神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

國府神社

2013-01-26 23:33:40 | 神社
國府神社(こくふじんじゃ)。
場所:千葉県市川市市川4-4-18。京成電鉄「国府台」駅から県道1号線(市川松戸線、通称:松戸街道)を北へ約500m。坂の途中にあり、社殿へは更に急な石段を上る。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、下総国を平定して武蔵国に向う際、この台地上にいったん陣を置いた。台地の西側は多くの河川が乱流するデルタ地帯となっており、行軍の渡河について悩んでいたところ、一羽のコウノトリが現れて河川の浅瀬を教えたという。コウノトリの先導によって無事に武蔵国に到着することができたことから、この台地を「鴻之台(こうのだい)」と呼ぶようになったという。当神社は、こうした伝承に基づいて、祭神を日本武尊、コウノトリの嘴を御神体として、寛治元年(1087年)に創建したとされる。近世には「鴻王明神」、「鳳王社」、「鳳凰大明神」などとも呼ばれていたが、下総国府に建てられた神社であるため「國府神社」と改めたという。
しかし、この伝承は明らかに逆で、元々国府内にあったことから「國府神社」と称されていたというべきで、「国府」は一般に「こふ」または「こう」と読むことが多い(例えば、国府付属の津(港)は「こうづ」といい、相模国の国府津(現・神奈川県小田原市国府津)は現在まで地名として残っている。)。ここからコウノトリにこじつけたものと思われるが、伝承に日本武尊が登場することは一応留意しておきたい。
なお、当神社は元々、「六所神社」(前項)のあった「六所の森」に鎮座していたともいわれている。「六所神社」(現在は市川市須和田に鎮座)が下総国総社とされているので、当神社が下総国府と関連しているものだとすると、国司の私的な社祠として国司館の敷地に祀られていたものかもしれない。


写真1:「國府神社」入口鳥居


写真2:社殿


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六所神社(下総国総社)(千葉県市川市)

2013-01-19 23:56:39 | 神社
六所神社(ろくしょじんじゃ)。
場所:千葉県市川市須和田2-22-7。国道14号線(千葉街道)「新田五丁目」交差点から北へ、約900m。JR総武本線「市川」駅からも1.2kmほど。駐車スペースあり。
社伝によれば、景行天皇の勅願により創建されたもの(西暦115年頃?)で、下総国の総社とされている。国司には官社(式内社)を巡拝する義務があったが、交通不便な中、相当な困難があったと思われる。そうしたことから、国府の近くに「総社」を設け、ここにお参りすることによって全ての官社を廻ったことにすることが普通になった。偶々、国府の近くに式内社があった場合には、その式内社を総社にしたケースもあるが、下総国は「六所神社」という神社を創設したものだろう(したがって、創建時期は平安時代後半以降と思われる。)。総社というのは国内の神様を集めた神社であるから、祭神が多いのが普通で、当神社も主祭神は大己貴尊であるが、ほかに伊弉諾尊、素盞嗚尊、大宮売尊、布留之御魂、彦火瓊々杵尊の合わせて6柱の神を祀る(これにより「六所神社」と称する。)。因みに、相模国や安房国の総社も「六所神社」といい、武蔵国総社の「大國魂神社」は元は「六所宮」と称していた。ただし、それぞれの祭神は同じではない。そもそも、官社(式内社)巡拝を簡便に行うために総社が創設されたとすると、同国内の式内社の全ての祭神を祀らなければならないはずである(全国の総社の中には、そのような神社が存在する。)。しかし、なぜ6柱だけなのか。一説には、国内の神社を統括する役所を意味する「録所」が語源であるともされる。
さて、下総国の総社である当神社は、下総国府域内にあったと考えられている。総社の機能からすれば、当然だろう。で、その場所は、現在の国府台公園内で、旧鎮座地には「下総総社跡」という石碑と説明板が設置されている(写真3)。明治19年に国府台一帯が陸軍練兵場として買収され、当神社も現在地に遷座することになった。なお、軍用地となった後も、旧鎮座地には「六所の森」または「四角の森」という森が残っていたという。「四角の森」というのは、国庁が南向きの正方位で建てられるのが通例だったことを考えると、当神社も正方位に従った方形の境内地があった、とも考えられるのではないだろうか。


玄松子さんのHPから(六所神社(市川市))


写真1:「六所神社」


写真2:「景行天皇勅願所 府中六所宮」の石碑


写真3:元の鎮座地にある「下総総社跡」の石碑(場所:千葉県市川市国府台1-6-4。国府台公園内の野球場の北側。駐車場有り)
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下総国府

2013-01-12 23:18:39 | 史跡・文化財
下総国府(しもふさこくふ)。
場所:千葉県市川市国府台。
下総国の国府域は確定されてはいないが、和名抄に「国府在葛餝郡」とあり、現在も「国府台(こうのだい)」という地名が残る、いわゆる国府台台地(標高約22m)一帯にあったことは確実視されている。かつて、国府域は一般に方8町(=約873m四方)として造られたとされたが、各地の調査が進むにつれて、地形的な制約を受けて必ずしも方8町とは限らないことがわかってきた。国府台台地も東西が狭く、今、測ってみると700m~750mくらいである。また、「和洋女子大学」構内での発掘調査で、国府関連施設と思われる掘立柱建物など建物跡多数が発見されたほか、敷地の中心付近を南北に走る溝と道路跡が検出された。この道路が常陸国に向う古代東海道であった可能性が高く、国府の西端を画するものであったものと思われる。そうすると、国府は方6町(約654m)程であったことが想定される。ただし、「国府台台地」の先端から東に延びている「須和田台地」(現在は独立した台地になっているが、かつては「国府台台地」と一体だった。)にも国府関連施設が建ち並んでいたらしい。「須和田遺跡」は弥生時代中期から平安時代に亘る住居集落跡であるが、国博士の居館を示す「博士館(はかせのたち)」という墨書のある土器が出土しているという。これらの含めた発掘調査等によって、市川市教育委員会「図説市川の歴史」(平成18年2月)では、現在の「弘法寺」の東側に「葛飾郡家」があったと推定している。
さて、国府の中心施設である国庁はどこにあったのか。国府台は明治時代以降の軍用施設建設等で遺跡が大きく破壊されており、今後も発掘調査等で明確な位置が判明することは期待薄のように思われる。通説では、下総国庁は現在の「国府台公園」(スポーツセンター)の入口付近から、その東側にある野球場付近にあったといわれている。この付近には「府中」という小字があり、下総国の総社である「六所神社」(次項)の旧鎮座地の南西にある(つまり、「六所神社」は国庁の鬼門(北東)除けとなっている。)ということもあって、確かに有力だろうと思われる。


市川市のHPから(国府台公園)

同(須和田遺跡)


写真1:市川市「国府台公園」入口(場所:市川市国府台1-6。駐車場有り。)


写真2:同「須和田公園」(場所:市川市須和田2-34。駐車場なし)。「須和田遺跡」の石碑と案内板がある。後ろのフェンス内には弥生時代後期の復元住居が建てられていたが、不審火で焼失し、今はない。


写真3:県道1号線「国府台歩道橋」付近(奥が松戸市方面)。歩道橋の西側にも道路があるが、こちらのほうが古い道路で、元は「総寧寺」参道で、途中で「法皇塚古墳」の脇を通っていた。県道1号線は明治時代以降に刑務所の囚人の労働力によって切り開かれたものという。
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蛟蝄神社(下総国式内社・その11)

2013-01-05 23:30:31 | 神社
蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)。
場所:茨城県北相馬郡利根町立木882。千葉県側からは栄橋で利根川を渡り、茨城県道4号線を北東に向かう。「横須賀」交差点から東へ約1.8kmで「門の宮」。「奥の宮」は、更に東に約700m。いずれも駐車場あり(ただし、「奥の宮」の駐車場は狭い道を上るので注意。)。
社伝によれば、孝霊天皇3年(紀元前288年)に水神である罔象女大神(ミツハノメ)を現在の「門の宮」の場所に祀ったのを創始とする。文武天皇2年(698年)には、土神である埴山姫大神(ハニヤマヒメ)を合祀して、現在の「奥の宮」に遷座したという。古代には、当神社の東には広大な内海「香取海」が広がっており、当神社の辺りは西から流れてきた川(古鬼怒川?)の河口に当たっていたらしい。「蛟蝄」というのは竜の一種である「ミツチ」で、川の水の流れに当神社の名の由来があるようである。因みに、主祭神である「ミツハ(ノメ)」の語源は、ミは水、ツは助詞、ハはハハ(ヘビの古語)であるともいう。また、後にハニヤマヒメが合祀されたというのは、「ミツチ」を「ミ」(水)と「ツチ」(土)と解して、水神と土神を祀ったものではないかと考えられている。その意味では、当神社は農業神のようだが、当神社が式内社として尊崇されたのは、「香取海」の水上交通の安全の守護神でもあったからではないかとも思われる。更に、下総国から常陸国に向う古代東海道が当神社の付近を通っていた可能性が高く、その意味では、当地が交通の要衝であったのかもしれない。
ところで、当神社は近世には「文間(もんま)大明神」と呼ばれていた。これは、「蛟蝄」が「蚊虻(ぶんもう)」となり、更に「文間」と訛ったものといわれている(冗談のようだが、古文書にも証拠があり、どうやら本当らしい。)。ここから、地名となり(旧「文間村」)、現在も当神社の北にある「文間小学校」などの名に残っている。また、当神社の鎮座地は「立木(たつぎ)」(旧「立木村」)というが、これは、かつて日本武尊が東征のとき、当神社に戦勝祈願をしたとされ、「文馬」(装飾した馬)を立ち木に繋いだところに起源があるという。これはコジツケだろうが、日本武尊の名がでてくることには何らかの意味があるようにも思われる。ところで、当神社では、この「文馬」を記念して、「うまく行く守り」を頒布している。きれいな馬と9つの蹄鉄が描かれており、馬(うま)九(く)行くというわけである。


蛟蝄神社のHP

「タヌポンの利根ぽんぽ行」さんのHPから(蛟蝄神社門の宮)

同上(蛟蝄神社奥の宮)


写真1:「蛟蝄神社・門の宮」鳥居。向って右側に「立木貝塚」の説明板も立てられている。土偶等も出土しており、貝塚は、古代には単なるゴミ捨て場ではなく、祭祀の場所でもあったと考えられるようになってきた。


写真2:同上、社殿


写真3:同上、境内の神木のイチョウ(鳥居の向って左側)。あるとき、この木を伐ろうとしたところ、切り口から血が流れたことから、伐るのを止めたという。


写真4:「蛟蝄神社・奥の宮」参道石段


写真5:同上、鳥居


写真6:同上、社殿
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