平戸館跡(ひらとやかたあと)。(伝)平貞盛居館跡。
場所:茨城県水戸市平戸町1979(「吉田神社」の住所)。国道51号線の「島田町北」交差点から東に約230mで左折(北へ)、約50m。駐車場有り。途中から未舗装の狭い道路になるので、注意。
「平戸館跡」は中世城館跡とされる場所で、平貞盛の居館跡とする伝承がある。平貞盛と言えば、平安時代中期の武将で、常陸平氏の祖である平国香(良望)の嫡男である。「平将門の乱」は最初、平氏一族の私闘によって始まり、承平5年(935年)、国香は将門によって討たれた。このとき、貞盛は京に出仕していたが、直ちに国香の本拠地・常陸国真壁郡の「石田館」(現・茨城県筑西市東石田?。「(伝)平国香の墓」(2024年3月30日記事)参照)に戻った。「石田館」は焼き討ちされていたので、その後、貞盛がどこを本拠にしたか不明だが、常陸国司の三等官で常陸国衙の在地官人を支配した「常陸大掾」職を国香から引き継いだとされるので、「常陸国府」に近い場所に居館があったかもしれない(現・茨城家石岡市の「外城遺跡」(2023年11月25日記事)は「茨城郡家」跡に比定されているが、国香の居館だったとの伝承がある。)。あるいは、「常陸国風土記」那賀郡の条に「平津の駅家の西、1~2里のところに大櫛という岡がある。」(現代語訳)という記述があって、「大櫛の岡」が国史跡「大串貝塚」(2018年7月14日記事)であり、「平津駅家」は現・水戸市平戸町付近にあったとされている(通説。「平戸」は「平津」の遺称地と考えられるし、方向は「大串貝塚」の南東方向だが、距離は1~1.5kmほどである(古代の1里は約533m)。)。よって、現・平戸町には「平津駅家」に関連する官衙施設を管理する城館があったかもしれない。その城館の主が貞盛だったかどうかは不明だが、軍記物語「将門記」によれば、天慶3年(940年)正月、勝勢の将門は5千の兵を動員して貞盛らを探したが見つからず、「吉田郡蒜間之江」で貞盛の妻と源扶の妻を捕らえたに止まったという。「吉田郡」というのは、8世紀以降、古代東北地方の蝦夷鎮圧が進むと、東征伝説のある日本武尊=常陸国三宮「吉田神社」(2018年3月10日記事)の権威が高まり、10世紀に「吉田神社」の神領として那賀郡から独立したとされる。そして、「蒜間之江」は現在の涸沼で、「日沼」とも書き、ひぬまうら、ひろうら(広浦)などともいったらしい。狭沼(さぬま)の反対で、広沼の転訛とみられる。現・平戸町の南側には涸沼川が流れており、かつては川幅ももっと広かっただろうから、このあたりも涸沼の岸辺とも考えられる。ということで、将門の本拠地である現・茨城県南西部から離れた「平戸館」に貞盛の妻らが隠れ住んでいたのかもしれない。
ただし、現・平戸町は大規模な耕地整理のため現在では出土物がほとんどなく、「平戸館跡」の南側の広い範囲が「大道端遺跡」として弥生・古墳時代の集落跡とされているが、奈良・平安時代以降の遺跡としては何も残っていないようである。その中で、現・平戸「吉田神社」の一画だけ、土塁や堀のような地形が残っているが、古代の官衙跡(「平津駅家」跡?)や中世城館跡としては如何にも狭く、実際どうだったのか不明なのが残念である。中世城館としては、常陸大掾氏の庶流・平戸氏の屋敷跡と伝えられており、室町時代の応永年間(1394~1428年)には平戸甚五郎久幹、安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)には平戸弾正通国という武将の居館だったといわれている。
写真1:「吉田神社」を南東から見る。中世城館としては、こちらが二郭(外郭)で、更に南側に一郭(主郭)があったらしいとされる。なお、右側(東側)の水路は、耕地整理時に造られたもののようである。
写真2:鳥居と社号標(「村社 吉田神社」)
写真3:鳥居前の「平戸館跡」石碑(水戸市教育委員会建立)。
写真4:拝殿。社殿は東向き。
写真5:本殿。祭神:日本武尊。創立不詳、初め「今宮八幡宮」だったが、元禄9年(1696年)、「吉田神社」に改めた(水戸藩の「八幡改め」によるものかと思われる。)。明治15年、村社に列格。
写真6:境内社「鴨川稲荷神社」。本社北側の涸堀のようなところの先にある。
写真7:「鴨川稲荷神社」手前の堀跡?
写真8:境内北東の土塁? 手前も堀のようになっている。
写真9:土塁?の外には池跡のような場所がある。
写真10:境内の西側。こちらにも堀?
車ノ前五輪塔(くるまのまえごりんとう)。
場所:千葉県柏市大井1228。天台宗「教永山 福満寺」(前項)鐘楼堂・「香取神社」鳥居前から南に約70mで右折(西へ)、約100m進んだところで左折(東へ)して未舗装農道を約75m。駐車場なし。
「福満寺」の南側の境外地にある通称「妙見さま」・「妙見堂跡」という100m四方の森にある、沼南地区最大・最古の五輪塔を「車ノ前五輪塔」と称し、柏市指定有形文化財となっている。この五輪塔は台上の高さ152.4cmで、石材は安山岩(平成28年 柏市教育委員会の現地案内板による。柏市のHPでは筑波小田の白色花崗岩としている。)。軒部などに一部欠損があるものの、全体としては保存状態は良好で、姿も美しい。仏教の宇宙観を空・風・火・水・地の五要素で表した石塔で、平安時代末期以降、供養塔・墓塔として建立されるようになったとされる。この五輪塔では、四方に(下から)地(ア)・水(バ)・火(ラ)・風(カ)・空(キャ)の梵字が彫られているとされるので、密教系のものである。建立時期は室町時代初期(14世紀中葉~15世紀前半)頃と推定され、当時この地域を治めた武人(おそらく相馬氏の一族)の供養塔と考えられている。
一方、伝承では、平将門が天慶3年(940年)に討ち死にすると、その側室・車ノ前(車御前)が遺児とともに当地に隠れ住み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂を建て、将門の菩提を弔ったとされる。将門の家族については確実な資料がなく、正室は伯父・平良兼の娘(名は不明)または現・茨城県桜川市周辺の豪族・平真樹の娘(君御前)という説がある。また、愛妾としては桔梗の前(桔梗姫)が有名だが、素性については伝承地によって様々である。そのほかにも愛妾(側室)とされる女性は多いが、当地では車ノ前を「第三夫人」と表現している。「千葉県東葛飾郡誌」によれば、車ノ前は中村庄司良志の娘で、桓武天皇の女子・車内親王に準えて将門が名付けたとされ、将門の乱のときには懐妊していて、当地に疎開して出産した。子は若松と名付けられたが、2歳になったとき車ノ前は亡くなった。その後、若松は良忠と名乗り、西国で勇者となったという。五輪塔は、車ノ前が将門の供養のために建てたが、車ノ前もここに葬られたため、その墓塔ということにもなっている。また、車ノ前が亡くなったとき、村人らが遺体を火葬にしようとしたが、薪では燃えず、米を焚いて荼毘に付したとの伝説もある。なお、妙見堂にあった妙見菩薩像は「福満寺」に移され、本堂に安置されたという。そして、地元の人々によって、今も例年2月21日を将門の命日として妙見講が行われているとのこと。
柏市のHPから(車ノ前五輪塔)
写真1:「車ノ前五輪塔」がある妙見堂跡。この辺りの地名(字)を「車ノ前」という。
写真2:「車ノ前五輪塔」。湯飲みなどが供えられているのは、献茶すると風邪をひかないという言い伝えによるらしい。
写真3:「妙見社」
場所:茨城県守谷市みずき野7-16-1(「郷州文化財公園」の住所)。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から北東へ約270m、信号機のある交差点を右折(南東へ)して約50mのところ(交差点の角にある医院「貝塚みずき野クリニック」の背後)に「どんぐり公園」があり、そこから南東側の台地上に上る。駐車場なし。
現・守谷市みずき野は、昭和54年から三井不動産により開発された大規模な住宅団地であるが、それ以前は「郷州原(ごうしゅうっぱら)」という台地だった。殆どが雑木林だったが、古い土器片などがよく掘り出されることが知られていた。このため、宅地開発に先立ち、昭和53年に発掘調査が行われたところ、縄文時代前期の住居跡4軒と地点貝塚5ヵ所、古墳時代前期の住居跡9軒、同後期の住居跡22軒、平安時代とみられる住宅跡1軒などが検出され、その他にも時期不明の円形周溝墓1基、土壙5基、方墳と想定される古墳1基(湮滅)も発見された。
ところで、これを遥かに遡る明治42年頃、地元の考古遺物収集家・石田庄七が旧石器時代の打製石器とみられる石斧を採取していたという。戦前には、土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代に当たる。)の人々が日本の最初の住人だというのが常識で、これが覆されたのが「岩宿遺跡」(現・群馬県みどり市)での1万5千年以上前の関東ローム層内からの石器発見(昭和21年)によるとされる。つまり、石田庄七は、「岩宿遺跡」の発見より遥か前に見つけたことになるが、当時は、そこまでのこととは認識されなかったようで、大発見の栄誉は「岩宿遺跡」に与えられることとなった。当地では、昭和19年、石田庄七のほか、慶応大学講師・柴田常恵、地元の風俗史家(文学博士)・斎藤隆三などの有志によって郷州原台地の一画に「原日本民族居住遺蹟」という石碑が建立された。
蛇足1:上記のように、「郷州原」は、縄文時代から古代に至るまでは人々の住みやすい場所だったらしい。しかし、中世から近世には価値のない未利用地で、無主無住、つまり当地を支配する領主すらいなかったという。現・守谷市全体が概ね台地(平均標高約22m)で、水害がない代わりに、水田も少ないということが関係しているのかもしれない(江戸時代でも、「守谷一万石」に対して、隣接する現・つくばみらい市の一部、旧・谷和原村だけで「谷和原三万石」とされていた。)。
蛇足2:発掘調査の記録である「郷州原遺跡」(昭和56年)の序文の中で、霜多俊郎・守谷町文化財保護審議会会長(当時)は次のように書いている。「大正末期、・・・(中略)「郷州原」の森林の中の芝の生い繁った寂しい山道の傍に、かなり大きめの石碑があり、そこに「原日本民族居住の跡」と書かれてあったのをおぼろげに記憶が残っている。」。一方、「守谷のふるさとかるた」の「こ」の札(「郷州原 縄文・古墳の 石器土器」)の解説文では、「(石田庄七が)昭和十三年(一九三八)、そこに「原日本人発祥の地」と刻んだ発掘記念碑を建てました。」としている。碑文や建立時期が異なるが、現在の「原日本民族居住遺蹟」碑とは別のものがあったのだろうか、それとも、同一のもので、碑文や建立時期の違いは誤認なのか、謎である。
Morinfo WEB版から(土(石)器):石田庄七氏が守谷小学校に寄贈したもの
ADEAC:守谷中央図書館/わたしたちの守谷市 「守谷のふるさとかるた」
写真1:「どんぐり公園」から「郷州文化財公園」への階段(北西側から)。現在、「どんぐり公園」が周辺の住宅地とほぼ等高だが、低地の埋立のための土取りによって低くなったもので、「郷州文化財公園」の高さが元の「郷州原台地」の標高という。なお、「郷州文化財公園」の南端に緩やかな上り坂があり、入口に公園の説明板が設置されている。

写真2:階段を上った左手に赤い鳥居と小祠がある。

写真3:鳥居を潜った左手に「原日本民族居住遺蹟」碑が建立されている。

写真4:小祠

写真5:同上、賽銭箱には「山の神」とあるが、神名石は「稲荷大明神」となっている。

場所:千葉県野田市目吹1034(「熊野神社」の住所)付近。「野田市目吹」交差点から東へ約950mで左折(北東へ)、約120m。旧社務所の公民館前に駐車場あり。
「目吹城跡」は、平安時代後期の武将・鎌倉権五郎景政(景正)が最初に築いたという伝承がある中世城館跡。その後、戦国時代には古河公方の勢力範囲下にあって近江源氏の一族・佐々木義信が城主だったとされ、その後に一色氏の所領となった。天正10年(1582年)には丸山将監という人物が修復したが、天正18年(1590年)頃には廃城になったとされる。ただ、これらの伝承には確証がなく、現在、城館としての遺構もほとんど残っていないらしい。ただ、北に利根川が流れ、東・南・北の三方は元は沼沢地で、堅固な要害の地であったようだ。地名(字)は「十年坪」だが、「十年」はジュウネと呼び、「城内」の意とされる。付近には「城宿」、「城山」、「門城」、「首切場」という地名もある。現「熊野神社」が鎮座する高台が城跡の東端とされるが、元はここに景政の館があったともいう。
さて、景政と「目吹」の所縁については前項(「鎌倉権五郎目洗いの池」)記事の通りだが、これは「目吹」という地名が先にあって出来た伝説と思われる。下総国相馬郷は、そのほぼ全域について大治5年(1130年)に千葉氏第2代当主・千葉(平)常重により「伊勢神宮」に寄進され、当人は下司職(げすしき)になって、実質的な管理者として支配する一方で、「伊勢神宮」の神威により領地を守ろうとした(いわゆる「寄進型荘園」)。これを「相馬御厨」と称するが、その西端が「目吹」だった。また、このとき常重は、相馬郷は坂東平氏の祖・平良文が開発し、以来、その一流である千葉氏に伝領されてきた、と称している。ただ、その後も「相馬御厨」には下総守・藤原親通、源義朝(頼朝の父)、佐竹氏などの介入・侵奪があって、こうした「寄進型荘園」が意味をなさなくなっていき、やがて鎌倉幕府の成立・支配につながっていくことになる。
写真1:「熊野神社」鳥居。鳥居横に多くの石造物が並んでいる。

写真2:同上、参道石段を上っていく。

写真3:同上、社殿(拝殿・本殿一体)。元禄11年(1698年)創建で、祭神は伊弉諾命(イザナギ)と大山祇命(オオヤマツミ。明治41年に合祀した「日枝神社」の祭神)。なお、社殿の額は「三社宮」となっており、元は「三社権現」と称したらしい。

写真4:同上、境内にある「旭村誌」石碑。明治22年に目吹村などが合併して旭村が誕生したことを記念して建立されたもの。「目吹城」の伝承についても書かれている。

写真5:「熊野神社」の西側の「目吹城跡」の中心部とされる場所。コンビニ「ファミリーマート野田目吹店」敷地西端の向かい側の「この先 行き止まり」という標識が出ている道の先。左手奧の住宅の西側に「目吹城跡」という標柱が立っていたようだが、見当たらない。

場所:茨城県結城郡八千代町尾崎404ー3外。茨城県道20号線(結城坂東線)と同217号線(皆葉崎房線)終点(常総市崎房)の交差点(コンビニ「ファミリーマート常総崎房店」がある。)から北へ約550m、案内板が出ているところで右折(東へ)、約350m。遺跡前に駐車スペースはないが、更に東に約150m進むと「史跡見学者駐車場」がある。
「尾崎前山遺跡」は、台地下の斜面から水田にかけて鉄滓(てっさい。鉄を製錬する際に出る不純物)が散布していたことから、昭和53~55年に発掘調査が行われ、旧石器時代~奈良・平安時代の複合遺跡であることがわかった。特に、南側斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場・作業場などの製鉄施設が発見され、台地上では、平安時代の9世紀後半頃の竪穴住居跡や鍛冶工房跡が確認された。当初、製鉄炉は、住居・工房跡と同時期に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後の研究の進展により、8世紀まで遡る箱型の炉であった可能性が指摘されているという。
さて、この製鉄炉跡が注目されるのは、平将門が支配していた可能性である。上記の通り、当地での製鉄の開始は将門の登場よりかなり早いとみられるが、将門の本拠地とされる下総国豊田郡(延喜4年(904年)に岡田郡から改称)に所在しているのがポイント。将門の居館があったとされる「石井営所」(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事))は当地から南に直線距離で約8.5km、「鎌輪之宿」(「平将門公鎌輪之宿址」2021年3月27日記事))は北東に同じく約5kmという位置にある。そして、軍記物語「将門記」に次のような内容の記事がある。即ち、承平7年(937年)11月、敵方・平良兼は、将門の駈使(くし。雑役夫)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を買収して、スパイとして使う。子春丸等は、将門の「石井営所」に偵察に出かける際、営所内に炭を搬入している。この炭について、居館の暖房用ではなく、製鉄炉で使用する木炭ではないか、と解する説があって、そうだとすれば、将門が製鉄のために大量に木炭を集めていたとも解されるという。この辺りの解釈は何とも言えないが、武器だけではなく、農業用にも鉄の需要が大きかったと思われるので、将門が当地の製鉄施設を活用したことは大いに考えられるだろう。
蛇足:古代の製鉄では、木炭もそうだが、砂鉄が大量に必要となる。「常陸国風土記」の香島(鹿島)郡の条に、慶雲元年(704年)に国司・采女朝臣が若松浜で(砂)鉄を採って剣を造った、という記事がある。当地は内陸だが、利根川と鬼怒川に挟まれた地域で、利根川・鬼怒川の砂地から砂鉄が採取できたらしい。
写真1:斜面に造られた「製鉄炉」跡。復元された「製鉄炉」は9世紀頃のものと想定された竪型炉のようだ。フェンスに囲まれ、扉に閂が掛かっているが、施錠されていない(見学後はきちんと閉めましょう。)。

写真2:同上。正面(南側)から見る。

写真3:同上、背後(北側)から見る。

写真4:同上、横(東側)から見る。

写真5:同上、上(北東側)から見下ろす。
