神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

高寺第2号古墳(茨城県笠間市)

2020-06-27 11:54:44 | 古墳
高寺第2号古墳(たかでらだいにごうこふん)。
場所:茨城県笠間市小原2912(「廣慶寺」の住所)。JR常磐線「友部」駅北口から茨城県道193号線(杉崎友部線)を北東に約2.1km。駐車場有り。
「高寺第2号古墳」は、曹洞宗「住吉山 小原院 廣慶寺」内の墓地や山林中に散存する8基からなる「高寺古墳群」の1つである(同古墳のみ笠間市指定文化財)。墓地整備中に石室が発見され、昭和50年に発掘調査が行われ、幅約4.5mの周溝に囲まれた直径約18m、高さ約5.6mの円墳であることが判明した。主体部は全長約5mの花崗岩からなる横穴式石室で、南北に築かれている。玄室は片袖型の横穴式石室で、長さ約3.1m、奥壁の幅約1.6m、高さ約1.5mで、床には花崗岩、粘板岩の割石が敷かれていた。玄室内から骨粉が検出されたが、被葬者の性別、年齢などは不明。副葬品として直刀7振、管玉、琥珀製棗玉、銀環(耳飾)、刀子などが出土したほか、前庭部から須恵器、鉄鍬、土師器などが出土した。墳丘部からは武人埴輪、円形埴輪が見つかっている(なお、出土品は「笠間市立歴史民俗資料館で保存・展示されている。)。こうした出土品の内容・形状等から、築造時期は6~7世紀頃で、被葬者は当地の首長クラスと推定されているとのこと。
「常陸国風土記」那賀郡の条に「茨城の里の北に高い丘があって、晡時臥山(くれふしのやま)という。」(口語訳)とあり、この「茨城の里」が現・茨城県笠間市小原付近というのが通説(「晡時臥山」については、「朝房山」(2019年4月13日記事参照))。古代には、合併前の旧・笠間市は常陸国新治郡、旧・友部町は同茨城郡及び那珂郡に属した。そして、「小原(おばら)」という地名は、「茨城(うばらき)」が訛ったものと言われている。現・茨城県石岡市は、常陸国府が置かれた場所として、「「茨城」の地名発祥の地」ともしているが(「茨城廃寺跡」(2018年2月3日記事参照))、もともと当地が「茨城国造」時代の中心地で、大化改新の後に「常陸国府」が現・石岡市に置かれて、「常陸国」の中心が移ったという説も強い。
因みに、「廣慶寺」の南側の広い範囲内に中世の城館「小原城」があった。「廣慶寺」の南向い側から、「小原神社」や「御城稲荷神社」境内を含む。「御城稲荷神社」境内が本丸部分で、堀と土塁に囲まれている(土塁は一部残っているが、堀は埋め立てられてしまったようだ。)。手綱郷(現・茨城県高萩市)の地頭・里見家基が、鎌倉公方・足利持氏より那珂西郡の地を与えられ、「小原城」を築き、弟の満俊に小原地方を治めさせた。文亀2年(1502年)、里見義俊が養堂禅師の道風を慕って「廣慶寺」を建立したという。古墳等は多いものの、古代の施設跡などは発見されていないが、旧・友部町は現在でもJR水戸線と常磐線、北関東自動車道と常磐自動車道の交点となっているように、東西と南北の交通の要衝であることから、当地周辺が古代から繁栄していた可能性は高いと思われる(古代には、文化は上野国(現・群馬県)・下野国(現・栃木県)方面から伝播してきたと思う。)。


写真1:「廣慶寺」境内入口


写真2:同上、本堂。本尊:釈迦牟尼仏。


写真3:「高寺第2号古墳」。南側から見る。


写真4:同上、北側から見る。「廣慶寺」本堂の西北の墓地内にある。南向き斜面。


写真5:「小原神社(おばらじんじゃ)」鳥居と社号標。永徳元年(1381年)創建、旧称は「八龍神社」。祭神:高龗神・闇龗神・健速素盞嗚命。(場所:茨城県笠間市小原2234。「廣慶寺」の東、約250m)


写真6:同上、拝殿。


写真7:同上、本殿。


写真8:同上、境内の欅(ケヤキ)。境内にはケヤキの巨木が3本(1~3号)あり、これはその1号で、樹高約25m、目通り約7.1m、推定樹齢300年以上という。笠間市指定天然記念物。


写真9:「御城稲荷神社(みじょういなりじんじゃ)」鳥居。宝暦13年(1763年)創建。(場所:茨城県笠間市小原2193。「小原神社」の南、約350m)


写真10:同上、社殿。


写真11:「小原城」土塁跡。
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陰陽神社(茨城県常陸大宮市)

2020-06-20 23:58:07 | 神社
陰陽神社(いんようじんじゃ)。
場所:茨城県常陸大宮市山方4927。国道118号線「岩井橋」交差点から茨城県道29号線(常陸太田那須烏山線)に入り西へ、約2.4kmのところに案内看板があり、その先の側道を下りて直進すると鳥居前~駐車場。ただし、側道からは狭い道路なので、手前に「南皆沢公園」の広い駐車場があるので、そこに止めるのも良い。社殿までは鳥居前から徒歩約15分。
当神社の創建には、つぎのような話が伝わっている。水戸藩第2代藩主・徳川光圀が領内巡回の際、上大賀村(現・常陸大宮市上大賀)から北西を眺めると、径一尺(約30cm)ほどの金色の玉が飛んできて、十間(約18m)くらいに落ちて消えた。玉が飛んできた方角の岩山に登ってみると、山頂近くに「夫婦岩」と呼ばれる2つ並んだ巨岩があったので、「陰陽岩」と改称した巨岩を御神体として「陰陽山大権現」とし元禄4年(1691年)に社殿を建立した。これが現在の「陰陽神社」で、野上・ 長田・上大賀・小貫・西野内・舟生・山方の7村の鎮守とされていたという。東側の小ぶりな岩(高さ10m、幅23m、厚さ2.5m)を陰石(胎蔵界)、西側の大きな石(高さ8.8m、幅5.6、厚さ1.9m)を陽石(金剛界)とする。祭神は伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)で、夫婦和合・子授けの御利益のほか、雨乞いのときは陰石に、日照が欲しいときは陽石に祈願するという。ところが、残念なことに、平成23年の東日本大震災によって「陰陽岩」が倒れ、修復不可能な状態となってしまったとのこと。
さて、当神社については、巨岩だけでなく、ユニークな狛犬があることでも知る人ぞ知る存在らしい。胴長・短足で、高麗(10~14世紀に朝鮮半島にあった国)で狩りに使われた犬を模したものという説明がある。他の神社の「狛犬」も、「高麗犬」が語源だが、元々は「獅子」(ライオン)であって、犬ではない。当神社の狛犬も、実は「貔貅(ひきゅう)」と呼ばれる中国の伝説上の猛獣だそうで、貔が雄で、貅が雌ともいわれる。本来、邪悪を退ける動物ということだったが、金を食べる一方、尻の穴がないので、金を腹に貯め込むというところから、財神としての伝説も生まれたという。ということもあってか、元は寛政10年(1798年)建立のものがあったのだが、吽形の方が盗難に遭ったとかで、現在のものはその後再建されたものらしい。自然に崩壊することはやむを得ないが、人の手で損傷するのは止めてほしいものである。



茨城県神社庁のHPから(陰陽神社)


「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(陰陽神社):よく参照させていただいているHP。震災前に訪問されたようで、貴重な画像があります。


写真1:「陰陽神社」一の鳥居


写真2:参道の石段と二の鳥居


写真3:本殿が見えてくる。


写真4:本殿。なお、奉納された絵馬を見ると、夫婦和合・縁結びなどは殆どなく、合格祈願が多かった。


写真5:ユニークな狛犬、阿形。


写真6:同上、吽形。


写真7:崩壊した陰陽石の跡


写真8:山頂付近の尖った巨岩


写真9:崩れた岩
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箱石(茨城県常陸大宮市)

2020-06-13 23:30:51 | 名石・奇岩・怪岩
箱石(はこいし)。
場所:茨城県常陸大宮市山方。国道118号線「岩井橋」交差点から茨城県道29号線(常陸太田那須烏山線)を南西に約600m、「野球場、テニスコート」という案内板が出ているところを右折(北西へ)、約270mで「野球場入口」という案内板が出ているところの反対側の道路下、田圃の中。駐車場なし(道路を更に約300m進むと「山方運動公園」の駐車場がある。)。
「箱石」は、田圃の中にある一辺1.5m程の四角い巨石で、次のような民話がある。昔、この谷あいの上に「高館山城」という城があり、城主には美しい姫があった。しかし、この城が敵軍に攻められ、ついに落城となって、城主一族は城に火を放ち、みな自刃して果てるということになった。このとき、姫は母から譲られた蒔絵の針箱だけは永遠に残したいと思い、「石になれ」と叫んで崖下に投げた。その姫の願いが叶い、針箱は「箱石」に化したという。
現・常陸大宮市山方(旧・那珂郡山方町)は、平安時代後期から常陸国北部を支配した佐竹氏の勢力下にあった。佐竹氏第12代当主・義盛には男子がなかったため、関東管領・上杉憲定の次男、龍保丸が養子に入り、応永14年(1407年)、第13代当主・義人となった。翌年、その後見役として山方盛利(元は上杉氏の一族)が「山方館(山方城)」に入った。地元では「御城(みじょう)」といい、久慈川に突き出した丘の上にあった。本丸(本郭)のあった場所に現在、「御城展望台」という模擬天守がある(国道118号線「山方トンネル」が下を通っている。)。この「御城」の南側に城下町が形成されたのが、後の旧・山方町ということになる。永正年間(1504~1521年)頃、佐竹氏第15代当主・義治の第5子・政義が分家として東氏を名乗って山方に入ったため、主筋に遠慮した山方氏は「竜ヶ谷城」(「御城」から南に約1km)に移った。さて、民話の「高館山城」であるが、「御城」の範囲は相当広く、丘の西の奥に「詰の城」(最終拠点となる城)として、階段状に構築された8つの郭からなる「高館城」があったという(現・真言宗「密教山 宝蔵寺 密蔵院」の裏手)。実は、現在は同じ常陸大宮市だが、旧・那珂郡緒川村に「高館山」(標高229m)があり、その山上にも中世の城館跡である「高館城跡」があったということで、とても紛らわしいのだが、位置的には当然、旧・山方町の「高館城」の方である。民話では時期がはっきりしないのだが、佐竹義人の時代には、佐竹氏の庶家である山入氏が謀反を起こすなど、勢力基盤が非常に脆弱な頃だったと思われる。しかし、山方氏は盛利を初代として以後7代にわたって能登守を名乗り、佐竹氏に仕えたとされる。また、「御城」が攻撃を受けて落城したという史実はないらしいので、(いつ頃落ちてきたのかはわからないが)どうやら「箱石」の存在の方から物語ができたもののようである。


常陸大宮市のHPから(箱石)

「北緯36度付近の中世城郭」さんのHPから(山方城、高館城、竜ヶ谷城)


写真1:「箱石」。道路幡に説明板があり、その下の田圃の中に「箱石」がある。


写真2:近くに寄ると、四角い形がわかる。


写真3:同上


写真4:同上


写真5:「箱石」の東側は崖。ただし、岩壁が露出しているわけでもないので、「箱石」がどこから来たのか、確かに不思議。
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鏡岩(茨城県常陸大宮市)

2020-06-06 23:55:45 | 名石・奇岩・怪岩
鏡岩(かがみいわ)。別名:月鏡石。
場所:茨城県常陸大宮市照山1578。国道118号線「小貫入口」交差点から茨城県道165号線(山方常陸大宮線)を東に約1.6kmのところ(「奥久慈グリーンライン(照山線)」案内板が建てられている。)で左折(北~北東へ)して約1.1km進み、「鏡岩入口」案内板付近で左折(北西へ)、二岐では左へ進んで行き止まりに駐車場がある。二岐の右は地図で見ると「関喜一牧場」という牧場で、「鏡岩」へは、駐車場から牧場の縁を回り込むようにして未舗装の小道を進んだ先にある。
「鏡岩」・「鏡石」と呼ばれるものは、地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、光を反射するほど平滑な「鏡肌(スリッケンサイド)」と呼ばれる面を持つ岩を言う。このようなものは各地にあり、埼玉県神川町、岐阜県岐阜市、三重県亀山市、新潟県佐渡市などのものが有名で、国や県などの天然記念物に指定されていることも多い。特に、埼玉県神川町の「御嶽の鏡岩」は、武蔵国五宮(社伝では二宮)「金鑚神社」(式内社・名神大)から登ってゆく「御嶽山」の中腹にあって、神体山を祭祀対象として本殿を設けない「金鑚神社」にしてみれば、これも1つの信仰対象だったのだろう。
さて、常陸大宮市の「鏡岩」も石英斑岩の断層滑り面が露出しているもので、これが「常陸国風土記」久慈郡条の記事にある「石鏡」ではないかともいわれている。即ち、「久慈郡家の西北の方向6里に河内の里がある。(中略)・・・その東の山に石の鏡がある。昔、「魑魅」(すだま、おに?)が居たが、群れ集まってきて鏡をもてあそび、自分の姿が映るのを見ると、すぐに自然と居なくなってしまった。」(現代語訳)というもの。「久慈郡家」は現・常陸大宮市薬谷町・大里町付近にあったことがほぼ確実(「長者屋敷遺跡」2019年9月7日記事参照)で、「河内里」は現・常陸太田市(上・下)宮河内町が遺称地とされるので、郡家からの方向は西北だが、距離は合っていない(直線距離で約10kmあるのに対して、古代の6里は約3.2km)。また、「鏡岩」のある照山地区は、宮河内町からすると、西側になる。なので、「常陸風土記」の「石鏡」をこの「鏡岩」に比定するのには疑問もあるのだが、伝承によれば、当地は藤原(中臣)鎌足の所領で(藤原鎌足は現・茨城県鹿嶋市の生まれとする説がある。「鎌足神社」2017年11月18日記事参照。)、この石の小片は朝廷に献上された由緒あるものであるとして、公命がないと採取できないものであったという。また、江戸時代には、「西金砂神社」の祭礼に行く途中に、女性たちが姿を映して髪を梳かしたともいわれる。残念ながら、現在ではかなり風化してしまい、光沢は失われているが、茨城県指定天然記念物に指定されている。
因みに、「魑魅」は、今でも「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」という形で使うことがあるが、「魑魅」は山の妖怪、「魍魎」は川の妖怪とされる。下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)の「蝄」の字は虫偏だが、「魍」と同様、水の精霊を示すものだろう。「常陸国風土記」の時代でも、こうした自然の精霊(あるいは妖怪)が身近であったことが窺われる。


茨城県教育委員会のHPから(鏡岩)


写真1:「鏡岩」への入口付近。看板があったので、その奥の藪の中か、と思ったのだが、写真右手の方に小道がある。


写真2:小道を進むと東屋があって、その下に「鏡岩」がある。


写真3:「鏡岩」


写真4:石祠?
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