白河関跡と白河神社(しらかわのせきあと と しらかわじんじゃ)。
場所:福島県白河市旗宿関ノ森120(「白河神社」の住所)。国道294号線「伊王野」交差点から栃木県道28号線(大子那須線)・同60号線(黒磯棚倉線)で北東へ、約4.2kmで左折して栃木県道・福島県道76号線に入り(白河方面へ)、約9.6km。駐車場あり。
「白河関」は、古代、「東山道」の下野国(現・栃木県)と陸奥国(現・福島県ほか)との国境付近に設けられた関門で、「鼠ヶ関」(「古代鼠ヶ関址」2016年3月12日記事)・「勿来関」とともに『奥州三古関』の1つに数えられている。「類聚三代格」の承和2年(835年)太政官符によれば、「白河・菊多(勿来)の剗(関)を設置して以来400余年」という趣旨の記述が見えるので、5世紀前半頃に設置されたとみられる。「剗」の字が使われているが、これは、江戸時代の関所のように旅行者を改め、取り締まるというよりは、東北地方の蝦夷が南下してくるのを防ぐために設置され、柵や土塁などを備えた軍事施設であったようである。よって、ヤマト政権による東北地方支配が進むと、その機能は失われ、平安時代末期頃には廃関になったとされる。しかし、古くから文人らの憧れの地となり、歌枕として、多くの歌や俳句に詠まれている。俳人・松尾芭蕉も「おくのほそ道」紀行で、「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」と記している。ただし、芭蕉が当地を訪れたときには、実際には関がどこにあったのかすら分からない状態だったらしい。これを現在の場所に特定したのは白河藩主・松平定信で、寛政12年(1800年)に「古関蹟碑」を建立した。この考証には異論もあったようだが、昭和34年から発掘調査が行われた結果、空堀・土塁・柵列・門跡・掘立柱建物跡などが確認されたことから、昭和41年に「白河関跡」として国史跡に指定された。
さて、「白河関跡」の丘の上に「白河神社」が鎮座している。社伝によれば、成務天皇5年(315年?)に白河国造・鹽伊乃自直命(シオイノコジノアタイ)と天太玉命を祀ったのを創始とする。白河国は、律令制度以前、現・福島県白河市・西白河郡・東白川郡・石川郡辺りを範囲とする国で、「先代旧事本紀」(偽書説あり)に「成務朝5年に天降天由都彦命11世孫である鹽伊乃己自直 を白河国造に定めた」とされるので、あるいは、当神社の創建伝承はこれによるのかもしれない。宝亀2年(771年)、住吉明神(中筒男命)・玉津島明神(衣通姫命)を合わせ祀った。これは、律令制度下で白河国が陸奥国の一部となり、白河国造一族の祖神というよりも白河関の関神としての信仰の方が中心となったことを意味すると思われる。永承7年(1053年)に、平兼盛・源頼義・源義家等が稲田を奉献、寿永3年(1184年)に源義経、文治5年(1189年)に源頼朝等が金弊を奉献。元和元年(1615年)、伊達政宗が社殿を改修造営した。江戸時代には「境の明神」、「二所関明神」、「住吉明神」などと称されていたが、明治2年に「白河神社」と改称。旧社格は村社。現在の祭神は白河国造命(鹽伊乃自直命)・天太玉命・中筒男命・衣通姫命。なお、延喜式神明帳に登載された、陸奥国白河郡鎮座の式内社「白河神社」を称している(現・白河市の「鹿嶋神社」も同様の主張をしているため、論社ということになる。)。
蛇足:古代官道「東山道」は、当地付近では現・栃木県道・福島県道76号線のルートとみられており、「白河関」があったことから、後に「関街道」と通称されるようになった。また、当地付近に「東山道」の「雄野(おの)」駅家があったとみられている。「和名類聚抄」に「小野郷」「駅家郷」と並んで記されているが、これは重複と考えられており、前後の駅家との距離等も勘案した推定で、概ね通説となっているようである。ただし、具体的な場所は不明とのことで、あるいは、関としての機能が薄れた「白河関」が転用されたかもしれない。
白河市のHPから(ここからみちのく「白河関跡」)
写真1:福島交通「白河の関」バス停留所のところに「白河神社」の社号標(「式内 白河神社」)。なお、路線バスは便数が少ないので、注意。
写真2:「史跡 白河関跡」石碑
写真3:「白河神社」境内(鳥居前)の「古関蹟の碑」(松平定信建立)。
写真4:「幌掛の楓」。源義家が幌を掛けて休息したという。
写真5:「白河神社」鳥居。右手前に太い藤の古木がある。
写真6:同上、参道石段
写真7:「矢立の松」。源義経が矢を射立てたという松だが、実際には何も残っていないようだ。
写真8:「白河神社」拝殿
写真9:同上、本殿
写真10:社殿脇の「古歌碑」。
平兼盛「便りあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の 関は越えねど」
能因法師「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞふく 白河の関」
梶原景季「秋風に 草木の露を はらわせて 君が越ゆれば 関守もなし」
梶原景季の歌は、主君・源頼朝が来たからには関守も不要だ、というお追従のような歌だが、実際には、その頃には既に廃関になっていただろうと思われる。
写真11:ご神木
写真12:土塁跡と空堀跡
写真13:「従二位の杉」。鎌倉初期の歌人で「新古今和歌集」の撰者の一人である従二位・藤原家隆が手植えした杉といわれ、推定樹齢約800年・樹高約47m・目通り幹囲約6.1mという。
写真14:「旗立の桜」。源義経が戦勝を祈願して源氏の旗を立てたという。
写真15:「白河神社」社務所脇にある芭蕉の句碑と「白河関越達成」石碑。前者は「関守の宿を 水鶏に 問はふもの」(「おくのほそ道」途中の須賀川で詠んだ句という。)、後者は2022年「夏の甲子園」で仙台育英高校(宮城県)が優勝し、深紅の大優勝旗が初めて東北地方へ齎されたことを記念したもの。
写真16:芭蕉の句碑「西か東か 先(まず)早苗にも 風の音」。「白河神社」前から県道を北へ約90mのところにある。なお、この句は、最初「早苗にも 我色黒き 日数哉」と詠んだのを改作したもの。
遊行柳(ゆぎょうやなぎ)。別名:朽木の柳。
場所:栃木県那須郡那須町芦野。国道294号線「芦野駐在所前」交差点から北東へ約650m、国道沿いに「遊行庵農産物直売所」(住所:那須町芦野2584-3)があり、その駐車場を利用させていただく。「遊行柳」は、「遊行庵」西側の田圃の中の「鏡山温泉神社」(通称「上の宮」)参道途中にある。
「遊行柳」は、伝説によれば、時宗の宗祖・一遍上人が遊行巡化のため当地を訪れた際、持っていた杖が根付いて巨樹になった。後に、第19代遊行上人(時宗の指導者)・尊晧上人が文明3年(1471年)、当地に遊行の折、枯れかけた柳の精が老翁と化して現れた。上人の念仏の功徳により、柳の精は成仏できたことを喜び、去っていった(伝説なので、異説がある。)。これは「草木国土悉皆成仏」(草木や国土のように非情(心のない)ものであっても、仏性はあるから成仏できる)という思想を背景としている。この伝説をもとに室町時代の能楽師・観世信光が能楽に仕立てた。このとき、西行法師の和歌「道のべに 清水流るる 柳陰 しばしとてこそ 立ちどまりつれ」(「新古今和歌集」)の「柳」こそが、名木「朽木の柳」であるとした。以来、「遊行柳」は、西行が当地に来て歌に詠んだと信じられるようになり、歌枕にもなった。江戸時代、西行に私淑していた俳人・松尾芭蕉は「遊行柳」が西行所縁の歌枕と信じていたようで、ここで「田一枚 植て立去る 柳かな」の句を詠んでいる。因みに、当地の領主であった芦野家(三千十六石の交代寄合旗本で、参勤交代を行い、江戸の湯島天神下(現・東京文京区)に屋敷があった。)第19代・芦野民部資俊は芭蕉の門人で、「おくのほそ道」の際に、「遊行柳」の見学を強く勧めたようである。
なお、「鏡山温泉神社」は、芦野に「健武山温泉神社」も鎮座しているため、同神社を「下の宮」、当神社を「上の宮」と通称しているという。祭神は大己貴命ほか。境内のイチョウは推定樹齢420年・樹高35m・幹周6.1mという巨樹で、那須町指定天然記念物及び「那須の名木」に指定されている。また、当神社境内林及びその周辺8.19haが「栃木県緑地環境保全地域」となっている。
蛇足:西行の伝記物語「西行物語」(鎌倉時代成立)によれば、「道のべに...」の歌は、鳥羽院(第74代・鳥羽天皇)が大治2年(1127年)に鳥羽殿(鳥羽離宮)の襖絵を見て歌人たちに歌を詠ませたときのもので、西行が10首詠んだうちの1つとされる。ただし、「西行物語」も虚実取り混ぜた内容となっており、例えば、西行は元永元年(1118年)生まれとされているので、大治2年ではまだ10歳頃であり、このエピソードは虚構らしい。なお、「西行物語」には、西行が「白河関」を訪れた際、関所の柱に「白河の 関屋を月の 洩るからに 人の心を とむるなりけり」という歌を書き付けたことが書かれているが、その前後には「朽木の柳」のことは全く出てこない。また、「新古今和歌集」でも、この歌は「題知らず」となっていて、題名や詠まれた事情は明らかでない。以上のようなことから、西行の「道のべに...」の歌の柳が「遊行柳」を詠んだものとする根拠はないと考えられているようだ。
栃木の農村めぐり特集のHPから(遊行庵農産物直売所)
もう一つの那須 芦野のHPから(遊行柳)
写真1:「鏡山温泉神社」参道入口。「国指定名勝 町指定史跡 おくのほそ道風景地 遊行柳」の石柱がある。
写真2:参道途中に柳の木と桜の木がある。
写真3:芦野石の玉垣に囲まれた「遊行柳」。樹高10m・幹周り90cm。もちろん、初代ではなく、何代目かのものだろう。
写真4:「史跡 遊行柳」石柱と説明碑。
写真5:芭蕉の句碑「田一枚 うゑてたち去る 柳かな」
写真6:西行の歌碑「道の辺に 清水流るゝ 柳かげ 志ばしとてこそ 立どまりつれ」
写真7:与謝蕪村の句碑「柳散 清水涸 石処々(やなぎちり しみずかれ いしところどころ)」
写真8:「遊行柳」とは別の柳の大木。謡曲「遊行柳」の説明板がこちらにある。
写真9:「鏡山温泉神社」鳥居
写真10:鳥居を潜ってから「遊行柳」を見る。
写真11:「鏡山温泉神社」
写真12:「上の宮のイチョウ」。立派な乳根。
写真13:同上
平戸館跡(ひらとやかたあと)。(伝)平貞盛居館跡。
場所:茨城県水戸市平戸町1979(「吉田神社」の住所)。国道51号線の「島田町北」交差点から東に約230mで左折(北へ)、約50m。駐車場有り。途中から未舗装の狭い道路になるので、注意。
「平戸館跡」は中世城館跡とされる場所で、平貞盛の居館跡とする伝承がある。平貞盛と言えば、平安時代中期の武将で、常陸平氏の祖である平国香(良望)の嫡男である。「平将門の乱」は最初、平氏一族の私闘によって始まり、承平5年(935年)、国香は将門によって討たれた。このとき、貞盛は京に出仕していたが、直ちに国香の本拠地・常陸国真壁郡の「石田館」(現・茨城県筑西市東石田?。「(伝)平国香の墓」(2024年3月30日記事)参照)に戻った。「石田館」は焼き討ちされていたので、その後、貞盛がどこを本拠にしたか不明だが、常陸国司の三等官で常陸国衙の在地官人を支配した「常陸大掾」職を国香から引き継いだとされるので、「常陸国府」に近い場所に居館があったかもしれない(現・茨城家石岡市の「外城遺跡」(2023年11月25日記事)は「茨城郡家」跡に比定されているが、国香の居館だったとの伝承がある。)。あるいは、「常陸国風土記」那賀郡の条に「平津の駅家の西、1~2里のところに大櫛という岡がある。」(現代語訳)という記述があって、「大櫛の岡」が国史跡「大串貝塚」(2018年7月14日記事)であり、「平津駅家」は現・水戸市平戸町付近にあったとされている(通説。「平戸」は「平津」の遺称地と考えられるし、方向は「大串貝塚」の南東方向だが、距離は1~1.5kmほどである(古代の1里は約533m)。)。よって、現・平戸町には「平津駅家」に関連する官衙施設を管理する城館があったかもしれない。その城館の主が貞盛だったかどうかは不明だが、軍記物語「将門記」によれば、天慶3年(940年)正月、勝勢の将門は5千の兵を動員して貞盛らを探したが見つからず、「吉田郡蒜間之江」で貞盛の妻と源扶の妻を捕らえたに止まったという。「吉田郡」というのは、8世紀以降、古代東北地方の蝦夷鎮圧が進むと、東征伝説のある日本武尊=常陸国三宮「吉田神社」(2018年3月10日記事)の権威が高まり、10世紀に「吉田神社」の神領として那賀郡から独立したとされる。そして、「蒜間之江」は現在の涸沼で、「日沼」とも書き、「ひぬまうら」、「ひろうら(広浦)」などともいったらしい。狭沼(さぬま)の反対で、広沼の転訛とみられる。現・平戸町の南側には涸沼川が流れており、かつては川幅ももっと広かっただろうから、このあたりも涸沼の岸辺とも考えられる。ということで、将門の本拠地である現・茨城県南西部から離れた「平戸館」に貞盛の妻らが隠れ住んでいたのかもしれない。
ただし、現・平戸町は大規模な耕地整理のため現在では出土物がほとんどなく、「平戸館跡」の南側の広い範囲が「大道端遺跡」として弥生・古墳時代の集落跡とされているが、奈良・平安時代以降の遺跡としては何も残っていないようである。その中で、現・平戸「吉田神社」の一画だけ、土塁や堀のような地形が残っているが、古代の官衙跡(「平津駅家」跡?)や中世城館跡としては如何にも狭く、実際どうだったのか不明なのが残念である。中世城館としては、常陸大掾氏の庶流・平戸氏の屋敷跡と伝えられており、室町時代の応永年間(1394~1428年)には平戸甚五郎久幹、安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)には平戸弾正通国という武将の居館だったといわれている。
写真1:「吉田神社」を南東から見る。中世城館としては、こちらが二郭(外郭)で、更に南側に一郭(主郭)があったらしいとされる。なお、右側(東側)の水路は、耕地整理時に造られたもののようである。
写真2:鳥居と社号標(「村社 吉田神社」)
写真3:鳥居前の「平戸館跡」石碑(水戸市教育委員会建立)。
写真4:拝殿。社殿は東向き。
写真5:本殿。祭神:日本武尊。創立不詳、初め「今宮八幡宮」だったが、元禄9年(1696年)、「吉田神社」に改めた(水戸藩の「八幡改め」によるものかと思われる。)。明治15年、村社に列格。
写真6:境内社「鴨川稲荷神社」。本社北側の涸堀のようなところの先にある。
写真7:「鴨川稲荷神社」手前の堀跡?
写真8:境内北東の土塁? 手前も堀のようになっている。
写真9:土塁?の外には池跡のような場所がある。
写真10:境内の西側。こちらにも堀?
車ノ前五輪塔(くるまのまえごりんとう)。
場所:千葉県柏市大井1228。天台宗「教永山 福満寺」(前項)鐘楼堂・「香取神社」鳥居前から南に約70mで右折(西へ)、約100m進んだところで左折(東へ)して未舗装農道を約75m。駐車場なし。
「福満寺」の南側の境外地にある通称「妙見さま」・「妙見堂跡」という100m四方の森にある、沼南地区最大・最古の五輪塔を「車ノ前五輪塔」と称し、柏市指定有形文化財となっている。この五輪塔は台上の高さ152.4cmで、石材は安山岩(平成28年 柏市教育委員会の現地案内板による。柏市のHPでは筑波小田の白色花崗岩としている。)。軒部などに一部欠損があるものの、全体としては保存状態は良好で、姿も美しい。仏教の宇宙観を空・風・火・水・地の五要素で表した石塔で、平安時代末期以降、供養塔・墓塔として建立されるようになったとされる。この五輪塔では、四方に(下から)地(ア)・水(バ)・火(ラ)・風(カ)・空(キャ)の梵字が彫られているとされるので、密教系のものである。建立時期は室町時代初期(14世紀中葉~15世紀前半)頃と推定され、当時この地域を治めた武人(おそらく相馬氏の一族)の供養塔と考えられている。
一方、伝承では、平将門が天慶3年(940年)に討ち死にすると、その側室・車ノ前(車御前)が遺児とともに当地に隠れ住み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂を建て、将門の菩提を弔ったとされる。将門の家族については確実な資料がなく、正室は伯父・平良兼の娘(名は不明)または現・茨城県桜川市周辺の豪族・平真樹の娘(君御前)という説がある。また、愛妾としては桔梗の前(桔梗姫)が有名だが、素性については伝承地によって様々である。そのほかにも愛妾(側室)とされる女性は多いが、当地では車ノ前を「第三夫人」と表現している。「千葉県東葛飾郡誌」によれば、車ノ前は中村庄司良志の娘で、桓武天皇の女子・車内親王に準えて将門が名付けたとされ、将門の乱のときには懐妊していて、当地に疎開して出産した。子は若松と名付けられたが、2歳になったとき車ノ前は亡くなった。その後、若松は良忠と名乗り、西国で勇者となったという。五輪塔は、車ノ前が将門の供養のために建てたが、車ノ前もここに葬られたため、その墓塔ということにもなっている。また、車ノ前が亡くなったとき、村人らが遺体を火葬にしようとしたが、薪では燃えず、米を焚いて荼毘に付したとの伝説もある。なお、妙見堂にあった妙見菩薩像は「福満寺」に移され、本堂に安置されたという。そして、地元の人々によって、今も例年2月21日を将門の命日として妙見講が行われているとのこと。
柏市のHPから(車ノ前五輪塔)
写真1:「車ノ前五輪塔」がある妙見堂跡。この辺りの地名(字)を「車ノ前」という。
写真2:「車ノ前五輪塔」。湯飲みなどが供えられているのは、献茶すると風邪をひかないという言い伝えによるらしい。
写真3:「妙見社」
場所:茨城県守谷市みずき野7-16-1(「郷州文化財公園」の住所)。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から北東へ約270m、信号機のある交差点を右折(南東へ)して約50mのところ(交差点の角にある医院「貝塚みずき野クリニック」の背後)に「どんぐり公園」があり、そこから南東側の台地上に上る。駐車場なし。
現・守谷市みずき野は、昭和54年から三井不動産により開発された大規模な住宅団地であるが、それ以前は「郷州原(ごうしゅうっぱら)」という台地だった。殆どが雑木林だったが、古い土器片などがよく掘り出されることが知られていた。このため、宅地開発に先立ち、昭和53年に発掘調査が行われたところ、縄文時代前期の住居跡4軒と地点貝塚5ヵ所、古墳時代前期の住居跡9軒、同後期の住居跡22軒、平安時代とみられる住宅跡1軒などが検出され、その他にも時期不明の円形周溝墓1基、土壙5基、方墳と想定される古墳1基(湮滅)も発見された。
ところで、これを遥かに遡る明治42年頃、地元の考古遺物収集家・石田庄七が旧石器時代の打製石器とみられる石斧を採取していたという。戦前には、土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代に当たる。)の人々が日本の最初の住人だというのが常識で、これが覆されたのが「岩宿遺跡」(現・群馬県みどり市)での1万5千年以上前の関東ローム層内からの石器発見(昭和21年)によるとされる。つまり、石田庄七は、「岩宿遺跡」の発見より遥か前に見つけたことになるが、当時は、そこまでのこととは認識されなかったようで、大発見の栄誉は「岩宿遺跡」に与えられることとなった。当地では、昭和19年、石田庄七のほか、慶応大学講師・柴田常恵、地元の風俗史家(文学博士)・斎藤隆三などの有志によって郷州原台地の一画に「原日本民族居住遺蹟」という石碑が建立された。
蛇足1:上記のように、「郷州原」は、縄文時代から古代に至るまでは人々の住みやすい場所だったらしい。しかし、中世から近世には価値のない未利用地で、無主無住、つまり当地を支配する領主すらいなかったという。現・守谷市全体が概ね台地(平均標高約22m)で、水害がない代わりに、水田も少ないということが関係しているのかもしれない(江戸時代でも、「守谷一万石」に対して、隣接する現・つくばみらい市の一部、旧・谷和原村だけで「谷和原三万石」とされていた。)。
蛇足2:発掘調査の記録である「郷州原遺跡」(昭和56年)の序文の中で、霜多俊郎・守谷町文化財保護審議会会長(当時)は次のように書いている。「大正末期、・・・(中略)「郷州原」の森林の中の芝の生い繁った寂しい山道の傍に、かなり大きめの石碑があり、そこに「原日本民族居住の跡」と書かれてあったのをおぼろげに記憶が残っている。」。一方、「守谷のふるさとかるた」の「こ」の札(「郷州原 縄文・古墳の 石器土器」)の解説文では、「(石田庄七が)昭和十三年(一九三八)、そこに「原日本人発祥の地」と刻んだ発掘記念碑を建てました。」としている。碑文や建立時期が異なるが、現在の「原日本民族居住遺蹟」碑とは別のものがあったのだろうか、それとも、同一のもので、碑文や建立時期の違いは誤認なのか、謎である。
Morinfo WEB版から(土(石)器):石田庄七氏が守谷小学校に寄贈したもの
ADEAC:守谷中央図書館/わたしたちの守谷市 「守谷のふるさとかるた」
写真1:「どんぐり公園」から「郷州文化財公園」への階段(北西側から)。現在、「どんぐり公園」が周辺の住宅地とほぼ等高だが、低地の埋立のための土取りによって低くなったもので、「郷州文化財公園」の高さが元の「郷州原台地」の標高という。なお、「郷州文化財公園」の南端に緩やかな上り坂があり、入口に公園の説明板が設置されている。

写真2:階段を上った左手に赤い鳥居と小祠がある。

写真3:鳥居を潜った左手に「原日本民族居住遺蹟」碑が建立されている。

写真4:小祠

写真5:同上、賽銭箱には「山の神」とあるが、神名石は「稲荷大明神」となっている。
