國府神社(こくふじんじゃ)。
場所:千葉県市川市市川4-4-18。京成電鉄「国府台」駅から県道1号線(市川松戸線、通称:松戸街道)を北へ約500m。坂の途中にあり、社殿へは更に急な石段を上る。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、下総国を平定して武蔵国に向う際、この台地上にいったん陣を置いた。台地の西側は多くの河川が乱流するデルタ地帯となっており、行軍の渡河について悩んでいたところ、一羽のコウノトリが現れて河川の浅瀬を教えたという。コウノトリの先導によって無事に武蔵国に到着することができたことから、この台地を「鴻之台(こうのだい)」と呼ぶようになったという。当神社は、こうした伝承に基づいて、祭神を日本武尊、コウノトリの嘴を御神体として、寛治元年(1087年)に創建したとされる。近世には「鴻王明神」、「鳳王社」、「鳳凰大明神」などとも呼ばれていたが、下総国府に建てられた神社であるため「國府神社」と改めたという。
しかし、この伝承は明らかに逆で、元々国府内にあったことから「國府神社」と称されていたというべきで、「国府」は一般に「こふ」または「こう」と読むことが多い(例えば、国府付属の津(港)は「こうづ」といい、相模国の国府津(現・神奈川県小田原市国府津)は現在まで地名として残っている。)。ここからコウノトリにこじつけたものと思われるが、伝承に日本武尊が登場することは一応留意しておきたい。
なお、当神社は元々、「六所神社」(前項)のあった「六所の森」に鎮座していたともいわれている。「六所神社」(現在は市川市須和田に鎮座)が下総国総社とされているので、当神社が下総国府と関連しているものだとすると、国司の私的な社祠として国司館の敷地に祀られていたものかもしれない。
写真1:「國府神社」入口鳥居
写真2:社殿
場所:千葉県市川市市川4-4-18。京成電鉄「国府台」駅から県道1号線(市川松戸線、通称:松戸街道)を北へ約500m。坂の途中にあり、社殿へは更に急な石段を上る。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、下総国を平定して武蔵国に向う際、この台地上にいったん陣を置いた。台地の西側は多くの河川が乱流するデルタ地帯となっており、行軍の渡河について悩んでいたところ、一羽のコウノトリが現れて河川の浅瀬を教えたという。コウノトリの先導によって無事に武蔵国に到着することができたことから、この台地を「鴻之台(こうのだい)」と呼ぶようになったという。当神社は、こうした伝承に基づいて、祭神を日本武尊、コウノトリの嘴を御神体として、寛治元年(1087年)に創建したとされる。近世には「鴻王明神」、「鳳王社」、「鳳凰大明神」などとも呼ばれていたが、下総国府に建てられた神社であるため「國府神社」と改めたという。
しかし、この伝承は明らかに逆で、元々国府内にあったことから「國府神社」と称されていたというべきで、「国府」は一般に「こふ」または「こう」と読むことが多い(例えば、国府付属の津(港)は「こうづ」といい、相模国の国府津(現・神奈川県小田原市国府津)は現在まで地名として残っている。)。ここからコウノトリにこじつけたものと思われるが、伝承に日本武尊が登場することは一応留意しておきたい。
なお、当神社は元々、「六所神社」(前項)のあった「六所の森」に鎮座していたともいわれている。「六所神社」(現在は市川市須和田に鎮座)が下総国総社とされているので、当神社が下総国府と関連しているものだとすると、国司の私的な社祠として国司館の敷地に祀られていたものかもしれない。
写真1:「國府神社」入口鳥居
写真2:社殿