神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

浅間古墳(静岡県富士市)

2010-08-31 23:16:15 | 古墳
浅間古墳(せんげんこふん)。
場所:静岡県富士市増川624。県道22号線(三島富士線)沿いの曹洞宗寺院「福聚(禅)院」横の狭くて急な坂を登り、東名高速にぶつかったところで右折、すぐの橋を渡って左折。駐車場なし(1台程度駐車できるスペースあり。)。
4世紀後半頃の前方後方墳で、東西に長く、墳長103m・後方部幅61m・前方部幅40m。墳丘全面に葺石が施され、一部には周溝らしき凹部があるとされる。静岡県東部で最も大きい古墳といわれ、国指定史跡となっている(昭和32年7月指定)。
築造時期・規模などからして、珠流河(スルガ)国の王墓であるとされ、「浅間古墳は珠流河国造初代の物部片堅石連公の墳墓とみるべき」(原秀三郎静岡大学名誉教授)という意見もあるらしい。
4~5世紀にかけて、大和政権による全国統一が進められる中で、服属した地方の豪族は国造(くにのみやつこ)に任命されることで、その地方の支配権を認められた。「先代旧事本紀」のうち「国造本紀」には、その様子が記されている(この書は偽書であるとされているが、平安初期の資料を含むとされる。)。それによれば、現在の静岡県には6つの国があり、このうち珠流河国(富士川から狩野川の間あたり)については、成務天皇の御代(在位:131~190年?)に片堅石命(かたかたしのみこと)が国造に任命されたとする。
「浅間古墳」は未発掘のため詳細不明だが、もともと富士山・愛鷹山の南麓は、静岡県内でも最も早くから古代人の集落が開けたところの1つとされており、駿河湾を見下ろす高台にこのように大きな古墳を造るような大勢力があったことは間違いないだろう。


「全国旅そうだん」さんのHPから(浅間古墳):http://www.nihon-kankou.or.jp/soudan/ctrl?evt=ShowBukken&ID=22210af2170020105


写真1:茶畑の中に赤い鳥居。その奥の森が「浅間古墳」。


写真2:後方部の上に「浅間神社」がある(南面している。)。


写真3:社殿横から前方部を見る。
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倭文神社(駿河国式内社・その3)

2010-08-27 22:38:41 | 神社
倭文神社(しどりじんじゃ)。祭神:天羽雷命。
場所:静岡県富士宮市星山1。私立星陵高校の西、約500m。実質的には「大悟庵」(住所:富士宮市星山9)という曹洞宗寺院の境内にある。駐車場は多分「大悟庵」のものと思われる。
当神社の創建時期は不明。しかし、「倭文神社」という名の神社は全国にあり、式内社だけでも10社ある。大和国の式内社「葛木倭文坐天羽雷命神社」を根本として、他にも「倭神社」が2社、「静神社」も同系とされる(以上、合計14社)。このうち、伯耆国の「倭文神社」2社は同国の一宮と三宮で、常陸国の「静神社」は同じく二宮とされている。「倭文」というのは、倭(やまと)の文(あや:織物)であって、中国渡来の絹織物に対して、楮などの植物から作られた織物のことらしい。そして、この織物を生産する集団(倭文部)が祀ったのが「倭文神社」に共通する祖神、天羽雷命(タケハツチ。建葉槌命などとも書く。)であるという。
さて、当神社はかつて星山明神などとも呼ばれ、もとは星山(または明星山)山上に祀られていたという(写真のとおり、今も本殿は無く、かつて神体山か磐座を祀るという古い祭祀形態を残しているのではないか思われる。)が、後世著しく衰微したという。一方、「大悟庵」という寺は、かつて七堂伽藍を有した大寺であったようで、どうやら、寺の鎮守として境内に勧請したのではないかともいわれる。このため、今は寺の本堂と観音堂の間に挟まれて鎮座する形になっている。これを指して、「特選神名牒」では「式内の社の仏徒の為に狭められてかく成ぬる事いともうれたく悲しき事になむ」とするが、寺が鎮守として境内に勧請していなかったら、あるいは、「倭文神社」という由緒ある名の神社が消えていたかもしれない。
なお、当神社の祭祀は、中世末期以降、「富士山本宮浅間大社」の社人によって行われてきたとされ、明治10年(1877年)には「富知神社」等とともに「浅間大社」の境外摂社とされた(現在は独立。)。


「富士おさんぽ散歩」さんのブログから(星山 倭文神社):http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-273.html

同(明星山 大悟庵):http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-272.html


写真1:「倭文神社」正面


写真2:現在も本殿は無い。


写真3:本殿の代わりに玉石が敷き詰められ、榊が植えられている。
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鈴川の富士塚

2010-08-24 22:42:57 | 史跡・文化財
鈴川の富士塚(すずかわのふじつか)。
場所:静岡県富士市鈴川西町。JR「吉原」駅の南、約400m。狭い道が込み入っているところだが、元吉原中学校から西へ約150m歩くと、「浅間宮」の裏参道入口がある。
江戸時代、富士山に対する民間信仰から、富士登山が大流行した。特に、江戸を中心とした関東地方で顕著だったようで、各地に富士山を見立てた小山を築くことも流行した。この小山を「富士塚」という。その頂上から富士山を眺めることができたり、「富士塚」を登ることで富士登山の代用としたりしたらしい。
静岡県内に現存しているものは珍しいようだが、富士市鈴川のものは「浅間宮」として残っている(写真1)。かつては、自然石をそのまま積み重ねてあったらしいが、現在ではコンクリートで固められ、頂上に石祠がある(写真2)。
現地の富士市教育委員会による説明板によると、登山にあたり、登山者が安全祈願のため海水で水垢離をした後、海岸の石を1つずつ積み上げていったものという。また、昔、この海岸に大津波が押し寄せ、人々が家を失って苦しんでいたとき、三平という豪農が施し米をするかわりに、海岸の石を積み上げさせたともいい、「三平塚」と称したという話もある。また、戦国時代には、相模国の北条氏がここに本陣を築き、今川氏や武田氏と対峙したともいわれて「天の香具山砦」という名も残っているらしい。
また、「鈴川」という地名も、地名が先か、「富士塚」が先か、わからないが、伊勢(三重県)の五十鈴川に皇大神宮(伊勢神宮内宮)の御手洗場(みたらしば)が作られていることとの関連を感じさせる。


アウターネットワークさんのHPから(鈴川の富士塚):http://outer-network.com/townguide/diary.cgi?no=34

富士市のHPから(同)(PDF):http://www2.city.fuji.shizuoka.jp/ct/other000002800/minwa2_p1-2.pdf


写真1:富士塚の入口。「浅間宮」の石碑と赤い鳥居


写真2:富士塚
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富知六所浅間神社

2010-08-20 21:09:45 | 神社
富知六所浅間神社(ふじろくしょせんげんじんじゃ)。祭神:大山祇命。
場所:静岡県富士市浅間本町5-1。富士市役所の北、約600m。富士市役所敷地の西端には富士市中央消防署があるが、その西側の道路を北上すると、正面。駐車場有り。
式内社「富知神社」の論社。社伝によれば、孝昭天皇2年、富士山山腹に創建されたとし、その後、噴火のため延暦4年(785年)に現在地に遷座したとされる。孝昭天皇は実在性が疑われる、いわゆる欠史八代の1人であり、この創建時期は信用できない。ただ、「浅間神社」を名乗るにも関わらず、主祭神が(木花開耶姫命ではなく)大山祇命であること、境内の神木(楠)が樹齢1200年ともいわれること、湧水が豊かな地にあること、特に中世以降に武将等の篤い信仰があったことなど、歴史が古いことや相応の由緒があることは確かだろう。また、一説に、もともと富士川は現在より東に流れており(富士川左岸に「島」がつく地名が多いのは、そこが中洲であったためだという。)、当神社はその淵(ふち)近くにあったから、「富知」となったともいう。
「式内社調査報告(第九巻)」(昭和63年1月)では、「富士山本宮浅間大社」の意見(当神社を含め「浅間神社」は「浅間大社」の末社であって、「富知神社」ではない。)や、当神社が式内社を称するになったのは明治以降である、ということなどから、当神社が式内社「富知神社」ではないと結論付けている。
それはともかく、今も当神社の北に富士山がよく見え、「岳南の総鎮守」と呼ばれて、特に富士市民の崇敬を集めている。また、中世には周辺に市が立ち、「三日市浅間神社」とも称されたが、今も富士市役所を中心とした市街地の近くに鎮座している。


冨知六所浅間神社のHP:http://www.fz6.jp/

静岡県神社庁のHPから(富知六所浅間神社):http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4404103


写真1:「冨知六所浅間神社」鳥居


写真2:社殿正面


写真3:神木の楠。木肌が蛇の鱗のようで、宿木や苔も生えていて、キングギドラか八岐大蛇のようにもみえる。


写真4:神池。湧水のようで、ここが和田川の源泉になっているらしい。
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富知神社(駿河国式内社・その2)

2010-08-13 21:08:35 | 神社
富知神社(ふくちじんじゃ)。祭神:大山祇神。
場所:静岡県富士宮市朝日町12-4。「富士山本宮浅間大社」(以下、単に「浅間大社」という。)の北西、約800m。県道414号線(朝霧富士宮線)沿い、富士宮信用金庫北支店の向かい側。駐車場有り。
「浅間大社」の項(2010年7月31日記事)で書いたように、同神社の現在の鎮座地には、もともと当神社が鎮座していたという。当神社の主祭神は大山祇神で、「浅間大社」の主祭神である木花之佐久夜毘売命の父神であるが、本来は「浅間大社」の地主神で、単に富士山を祀り、後世、山の神として大山祇神を当てたのだろうと思う。
神社名の読み方は静岡県神社庁のHPに従った(なお、中世には「福地明神」とも称された。)。本来、「富知」は当然「フヂ」と読むべきなのだろうが、もともと「富士山」の「フジ」の語源には諸説あって一定しない。古くは「フジ」と「フヂ」は音韻的にも区別があったと思われるが、万葉集などの分析からすると、この地域の方言として、区別が曖昧になっていたかも知れないらしい(しぞーか弁?)。
因みに、民俗学者・詩人の折口信夫は(「水の女」のなかで)、神名によく使われる「貴」(ムチ)が水に関係があるだろうとしている。「フチ」と「ムチ」は何か関係があるのかもしれない。「浅間大社」の社伝でも、木花開耶姫命は水の神であるとしている。一方、「浅間」(アサマ)は、語源的には阿蘇・朝日などとともに火山に関係があるらしい。だから、富士山は、もともとは山の神・水の神だったのが、後に火(山)の神になってしまったようだ。
さて、当神社が「浅間大社」に鎮座地を譲ったのはいつか。「浅間大社」の社伝によれば、同神社が山宮から現鎮座地に移ったのが大同年間(806~810年)であるとされるので、その頃だろうとされ、同時に同神社の摂社となったようである。なお、「浅間大社」の境内にある「湧玉池」の説明板にも記載されている「つかふべき数にをとらす浅間なる御手洗川のそこにわくたま」という歌がある。これを詠んだ平兼盛は天元2年(977年)に駿河守に任ぜられているから、その歌に「浅間(神社)」と「湧玉(池)」が読み込まれているということは、少なくとも延喜式神名帳成立の頃(10世紀初め)には現在の鎮座地にあったことはほぼ確実とされている。


玄松子さんのHPから(富知神社):http://www.genbu.net/data/suruga/fukuti_title.htm


写真1:「富知神社」正面。形ばかりのご神橋を設置している神社もあるが、ここでは実際に小川を渡る。


写真2:社殿正面


写真3:拝殿の前にある「鉾立石」。富士山本宮浅間大社境内(楼門前の石段の上)にも同様のものがある。
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