矢の根石(やのねいし)。
場所:栃木県那須郡那須町蓑沢。栃木県道60号線(黒石棚倉線)から同76号線(伊王野白川線)の分岐から、76号線を北東へ約4.4km。駐車場なし。
「矢の根石」源義経一行が奥州から鎌倉に向かう折に当地に差し掛かり、弁慶が「わが願い吉ならば、この石に立てよ」といって矢を道の傍らにあった大きな石に突き立てると、矢の根(鏃)が石に食い込んだというもの。いくら矢の根が金属でも、矢を押し込んでも石に突き刺さるはずはない。要は、弁慶の超人的な力に加え、奇跡によって吉の占いを得たことを示したものと言える。ただ、治承4年(1180年)、兄・源頼朝の挙兵に参加して、平家との戦いに活躍したものの、文治5年(1189年)には頼朝のために殺されることになったのは、果たして「吉」だったのか...。さて、伝説の「矢の根石」は、道路改修の時に埋められてしまったが、平成24年に復元されたものという(なお、元の「矢の根石」は道路の反対側にあったらしい。)。
蛇足:「矢の根」は鏃・矢尻(やじり)ともいい、矢の先端に取り付けた尖った利器をいう。「矢の根石」というとき、縄文~弥生時代に使われた石鏃(せきぞく)を指す場合や、鏃が突き刺さったような傷や穴がある石を指す場合などがある。当地の「矢の根石」は後者で、義経・弁慶の伝説に結び付けたものと思われる。それでも、どのように矢の根が刺さっていたのか、現物が無くなってしまったのは、とても残念なことである。それにしても、実際に鉄の矢を石に突き刺したオブジェを「復元」というのは、なかなか面白い。
写真:「矢の根石」
弁慶下駄掛石(べんけいげたかけいし)。単に「弁慶石」ともいう。
場所:栃木県那須郡那須町睦家。国道294号線・栃木県道60号線(黒磯棚倉線)「伊王野」交差点から南西へ約1km、北那須広域農道(りんどうライン)との交差点の西角。駐車スペースあり。
「弁慶下駄掛石」は、治承4年(1180年)、源義経一行が鎌倉に向かう途中、弁慶が道の傍らの大きな石を指さして、「この石は、那須山(茶臼岳)で修業していたとき、下駄に挟まった石だ。取ろうとして軽く蹴ったら、ここまで飛んできた」と話し、一同大笑いしたという伝説による(因みに、茶臼岳からは直線距離で約25kmある。)。ただし、昭和初期まで現存していたが、道路の拡張工事の支障となって撤去されたとのことで、現在の「弁慶下駄掛石」は平成23年に復元されたもの。幅3m・奥行き2m・高さ1.2mで重量は約10トンという。また、傍らの鉄下駄は1足約12kgあるとのこと。
義経がこの道を通ったということで「義経街道」という石碑も建てられているが、元々、古代官道「東山道」は現・栃木県大田原市湯津上付近から那珂川右岸(西岸)に沿って概ね国道294号線のルートで北上したとされ、当地付近に「黒川」駅家があったといわれている。具体的な場所は不明だが、「弁慶下駄掛石」の北東約1kmの奈良川と三蔵川の合流点辺りが有力で、現在は対岸に道の駅「東山道 伊王野」があって、道の駅の名に「東山道」が冠されているのは、そのことに因む。
写真1:「弁慶下駄掛石」
写真2:同上
写真3:「義経街道」石碑
写真4:鉄下駄。横の説明板の文字が消えてしまっているが、「この下駄に触れると浮気をしなくなるといわれている」と書かれていたようだ。なぜ、浮気が?
写真5:「弁慶下駄掛石」。
矢筈石(やはずいし)。別名:弓弦石(ゆづるいし)。
場所:茨城県日立市折笠町987-1(「折笠スポーツ広場」内、入口から入ってすぐ。)。国道6号線「折笠」交差点の南、約130mのところ(案内看板あり。)で北西へ、約270mの分岐では左(南西へ)、道なりに西へ約800m、交差点を右折(北東へ)、約50m。駐車場あり。
「矢筈石」は、八幡太郎こと源義家が奥州征伐(「後三年の役」(1083~1087年))に向かった折に、弓矢を射かけて真っ二つに割ったという伝説の石である。矢筈は矢の末端で弓の弦を受ける二股になった部分をいい、石が二つに割れている様が矢筈に似ているのが由来とされる。「折笠スポーツ広場」ができる前は、近くの田圃の中にあったという。義家が奥州征伐に向かう際に大軍を率いて常陸国を通ったとされ、各地に義家にまつわる伝説がある。類型の1つは「在地の長者から厚いもてなしを受けたのに、その長者一族を滅ぼしてしまった」という話で、現・茨城県水戸市の「一盛長者」の伝説など(「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照)。もう1つは義家の超人伝説ともいうもので、「太刀割石」(2020年4月4日記事)が典型だろう。「矢筈石」は後者の例だが、こうした例が現・茨城県北部に多いのは、常陸国久慈郡(現・茨城県常陸太田市)を本拠地として長く北関東を支配した佐竹氏が清和源氏の名門で(義家の弟・義光が佐竹氏の祖に当たる。)、一族の英雄譚を広めた側面もあるとみられる。
蛇足:当地の地名「折笠」(旧・折笠村)というのも、義家が軍勢を集め、当地で笠を脱がせたということに因むという。また、「折笠スポーツ広場」入口の向かい側にある「八幡宮跡」は、義家が滞在した場所であるという伝承もあるらしいが、詳細不明。なお、折笠村の鎮守は「天満宮」で、明治43年に村内の無格社八幡神社を合併したとされるので、その旧跡だろうか。
写真1:「矢筈石」。巨石だが、正面からみれば、なんてことはない石。説明板があるのだが、殆ど読めない状態。
写真2:同上
写真3:横に回ると、大きな割れ目が。
写真4:同上。割れ目が反対側まで。
写真5:「八幡宮跡」
写真6:同上、石碑。
八幡太郎の手割石(はちまんたろうのてわりいし)。
場所:茨城県日立市南高野町36-1(「(南高野)鹿島神社」の住所)。「日立南高野郵便局」の向かい側(東側)に「みなみこうや第二児童公園」があり、その南東側から2ブロック(約60m)東に進んで左折(北へ)、約40m。駐車場なし。
「八幡太郎の手割石」は、昔、南高野村字宿地内の旧街道の路傍に饅頭型の大きな石があって、道をふさいでいた。八幡太郎こと源義家が奥州征伐(「後三年の役」)に向かう折に、邪魔な石を太刀で3つに斬ったというもの。現在、2つしか残っていないが、中の石は瀬上川の用水路の落ち水受けとして使われたという。残った2つの石は、道路工事のため移動させられ、平成15年に「(南高野)鹿島神社」境内に移されたとのこと。「太刀割石」(2020年4月4日記事)と同様で、こちらは石のスケールが小さいが、それでもこれほどの石をきれいな断面で斬るという義家の超人的な伝説となっている。また、「旧街道」というのは、「金井戸」(現・日立市久慈町)から「大甕神社」(2019年11月16日記事)へ向かう道路で、現道でいえば通称「一本松通り」だろうか。「宿」という字名のほか、近くに長者屋敷伝説もあるそう(詳細不明)で、石を斬ったかどうかは別にして、義家が実際に通ったのかもしれない。
(南高野)鹿島神社。
社伝によれば、大同2年(807年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請し、茂宮川下流の後瀬鹿島に創建。寛永6年(1629年)、一村一社の鎮守として「鹿島明神」となり、元禄8年(1695年)、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の命により一時、「大甕神社」の末社となった。明治6年、村社に列格。同12年、現社地に遷座した。現在の祭神は武甕槌命。
写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標
写真2:「八幡太郎の手割石」。鳥居の脇にある。
写真3:同上
写真4:同上。背後から。切断面?がよくわかる。
写真5:参道。何の木かわからないが、不思議な肌をした木があった。
写真6:拝殿
写真7:本殿
御腰掛石(おこしかけいし)。
場所:茨城県ひたちなか市和田町3-1-27。「海洋高校」正門前。駐車場なし。
天満宮(てんまんぐう)。通称:那珂湊天満宮。
場所:茨城県ひたちなか市湊中央1-2-1。茨城県道6号線(水戸那珂湊線)・同108号線(那珂湊大洗線)「湊本町」交差点の北西、約100mの信号機がある交差点を左折(南西へ)、約170mで右折(北西へ。通称「元町通り」を進む。)、約170mで左折(南へ)、約70m進むと正面が鳥居。駐車場は右折(西へ)約160m。道路が入り組んでいて狭く、一方通行もあったりするので、わかりにくい。なお、鳥居の東側の道路から「華蔵院」(前項)駐車場に行ける(ただし、狭い道路なので注意)。
社伝によれば、鎌倉時代、海上に様々の奇瑞があったところ、湊村和田の漁師・金兵衛が海岸の岩の上に光るものを見つけると、それは十一面観世音菩薩像であった。湊村の鎮守「柏原明神」(現・「橿原神宮」(次項予定))の神託を受けると、観音像に梅鉢紋があったので、それは天神様(天満大自在天神)=菅原道真公であるとされた。そこで、時の領主が「北野山 満福寺 泉蔵院」を別当寺として創建し、この観音像を御神体として祀ったのが創祀であるとする。なお、現・岩手県宮古市の真言宗「玉王山 長根寺」旧蔵の文和5年(1356年)銘がある「大般若波羅密多経巻」に「執筆 常州吉田郡那珂湊天神別当坊住侶」とあり、少なくとも南北朝時代には当神社が存在し、東北地方とも交流があったことがわかるという。このように、創祀から長らく神仏混淆だったが、元禄年間(1688~1704年)、第2代水戸藩主・徳川光圀の寺社改革(神仏分離)により、新たに菅原道真公の神像を造らせて御神体とし、別当を「柏原明神」社守に改めた(御神体だった十一面観音像は江戸の水戸徳川家上屋敷内の「後楽園」(現・東京都文京区、「小石川後楽園」)に移された。また、「泉蔵院」は「華蔵院」(前項)門徒寺として存続したが、天保年間(1830~1844年)に廃寺となったという。)。以降、「柏原明神」とともに湊村の鎮守として、歴代藩主の崇敬が篤かった。その後、幕末の「天狗党の乱」、太平洋戦争の「日立空襲」(昭和20年)、「那珂湊大火」(昭和22年)にも被災しなかったが、昭和47年に不審火により拝殿が焼失、その後再建された(本殿は無事で、享保年間(1716~1736年)のものとされる。)。
さて、最初に御神体(観音像)が出現したという石は、「御腰掛石」として現存している。当神社の5畝(150坪=約495㎡)の飛地境内として元は現・和田町の浜辺にあったが、河川や道路の工事等により現在地に移転した。当神社の御祭礼である「湊八朔祭り」(ひたちなか市指定無形民俗文化財)は、海から御神体が現れた伝説に基づいて神輿を海に担ぎ入れるという「浜降り」儀式であり、「御腰掛石」の場所も「旧お腰掛」と称して神輿が下ろされる「御旅所」の1つとなっている。かつては浜にあり、木製鳥居も設置されていたが、「御腰掛石」自体は砂に埋もれてしまうので、祭礼の際に掘り出すのが通例だったという。漂着神(寄神)といって、海から神がやってくるという信仰は各地にあるが、なかなか面白い事例ではないだろうか。なお、一説に、旧・御神体の観音像が降臨したのは平らな磯で、その後「金兵衛磯」と呼ばれたとされ、現在の「御腰掛石」とは別のものともいう。確かに、現存のものは上が丸くなっていて、観音像を安置するには向いていないような気がする。丸い石を「魂」に見立てて祀ったものかもしれない。
蛇足:那珂湊「天満宮」の御神体は約25cm、束帯姿の木製坐像であるとされる。当然ながら、菅原道真公の像なのだが、実は徳川光圀自身の像であるとの噂があったらしい。光圀はまだ第2代藩主で、水戸藩への反感もあったので、光圀に対して敬礼させようという意図ではないか、というものである。本殿の神座扉に徳川家の葵紋が使われていることなどから、そのような風説が立ったようであるが、「天満宮」側としては、それだけ水戸藩の崇敬が篤かったということであり、墟説に過ぎない、と否定している。
写真1:「天満宮」一之鳥居、社号標
写真2:二之鳥居。境内には北側から入り、右へ曲がる。社殿は東向き(那珂湊漁港・太平洋の方向)
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内社「出世稲荷大明神」
写真6:「旧お腰掛」の場所。「天満宮霊座石表」碑が建てられている(明治42年)。
写真7:「御腰掛石」