写真1:「首塚稲荷神社」入口


写真2:稲荷神社の定番、赤い鳥居のトンネル


写真3:社殿


写真4:境内入口前からの眺望(北側)。見下ろしたところに、古代~近世の東海道、現代の国道1号線(静清バイパスも)、東名高速、JR東海道線・新幹線、静岡鉄道線などが通っている。正面が梶原山(牛谷山)で、5~7世紀の豪族の古墳が集中する「瀬名古墳群」があるところ。
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草薙神社の古宮

2010-10-19 20:38:40 | 史跡・文化財
草薙神社の古宮(くさなぎじんじゃのふるみや)。
場所:静岡市清水区草薙1-18-12。県道407号線(静岡草薙清水線、通称:南幹線)沿い、「草薙駅前」交差点近くにある「静清信用金庫草薙支店」の裏。「コーポオーロラ」というマンションの敷地内にあるようだ(参拝はお静かに。)。入口近くに案内板がある。駐車場なし。
式内社「草薙神社」の社伝によれば、日本武尊の死後、父の景行天皇が東国巡幸して日本武尊の事蹟地を訪ねた際に、同神社が創建されたという。そして、天皇の御幸地であることから、この地を「天皇原」と称し、元の社地はここにあったとされる。その旧社地を「古宮」といい、今も鳥居、石祠、2本の樹木で、その位置を示しているという。
なお、社伝では、現在地に遷座したのは、葦毛の馬が近くを通ると必ず落馬した、という怪異があったためで、平安時代のこと、とする。しかし、棟札によれば、徳川家康の命により、天正18年(1590年)に社殿が造営されており、同年に現在地に移転した記録もあることから、現在地への遷座はそのときであろう、ともいわれている。
なお、「古宮」の南、約300mのところに「瓢箪塚古墳」(西ノ原1号墳)がある。その名の通りきれいな形を残す、全長約40mの前方後円墳で、未発掘のため詳細は不明であるが、6世紀初め頃の築造で、「廬原国」の首長クラスの墳墓ではないかといわれている。これも、草薙神社の創建に何らかの関係があったのではないか、とも思われる。


写真1:式内社「草薙神社」古宮


写真2:同上(石祠)


写真3:近くに「天皇原公園」という公園もある(場所:静岡市清水区草薙3-121-1。「南幹線」に面する大鳥居から通称「草薙神社通り」を約200m南に進んだ交差点のところ。)。


写真4:「瓢箪塚古墳」(場所:静岡市清水区谷田307(「ひょうたん塚公園」の住所)。「清水草薙郵便局」の向かい側)
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草薙神社(駿河国式内社・その9)

2010-10-15 22:41:10 | 神社
草薙神社(くさなぎじんじゃ)。祭神:日本武尊。
場所:静岡市清水区草薙349。県道407号線(静岡草薙清水線)「草薙駅前」交差点のの北東にある次の交差点のところ(スーパー「しずてつストア草薙店」の向かい側)に、道路を跨ぐ大きな鳥居がある。その下を通って道なりに(南東へ)登っていくと、約1.2kmで到着。駐車場あり。
当神社の創建にも日本武尊東征時の伝承が関係している。古事記と日本書紀では多少の異同があるが、「駿河国(古事記では相模国)で、日本武尊は国造に欺かれて草原に誘き出され、野火に囲まれてしまう。しかし、天叢雲剣で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くした。」という説話が語られる。そして、その地が「焼津」と呼ばれるようになった、と続くわけだが、当神社では「草薙」の地であるとする。そして、日本武尊の父である景行天皇が東国巡幸の折、「天皇原」(「草薙」駅の東側の平野、大きな鳥居のある周辺)の西に1社を創建し、「草薙」の故事に因んで天叢雲剣から草薙剣に改称された剣を祀ったとされる(景行天皇53年(123年))。これが当神社であるが、葦毛(灰色)の馬が社前を通ると必ず落馬したので、平安時代に現在地に遷座したという。
また、社伝によれば、元の祭神は草薙剣そのものであったが、朱鳥元年(686年)に熱田神宮に移されたので、以後は日本武尊を祭神としたともされる。
だいたい、相模国は論外としても、草薙と焼津でも随分離れている。クサナギ神社だけでも、式内社「久佐奈岐神社」と「草薙神社」があるのはどういうことか。日本武尊を欺き、逆に征伐されたのが「国造」ということで、これはつまり、ヤマト王権に敵対する地方豪族だったということだろう。もともと「廬原」の豪族は日本武尊に征伐されて、ヤマト王権に服属するようになり、その従順を示すために日本武尊を祀る神社を創建したのだろう。
また、「草薙」も「焼津」も元は海人族が支配していたが、焼畑技術を持つ農業中心のヤマト政権に取って代わられた、ということではないか、とする説もある。


玄松子さんのHPから(草薙神社):http://www.genbu.net/data/suruga/kusanagi2_title.htm


写真1:県道に面した巨大な鳥居。


写真2:「草薙神社」境内入口(北側)の鳥居。


写真3:日本武尊の像


写真4:社殿正面(東向き)
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