神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

百体磨崖仏

2020-07-25 23:45:26 | 史跡・文化財
百体磨崖仏(ひゃくたいまがいぶつ)。閑居山願成寺跡(かんきょさんがんじょうじあと)。閑居山大師。
場所:茨城県かすみがうら市上志筑634。茨城県道64号線(土浦笠間線)沿い「やまゆり保育所」前から北に向かう道路に入り、約700mのところ(「県指定文化財 願成寺跡 百体磨崖仏」という案内看板がある。)で左折(西へ)、約800m進んだところが「閑居山」登り口。そこから、徒歩で登山道を約400m。駐車場なし。なお、上記案内看板から先の道路は「国立研究開発法人 森林総合研究所」の敷地内となるらしく、道路からフェンス、ロープ内には立入禁止とのことで、要注意。
「閑居山」(標高227m)は古くは「志筑山」と呼ばれ、風光明媚なことから古歌にも歌われた山で、山腹に花崗岩の巨石が露出している。その巨石の表面に薄肉彫で観音像などが百体以上彫られている。俗に「百体観音」とも呼ばれるが、観音菩薩のほかに、地蔵菩薩、不動明王、如来なども彫られている。「閑居山」の南麓(上記「森林研究所」建物の西側辺り)には、「志筑山 惣持院 願成寺」という寺院跡があり、筑波山などを開山したといわれる僧・徳一、または空海(弘法大師)が開創したとの伝承がある。山腹に「金掘穴」という岩屋(岩穴)があり、ここで空海が閑居した(俗から離れて瞑想した?)ということから「閑居山」というようになったともいわれるが、かすみがうら市のHPによれば、江戸時代に志筑藩藩主・本堂家の祈願寺であった真言宗「華蔵院」の僧が隠棲したため「閑居山」と呼ばれるようになったとされている。「百体磨崖仏」の彫られた時期については、「願成寺」中興とされる鎌倉時代の僧・乗海の作とされるが、様式などから室町時代から江戸時代の作とみられるものも多いようである。昭和38年、茨城県指定文化財に指定。


茨城県教育委員会のHPから(百体磨崖仏)


かすみがうら市のHPから(百体磨崖仏)


写真1:登山道入口にある「茨城県指定文化財 百体磨崖仏」石碑


写真2:「常陸國霊峯雫 閑居山願成寺 開山 徳一聖人 弘法大師」石碑


写真3:苔むして上りにくい石段。この辺りの仏像は最近のものらしく、何となく不気味。


写真4:五輪塔


写真5:「金掘穴」。奥行15mとあるが、奥に進むのは怖い。


写真6:同上。その名の通り、金鉱脈を探した跡と思われる。


写真7:こんな感じで、多くの岩に彫られている。


写真8:「百体磨崖仏」。彫りが浅いこともあり、かなり薄れてきている。
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師付の田井

2020-07-18 23:16:16 | 史跡・文化財
師付の田井(しづくのたい)。
場所:茨城県かすみがうら市中志筑3042-2。茨城県道64号線(土浦笠間線)と同138号線(石岡つくば線)の「中志筑」交差点から、138号線を北東~東へ約500m、押しボタン式信号のある交差点を左折(北へ)、約350mのところ(案内看板あり)で左折(北西へ)、約190m進んで突き当り(案内看板あり)を左折(西へ)、約220mで駐車場(県道から入った道路は狭いので通行注意)。駐車場から畦道を北に約120m。
「師付の田井」は、現在のかすみがうら市志筑地区の北側、恋瀬川(古代には信筑川)下流一帯の水田の中にある泉で、奈良時代の万葉歌人・高橋虫麻呂の歌にその名が出てくる。即ち、「草枕 旅の憂を 慰もる こともあらむと 筑波嶺に 登りてみれば 尾花散る 師付の田井に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の 吉けくを見れば 長き日に 思ひ積み来し 憂は息みぬ」(萬葉集 巻9 1757、読み下し文)。高橋虫麻呂は地方官人として常陸国に下り、常陸国の国司であった藤原宇合の下僚として「常陸国風土記」の編纂にも関わったという説がある。ということで、この歌は、都から遠い常陸国に派遣されてきたことでのストレスを筑波山に登れば晴れるかもしれないと思い、山上から見下ろしたところ、「師付の田井」や「新治の鳥羽の淡海」(いわゆる「騰波ノ江(とばのえ)」の湖)の秋の風景が眺められ、長年の憂いから解放された、というような内容となっている。
当地は、昭和48年以前には「鹿島やわら」と称され、湿原の中央に底知れずの深井戸があった。耕地整理によって景観が変わってしまったというが、記念の石碑も建てられ、元の深井戸のあった場所から水を引いて、今も泉になっている。この深井戸には、日本武尊が水飲みの器を落としたとか、鹿島の神(武甕槌神)が陣を張って炊事用に使ったとか、常陸国一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)の御手洗池と繋がっているとか、いろいろな伝説があったようだ。
因みに、県道から当地に向かって入ってきた道路の東側に「志筑城跡」があり、西側に曹洞宗「鳳林山 瑞雲院 長興寺」がある。「志筑城跡」は、中世~近世に出羽国山本郡(現・秋田県仙北郡)の小領主であった本堂氏が佐竹氏の転封と入れ替わりに当地を領し、その陣屋(当時は1万石に満たないため旗本だった。)があった場所であり、「長興寺」は本堂家歴代の菩提寺であったという(出羽国の「本堂城跡」については2015年12月5日記事参照)。


かすみがうら市のHPから(師付の田井)


写真1:田圃の中の「師付の田井」


写真2:同上、駐車場からの道。水田の先に恋瀬川が流れ、奥に見える丘が縄文時代中期~奈良時代の大集落跡「宮平遺跡」(現在は「常陸風土記の丘」公園になっている。)という位置関係。


写真3:同上、説明板


写真4:説明板に隠れるようにして「師付の田井」石碑


写真5:同上、石祠


写真6:同上、井戸
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中根長者の屋敷跡(茨城県かすみがうら市)

2020-07-11 23:18:46 | 史跡・文化財
中根長者の屋敷跡(なかねちょうじゃのやしきあと)。
場所:茨城県かすみがうら市下土田1413(「往西寺」の住所)。 国道6号線「下土田北」交差点から西に入ってすぐ(約25m)右折(北へ)、道なりに西へ約260mのところ(「往西寺 この先左折→」という案内看板がある。)で右折(北~北東へ)、約40mのところに石段の参道がある。自動車はそのまま進んで、案内看板のところを左折(西~南西へ)して約140m。駐車場有り。
「中根長者の屋敷跡」は、中根与衛門という豪族の屋敷跡という中世城館跡である。佐竹氏第19代当主・佐竹義宣は、天正18年(1590年)に水戸城(現・茨城県水戸市。城主・江戸氏)、府中城(現・茨城県石岡市。城主・大掾氏)を相次いで攻め落とし、次いで小川城(現・茨城県小美玉市。城主・小田氏方の薗田氏)を攻撃しようとした。その軍資金として、中根与衛門に対し、知人の野寺孫三郎(現・かすみがうら市下土田の西隣、同市西野寺に館があった。)を介して、金三千両を用立てするように命じた。元々、小田氏に恩顧のあった与衛門は、野寺が佐竹氏に滅ぼされた大掾氏の家臣だったこともあり、野寺の変節を詰り、軍資金の用立てを拒絶した。怒った佐竹氏が討手を差し向けたところ、与衛門の徳を慕った付近の農民らの助勢を断り、与衛門自身と小者数名で立ち向かい、討ち死にしたと伝えられている。その後に作られた与衛門の財産目録によれば、農具150人分、馬12頭、牛3頭、千石酒屋1軒、土蔵8棟、板鞍3棟、金蔵1棟のほか、刀30腰、槍20筋もあったという。「中根長者」の出自は明らかではないが、「〇〇長者」というと、ついつい古代官道の駅家の駅長出身者ではないかと思ってしまう。場所的に、「常磐自動車道」千代田石岡ICの直ぐ近くで、常陸国式内社「羽梨山神社」又は「夷針神社」の論社とされる「子安神社」(2018年12月29日記事)や「胎安神社」(2019年1月5日記事)にも近い。ただし、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)に近過ぎる(直線距離で約3.3km)のが難で、相当する駅家がない。とはいえ、「常陸国府」に付属して駅家の機能を有する官衙があった可能性があり(一部の学者は「国府」駅または「茨城」駅を想定している。)、その長の出身かもしれない。他の長者伝説に比べると、少し時代が下るのも気になるところだが、村上春樹著「平将門伝説ハンドブック」(2005年)によれば、「中根家(新治郡千代田町土田)」の項に、「この家の遠祖を中根与右衛門之丞平佐幹といい、平貞盛・藤原秀郷の連合軍に属して、猿島郡石井で平将門を討ち取った」(一部省略・改変)という伝承があると記載されている。これが佐竹氏に滅ぼされた中根長者の先祖とすると、中根長者の本姓が「平」(平氏の一族)であり、「丞(じょう)」というのが国司の三等官(通常は「掾(じょう)」)を示すものではないか、更に、武人として将門討伐軍にも加わった。つまり、単なる土豪や戦国時代に急成長した富農ではなく、元は貴族の末裔なのかも、とも想像される(個人的な妄想です。)。
なお、「中根長者の屋敷跡」には、現在、浄土真宗本願寺派「往西寺」があり、訪問時には南側の崖にしか目が行かなかったが、世の中には古城ファンというのが多いらしくて、そのブログもいくつもある。それらによれば、元は周りに土塁や堀を廻らせてあったようで、今もその痕跡が残っているらしい(小生には、その方面の興味があまりなかったので、写真を撮っていない。)。
因みに、「往西寺」については、江戸末期、当地を治めていた志筑藩(藩主・本堂氏)は小藩(江戸時代には旗本で、明治時代に入ってからのごく短期間、大名となった。)で、北越地方の農民に移住してもらい、新田開発を進めた。北越地方の人々には浄土真宗の信者が多く、同宗の寺院の建立を求める声が多かった。そこで、「西本願寺」から許可をもらい、古い仏堂を譲り受けて、摂津国(現・大阪府)から釋真誠という僧侶を招いて天保2年(1831年)に創建したとのこと。


写真1:台地上の「中根長者の屋敷跡」。南側から見る。


写真2:南側、「往西寺」参道石段と寺号標。


写真3:「往西寺」境内入口


写真4:同上、門を入ってすぐ、「町指定文化財 中根長者の屋敷跡」碑(当時、千代田町だった昭和48年に指定)


写真5:同上、本堂
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東平遺跡(茨城県笠間市)

2020-07-04 23:48:39 | 古道
東平遺跡(ひがしだいらいせき)。推定安侯駅家跡(すいていあごのうまやあと)。
場所:茨城県笠間市安居338-1外。茨城県道30号線(水戸岩間線)と同43号線(茨城岩間線)の「土師T字路」交差点から、43号線を東に約3.2km。常磐自動車道の高架下を抜けた先の一帯。駐車場なし。
「東平遺跡」は、涸沼川右岸(南岸)の河岸段丘の台地上(標高約16m)にある、縄文時代中期~弥生時代~古墳時代~奈良時代~平安時代に亘る遺跡。古くから集落が形成されてきた地域であるが、その地名「安居(あご)」から古代官道の「安侯駅家」の推定地とされていた。古代東海道は常陸国府(「常陸国府跡」2018年1月6日記事)が終点であるが、そこから更に北へ向かう官道があった。それは、「続日本紀」養老3年(719年)記事に見える石城国(後に陸奥国に編入。現・福島県)に置かれた所謂「海道十駅」に連絡する道路で、「日本後記」弘仁3年(812年)条の「常陸国の安侯・河内・石橋・助川・藻島・棚島の6駅を廃し・・・」(現代語訳)記事で、その官道上の駅家が廃止されたことがわかる(陸奥国海道十駅は前年に廃止。)。なお、「河内駅家」は「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)の台地の下にあったとされ、「藻島駅家」は「長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」(2020年2月22日記事)として跡地が発見されている。ところが、いったんは廃止された「安侯駅家」であるが、「延喜式」 (延長5年(927年)成立) には「河内駅家」とともに「安侯駅家」も掲載されているので、時期不明ながら、復活したらしい。
さて、当地の北、約1.2kmのところ(笠間市長兎路と仁古田の境)に「五万堀古道遺跡」という古道跡があり、八幡太郎こと源義家が「後三年合戦」で奥州に向かうため5万人の兵士を率いて通ったとされる伝承があった。平成10年に発掘調査が行われ、8世紀前半頃に造られた両側にU形の溝のある幅6.2〜10mの直線道路遺構(約280m)が確認され、その先をそのまま北東方向に延長すると「河内駅家」推定地である茨城県水戸市渡里町に至ることから、「東平遺跡」が「安侯駅家」跡である可能性が高まった。その翌年の平成11年には、「東平遺跡」内の民家庭先から、「騎兵長十」と読める墨書土器が出土した。弓矢で使う雁股式鉄鏃も発掘され、駅家に付属する軍団等の存在が推定された。その後、本格的な発掘調査が行われ、「版築基壇(はんちくきだん)」という土を突き固めた土台を持つ礎石建物跡や、掘立柱建物2棟なども発見された。出土品としては土師器、須恵器などもあるが、長さ約8m、幅約2m、厚さ約15cmという炭化米の層が見つかったという。これは、建物が穀倉だったと推定され、建物の大きさなどからみて、律令期の「法倉」と呼ばれるものに相当するものとされた。ということで、「安侯駅家」跡と断定するまでには至っていないようであるが、まず間違いないと思われる。
因みに、例によって、当地にも長者伝説がある。当地には「あずま長者」(または「持丸長者」)がいて、源義家が奥州から都に帰る途中で長者屋敷に立ち寄った。長者は豪華な御馳走を出して義家一行をもてなした。出発の時になって雨が降り出して、なかなか降り止まなかったところ、直ぐに5万人分の雨具を用意して差し出した。義家は礼を言って出立したが、このような豪族をこのままにしておいたらやがて災いを起こすかも知れない、今のうちに滅ぼしておいた方がよかろう、として途中で引き返し、長者屋敷を焼き討ちにした、というものである。同様の伝説のことは、上記の「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)でも書いた。当地でも古くから炭化米が出土していたことによるものだと思われる。なお、中世には、当地は龍崎氏の知行地で平内三郎という「富有人」がいたとされる(永享7年(1435年)の古文書による。)。「あずま(持丸)長者」との関係は不明だが、「東平遺跡」の南東約800mのところ(南川根郵便局の西側辺り)に「下安居堀之内館(しもあごほりのうちやかた)」という中世城館跡があり、龍崎氏または平内三郎の居館と推定されているようである。平内三郎が「富有人」になったのは、古代官道と涸沼川の通行関税を得ていたから、とされる。
それにしても、古代官道は、現代の高速道路を造るときに発見されることが多いといわれるが、まさにこの辺りは「常磐自動車道」に沿っていて、感心させられる。


笠間市のHPから(安侯駅家推定地)


写真1:「東平遺跡」。今は畑で、遺跡を示すものは何もない。県道から北側を見る。なお、涸沼川の右岸(南岸)にあり、ここから東に向かうと「平津駅家」想定地(茨城県平戸町付近)に至る(なお、「大串貝塚」(2018年7月14日記事参照))。


写真2:同上


写真3:県道の南側にある「山倉神社」。塚原古墳群第4号墳(山倉神社古墳)上にある。南側から道路を建設していく際の目印としたのではないかという説もある。


写真4:「山倉神社」社殿。祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命・須佐之男命・猿田彦命。偶然かもしれないが、道案内の神である猿田彦神が祀られているのが意味ありげである。


写真5:「山倉神社」の南、約140mの交差点にある供養碑。道標ともなっていたようで、古くから交通の要所になっていたらしい。なお、「騎兵長十」の墨書土器が出土したのは、この石碑の裏手(南東)辺りのようである。
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