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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

沓掛ノ大欅

2024-12-28 23:33:41 | 巨樹
沓掛ノ大欅(くつかけのおおけやき)。
場所:茨城県坂東市沓掛 843-1。茨城県道20号線(結城坂東線)と同24号線(土浦境線)の「沓掛南」交差点から北西へ約230m、「西村南」交差点を左折(南西へ)、約95m。「アイン薬局 坂東沓掛店」の背後にある。薬局の南側に「神明社」の参道があり、その前に駐車スペースあり。
「沓掛ノ大欅」は、現・坂東市の「神明社」の御神木で、大きさは幹周り約8.5m、樹高約30mというケヤキの巨樹。樹齢は不明だが、一説に約800年という。主幹の中央部が枯死しており、過去の台風により大きな幹が折れて横に伸びているなど、状態は良くないようだが、葉が茂り、今も健在に見える。このケヤキが生えている場所は周囲より一段高くなっているが、これは古墳の墳丘上にあるからだといわれてきた。ただし、その形状は東西約40m・南北約30mの概ね楕円形で、周囲の宅地・農地化により変形しているため、古墳とは断定できない。平成元年に発掘調査が行われたが、古墳時代の遺物は発見されなかった。しかし、周囲は「神明遺跡」という先史時代からの遺跡で、貝塚や石器・土器類が出土しているという。
伝説によれば、神代の昔、利根川上流の住民が移住のため東に向かっていると、遠くに多くの星が落ちるのが見えた。行ってみると、樹木の生い茂る丘があり、前面(南方)には清らかな沼沢地が広がっていたため、そこに定住することにした。ところが、星の毒気に当てられて、樹木はどんどん枯れていってしまった。その中で唯一残ったのが、この大ケヤキだったので、この木を神として祀ったのが現在の「神明社」であるという。現在の祭神は、天疎向津比売命(アマサカルムカツヒメ)。天疎向津比売は、諸説あるが、一般には天照大神の荒魂とされる。当神社では、元は神一般を「神明」として祀ったと思われるが、後に「伊勢神宮」から勧請された神社を「神明社」と称するようになったことにより祭神とされたものと思われる。


写真1:「神明社」鳥居


写真2:鳥居横の「天然記念物 沓掛の大ケヤキ」石碑(昭和7年に茨城県の天然記念物に指定)


写真3:「神明社」社殿


写真4:「神明社」背後の「沓掛ノ大欅」。北西側から見る。


写真5:同上、根元。


写真6:同上、南東側から見る。


写真7:同上、根元。


写真8:「神明社」社殿背後から見上げる。
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佐久の大杉

2024-03-09 23:32:38 | 巨樹
佐久の大杉(さくのおおすぎ)。
場所:茨城県石岡市佐久622。「瓦会小学校」校門前から西へ約150mのところ(佐久集落への案内看板が出ている。)で左折(南~南西へ)、約1.1km。「佐久農村集落センター」の奥に「鹿島神社」が鎮座。駐車スペース有り。
「佐久の大杉」は、石岡市佐久集落の中央部にある杉(スギ)の巨木で、樹高約20m、目通り幹囲約8.8m)、推定樹齢約1300年とされる。伝承によれば、「大化の改新」(645年)の頃、大和朝廷からこの地に派遣された国司の後裔が手植えした杉であるという。応永34年(1427年)に神社が創建されたとき「すでに千年に近い杉」といわれていて、元禄16年(1704年)に武甕槌尊を祭神に迎えて「鹿島神社」となったときには「千年を越す巨木」といわれたとのこと。よって、「鹿島神社」の御神木ではあるが、神社の創建よりもはるかに古くから存在したことになる。当地の南、約500mのところに4世紀後半~5世紀初頭頃の前方後円墳「佐自塚古墳」、当地の北、約200mのところに「佐久上之内遺跡」・「佐久松山遺跡」(古墳時代の豪族居館跡らしき方形濠跡や奈良~平安時代の集落跡など)があり、「鹿島神社」境内からも皿・坏など供献用の須恵器が発見されていることから、当地は元々、古代社会において祭祀を執行する神聖な場所であったと考えられている。近代でも、太平洋戦争中には、兵士が武運長久を祈願し、樹皮をお守りにして戦地に赴いたという。
昭和16年に茨城県指定天然記念物に指定されたが、昭和41年の台風により、枯損していた上部10m程が倒壊してしまったので、元は約30mの高さがあったことになる。「八郷町誌」(昭和45年)では「余命いくばくもないのが惜しまれている」とまで書かれていたが、その後、地域住民らが立ち上がり、平成9年度から樹勢回復事業を開始し、土壌改良に加え、枝受けの銅管支柱や避雷針、見学用歩路などが設置されるなど、今も大事に保護が続けられている。
蛇足:「佐自塚古墳(さじづかこふん)」(場所:石岡市佐久170外)は墳丘長58m、後円部直径35m・高さ6m、前方部幅27m・高さ4.3m。昭和36年に発掘調査が行われ、不規則な透かしを持つ器台系円筒埴輪が検出されたほか、埋葬施設として後円部墳頂中央に全長約6mの粘土槨が確認された。その中に、勾玉・管玉・竹櫛・土師器の壺などが見つかっている。埋葬者は不明だが、伝承によれば、第10代・崇神天皇の皇子で上毛野君や下毛野君の始祖となった豊城入彦命の後裔・佐自努公が当地を治め、「佐自塚古墳」がその墳墓であるとされる。なお、当古墳の南、約550mのところにある「丸山古墳」(2018年10月27日記事)は豊城入彦命の墳墓との伝承があり、当古墳はそれに続く時期の築造とみられる。また、「佐久」という地名も佐自努公が訛ったものという(ただし、「佐」は「狭」で、細長い台地を示す地名とする説が有力。)。


茨城県教育委員会のHPから(佐久の大杉)

石岡市観光協会のHPから(佐久の大杉)

石岡市観光協会のHPから(佐自塚古墳)


写真1:「鹿島神社」正面。祭神:武甕槌尊、御神体は金幣であるという。


写真2:社殿の背後に「佐久の大杉」


写真3:同上


写真4:大杉の片側は白骨化している。


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上


写真8:参道にある「光明真言供養碑」など
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八代の大椎

2022-09-17 23:33:30 | 巨樹
八代の大椎(やしろのおおしい)。
場所:茨城県潮来市上戸1558。国道51号線「稲荷山」交差点から北へ約1.4km。駐車場なし。
「八代の大椎」は、樹齢900年超という椎(樹種としてはスダジイ)の巨樹。「(台上戸)神明神社」の御神木で、昭和8年、茨城県内最大のシイの木として県の天然記念物に指定された。現在では樹高約15m・枝張り約10m・幹回り約10mとされるが、元は樹高約30m・幹回り約20mあったという。明治29年に陸軍参謀本部陸地測量部により、測量視線を妨げるとの理由で幹や枝葉が伐採され、樹勢が衰えた。更に、昭和41年の台風により大きな被害を受け、東側に大きく張り出していた幹が分岐点近くから折れて、枝の広がりは半分ほどになった。平成15年、樹木医が処置を行い、南西部を中心に徐々に樹勢が回復しているという。


茨城県教育委員会のHPから(八代の大シイ)


写真1:「八代の大椎」全景。西側から見る。


写真2:南側に「神明神社」境内入口、鳥居がある。


写真3:根元に石祠、記念碑、「大己貴命」石碑などがある。木の東側は痛みが酷く、確かに元はもっと幹回りが太かったのかもしれない。


写真4:南西側の根元。「茨城縣天然記念木」石碑もある。


写真5:北西側に説明板も設置されている。
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波崎の大タブ

2022-08-13 23:36:09 | 巨樹

波崎の大タブ(はさきのおおたぶ)。別名:火伏せの樹。
場所:茨城県神栖市波崎3355(「神善寺」境内)。国道124号線「波崎総合支所入口」交差点から北東へ約600m進んで左折(北西へ)、国道117号線(深芝浜波崎線)を約1.3km。左側(西側)少し奥に「神善寺」山門が見える。駐車場スペースあり。
「波崎の大タブ」は、樹高15m、周囲8m10cm、樹齢約千年余(平成2年の神栖市教育委員会の現地説明板による。)というタブノキ(椨)の巨樹。樹木の大きさのランキングにはいろいろな考え方があり、基本的には幹周によるのだろうが、それでみても「波崎の大タブ」はタブノキで全国第10位以内には入り、茨城県内では最大クラスとされる。実際に見ると、広がった根張りの上に大きなコブがあり、横に伸びた枝が太く、長い。そのために、データよりも大きく感じる。昭和35年に茨城県指定天然記念物に指定され、「新日本名木百選」(平成2年)に、茨城県では取手市の「地蔵ケヤキ」(2021年10月9日記事)とともに選ばれている。
なお、「火伏せの樹」という別名は、天明年間(1781~1789年)に大火が発生した際、この木が延焼を食い止めたという霊験による。また、太平洋戦争末期の空襲でも、焼夷弾もこの木を避けるように落ち、火災に遭わなかった。このため、現在でも、「神善寺」には家内安全・火魔退散を祈願して護摩を焚く儀式が伝わっているという。

益田山 相応院 神善寺(ますださん そうおういん しんぜんじ)。
寺伝によれば、天喜4年(1056年)、高野山(「金剛峯寺」)から貞祐上人が十二善神を持ち来たり、現在地に開山したという。現在は真言宗智山派に属し、本尊は大日如来坐像(檜材の寄木造りで、室町時代の作と推定。茨城県指定文化財)。また、境内に朱塗りの釈迦堂があり、堂本尊は釈迦涅槃像(檜材の寄木造りで、鎌倉時代作と推定。茨城県指定文化財)。

蛇足:現・神栖市南部(旧・波崎町)は太平洋鹿島灘に東南に伸びた砂洲で、標高5m程度の平坦地が続いているが、古代には、標高のやや高いところが小島のように点在していたようである。当地の地名(字)は「舎利」といって、仏教にいう「仏舎利」(釈迦の遺骨)に因むのかと思うところだが、そうではなく、元は「砂里」だったという。タブノキは暖地の海岸近くに自生することが多く、成長が速くて巨樹になりやすい。古くから船の位置を知る目印になり、木材は船の用材とされた。民俗学者・折口信夫によれば、タブノキは、海を渡ってきた日本人の祖先の漂着地の印、漂着神の依り代だったという。因みに、千葉県香取市の「府馬の大クス」(2014年5月3日記事)も樹種としてはタブノキで、丘の東側の低くなっているところは、古代には海が入り込んでいたと思われ、やはり海上交通の目印になっていたかもしれない(「波崎の大タブ」と「府馬の大クス」とは、直線距離で約18km)。


茨城県教育委員会のHPから(波崎の大タブ)
同(木造 大日如来坐像)
同(木造 釈迦涅槃像)


写真1:「神善寺」山門


写真2:山門を潜ると、すぐ左手に「波崎の大タブ」がある。


写真3:同上、横に伸びた枝が凄い。


写真4:同上


写真5:同上、根元には約60体の大師像が、巨樹に向かって並べられている。


写真6:本堂


写真7:釈迦堂。神栖市指定文化財。

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地蔵ケヤキ

2021-10-09 23:02:10 | 巨樹
地蔵ケヤキ(じぞうけやき)。
場所:茨城県取手市下高井1306(「高源寺」境内)。国道294号線沿いのガソリンスタンド「エネオス 永山SS」のところの交差点から北へ(すぐに関東鉄道常総線の踏切を渡るので、国道6号線方面からなら、手前の「ゆめみ野入口」交差点を左折(南~北へ)して行く方が安全)、道なりに約1.1km、「香取八坂神社」鳥居の手前を右折(東へ)、約110m。駐車場有り。
「地蔵ケヤキ」は、「高源寺」境内にあるケヤキ(欅)の大樹で、目通り幹囲約10m、高さ約15m、樹齢1600年とされている(現地説明板による。)。中心の巨大な幹は、内部が大きく空洞となっているが、これは「高源寺」が火災に遭った際に類焼したことによるものという。その空洞に、いつの時代か不明だが、その名の由来となった石造の地蔵尊が祀られている。空洞が胎内を思わせるせいか、あるいは、今なお葉を茂らせる生命力にあやかろうとしてか、特に安産・子育てに御利益があるとされる。かつては、幹の丸く空いたところを潜ると御利益あらたかといわれたようだが、現在は根元の地面を固めないよう、ケヤキの周囲への立ち入りは禁止されている。

普蔵山 高源寺(ふぞうさん こうげんじ)。
寺伝によれば、承平元年(931年)、平将門が釈迦如来の霊験によって建立したという。当初は真言宗だったが、後に相馬七左衛門胤継とその後裔が当地を治めて開基となり、応安元年(1368年)に鎌倉「建長寺」から住職を迎えて(一説に、夢想国師を開山とする。)臨済宗建長寺派に改宗し、江戸時代に臨済宗妙心寺派に属したという。本尊は釈迦如来。


取手市のHPから(地蔵ケヤキ)


写真1:「高源寺」参道


写真2:山門


写真3:「地蔵ケヤキ」。山門を入って直ぐ、本堂前にある。ケヤキは成長が速く、大樹になりやすいが、それにしても、この幹の太さには驚く。


写真4:欅の中の地蔵像


写真5:幹に空いた丸い穴。山門を入って直ぐ見えるのが、これ。


写真6:本堂


写真7:「地蔵ケヤキ」の横にあるスダジイ。これも大きい(幹回り約5.5m)。他にも、カヤノキ(幹回り約4.4m)とツバキ(ベニカラコ、幹回り約2.0m)の大樹がある。


写真8:「大師堂」。「新四国相馬霊場八十八ヶ所」の第49番札所となっている。
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