大鷲神社(おおわしじんじゃ)。通称:お鷲様。
場所:千葉県印旛郡栄町安食3620。国道356号線・千葉県道18号線(成田安食線)の「安食交差点」から東に約50m。駐車場あり。
社伝等によれば、景行天皇40年(110年?)、日本武尊が東征の折、錦旗を立てて仮の野立所とし、祖神を奉斎したのが創祀。元は現在地の北東側、旧・安食町木塚にいったん鎮座したが、現在地(日本武尊の故事に因み「錦旗山」と称する。)に飛来したともいう。下総国の「総」は布(麻)のことを意味し、麻の生産あるいは紡績を業としていた人々が麻植神(おえのかみ)ともいわれる天乃日鷲尊を主祭神として祀ったとされている。江戸時代前期、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の崇敬が非常に篤く、家光の将軍就任を祝い、将軍の御座船「天地丸」の舳先に魔除けとして飾ってあった金の大鷲が奉納され、出世開運の御利益があるといわれるようになった。江戸時代後期、文化文政の頃(1804〜1830年)には「鷲宮」あるいは「鷲賀岡神社」と称していたが、明治26年頃から「大鷲神社」と称するようになったという。現在の祭神は天乃日鷲尊で、相殿に大己貴命・小名彦命を祀る。当神社の「酉の市」は、毎年12月の初酉の日から3日間行われる。
なお、境内社として「魂生大明神」(「魂生神社」)があり、その御神体は石造の男根像で、高さ2.5m・周囲2.3mあり、日本一の大きさという。五穀豊穣・子孫繁栄の御利益があるとして、こちらを目的とした参拝者も多いらしい(独自の御朱印あり。)。
蛇足:「酉の市」は、関東地方の鳥に因む社寺で行われる祭で、元は農具などを売る露店が出ていたが、現在は縁起物として熊手や福助人形・招き猫などの縁起物が売られている。江戸の「酉の市」は、武蔵国南足立郡花又村(現・東京都足立区花畑)にある「大鷲神社(鷲大明神)」が発祥(「本酉」と称する。)とされるが、その後、「浅草の酉の市」として、現・東京都台東区の「鷲神社(おおとりじんじゃ)」と「鷲在山 長国寺(じゅざいさん ちょうこくじ」)のものが最も有名になった(「新酉」と称する。)。「酉の市」で売られる福助人形や招き猫は、浅草に近い現・東京都台東区今戸などで作られていた今戸焼人形であるが、これについて檜山良昭著「江戸の発明 現代の常識」に次のような話が書かれている。桃花園三千麿という江戸時代後期の戯作者・狂歌師が花又村の「鷲大明神」に由来を尋ねたが、祭神不明と言われた。ただ、言い伝えによれば、昔、大鷲が飛んできて下総の安飯(あじき)というところに留まり人々の幸福を守ったということから、ここでも祀ることにしたとのことだった。そこで、本社であるという下総国安食の「大鷲神社」に尋ねたところ、その祭神は野見宿禰であることがわかった。野見宿禰は天津神・天穂日命の子孫で、相撲で当麻蹴速に勝って、後に相撲の神とされる人物であるが、第11代・垂仁天皇が亡くなったときに、殉死の風習に反対して人間の代わりに埴輪を埋葬するようにした。これにより、土師臣(はじのおみ)という称号を得て、埴輪製作集団の長となった。その後裔氏族が「土師氏」である。つまり、「酉の市」の福助人形などの土人形は埴輪にルーツがあるのだということになる、と(一部、当ブログ管理人が補記・修正。なお、野見宿禰が埴輪を発明して土師臣の称号を得たことは「日本書紀」にあるが、考古学的には埴輪の起源は吉備国(現・岡山県)の古墳の特殊器台にあるとされている。)。因みに、「関東最古の大社」を称する現・埼玉県久喜市の「大鷲神社」(2024年10月12日記事)は現在の主祭神を天穂日命とし、別名を「土師の宮(はにしのみや)」ともいうとされている。
写真1:「大鷲神社」表参道鳥居
写真2:正面に急な石段(男坂)があるが、すぐ横に緩やかな女坂がある。
写真3:境内社「魂生大明神(魂生神社)」社殿。こちらのほうが、本社よりも有名かも。
写真4:「魂生大明神」の御神体。隣の木製のものは「酉の市」に町内を練り歩くという。男根像を神として祀ることは各地で行われ、金精様・金勢様などと称することも多い。
写真5:「子授け乃大樹」。魂生明神が鎮座されてから徐々に出現した自然の神霊の御陰(みほと)である、という。
写真6:「縁むすび合体椎の木」
写真7:「大鷲神社」拝殿。額は「大鷲宮」となっている。
写真8:賽銭箱の大鷲像。社宝の金の大鷲像を模したものという。
写真9:本殿。説明板によれば、「琴を奏する彫刻」があり、毎年行われる「酉の市」の境内特設舞台で歌った当時無名に近い歌手達が翌年のNHK紅白歌合戦に出場を果たしたとして、幾人もの歌手名が挙げられている。天保2年(1831年)の建立で、栄町指定有形文化財。
写真10:同上。
写真11:「日本武尊お手植えの松」。日本武尊が東征のとき、この松に熊手を立てかけて戦勝祈願したが、それが酉の日であり、例大祭の日としたことが「酉の市」の起源であるという。それにしても、この松の木はいったい何代目になるのだろう?
写真12:裏参道鳥居
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若し良ければ、他のブログかサイトに移転していただけたらと思います。重要な知的遺産ですが、幅広く考察している地域史的なブログやサイトは少ないです。今までも幾つものサイトと、貴重な考察や資料が消えて、残念に思いました。大変な事ですが、是非御検討頂けたらと思います。私も何か纏める事ができたら、書きたいとは思いますが、知識量と、あまり動ける事ができないので、現状できていません。現状で、存在する高度な考察のサイトと考察が消えるのはあまりに惜しくて、御意見致しました。是非とも宜しくお願い致します。
過分なコメントありがとうございます。
せっかく色々調べて書いていたので、全く消滅するのは残念な気もしています。また、他のブログ等で参考にしていたものが消えてしまっていることもありました。ブログの引っ越しについては、これから考えます。
> Unknown さま... への返信
引っ越しの検討とのこと、有難う御座います。
できれば今後、この方面に関心を持つ人が増えて、そのような記事や知見が増えて、語る場が増えてほしいと思います。日本や地域の根源を探る、非常に意義深く面白い分野なので、切っ掛けがあれば広まる要素は充分あると思います。その為にも重要な記事や知見は残されていってほしいです。