神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

下総国の古代東海道(その5・於賦駅)

2013-07-27 23:19:48 | 古道
「延喜式」所載の下総国最後の駅家は「於賦(おふ)」駅となる。ただし、例によって、その具体的な場所は不明である。
最近の研究によれば、承平年間(931年~938年)に編纂された「和名類聚抄」(略して「和名抄」)に記載されている相馬郡の「意部郷」という郷名と同じであり、この郷内にあったものと考えられる。また、正倉院文書の中に「下総国倉麻郡意布郷養老五年戸籍」というものがあり、養老5年というのは西暦721年で、「延喜式」の時代からは大きく遡るが、「倉麻郡」は相馬郡、「意布郷」は意部郷と同じものとされる。で、この戸籍に記載された人々の姓は殆どが「藤原部(ふじわらべ)」であるが、その後に台頭してきた藤原氏に遠慮して、天宝宝字5年(757年)の勅により「久須波良部(くすはらべ)」に改姓させられてしまったということがわかっている。ところで、千葉県我孫子市新木地区のいくつかの遺跡から「久須波良部」と記された墨書土器が発見された。その1つには「意布郷」の文字も合わせて記されたものがあり、これらの土器の年代が9世紀前葉~中葉と判定されたことから、我孫子市新木地区を中心に「意布(部)郷」があったことがほぼ確実になった。
こうして、この新木地区と相馬郡家の正倉跡とされる「日秀西遺跡」とはかなり近い位置(遺跡群の中心に近いJR成田線「新木」駅は「日秀西遺跡」の東、約2km)にあることから、まだ見つかっていない相馬郡家と於賦駅家の所在地もこの付近にあったのだろうという説が有力になっている。
なお、古代交通研究会会長・木下良氏は、次の常陸国「榛谷」駅(茨城県龍ヶ崎市半田町付近?)への道が低湿地を通ることになるため、舟を利用することも考え、古代の我孫子台地の先端となる現・利根町役場(茨城県北相馬郡利根町布川)付近に想定している(木下良著「事典日本古代の道と駅」)。ただし、古代の相馬郡には「布佐郷」があり、これが現在の我孫子市布佐付近だとすると、利根町役場は布佐の現・利根川対岸にある(古代には地続き?)。果たして、利根町役場付近は意部(布)郷に属したのだろうか。
ところで、下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事参照)門の宮は、JR「新木駅」の東・約6km、利根町役場の北東・約3.5km(いずれも直線距離)の場所にある。古代東海道の守護神であった可能性も考えられる。
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将門神社(千葉県我孫子市)

2013-07-20 23:59:01 | 神社
不思議なことに、「日秀西遺跡」(前項)の近くに平将門所縁の史跡がいくつかある。

将門神社(まさかどじんじゃ)。
場所:千葉県我孫子市日秀131。「日秀西遺跡」(旧・湖北高等学校)前から東へ、JR「成田線」の踏切付近まで戻り、約100m南下すると、「将門神社」の案内看板がある所を右折(西へ)、道なりに進んだ突き当り。なお、同じところを左折して少し下ると、「将門の井戸」がある。いずれも駐車場なし。
伝説によれば、天慶3年(940年)、平将門は敗死するが、遺臣が将門の霊とともに騎馬で手賀沼を押し渡って丘の上に立ち、朝日を拝した。後に村人がその所縁の地に一宇を建立し、将門を祀ったという。また、かつては「平新王の七騎大明神」とも呼ばれていたともいう。「日秀(ひびり)」という地名は難読だが、この伝承に因んで、「日出(ひいで)」が訛ったものともいわれている。ただし、将門が討たれた場所は、現在の「國王神社」の鎮座地(茨城県坂東市岩井。2012年10月6日記事参照)とされているので、手賀沼を渡る意味がよくわからない・・・。と思ったら、手賀沼の対岸(と言っても、南西)に、将門の三女という如蔵尼が創始したという「将門神社」(千葉県柏市(旧・沼南町)岩井)があり、この辺りから渡ってきたということになるらしい。後世の付会の疑いが濃厚のようだ。
なお、「将門の井戸」は、かつて中相馬の7ヵ村に1つずつあるといわれた井戸の1つで、日秀村では「石(岩)井戸」ともいわれ、承平2年(932年)に将門が開いたとされるもの。現在では、窪みに雨水が溜まっているだけにもみえるのが残念。

慈愍山 観音寺(じみんさん かんのんじ)。通称:ひびり観音。
場所:千葉県我孫子市日秀90。国道356号線から「日秀西遺跡」に向う(南下)市道の角にある。駐車スペースあり。
伝説によれば、元は「将門神社」境内に一堂を建立し、将門の守り本尊である聖観世音菩薩像(伝・行基作)を安置して「大悲山 和泉寺」と称したという(「和泉寺」というのは「将門の井戸」に因むもの。)。後に観音堂は現在地に移され、寛文2年(1662年)には曹洞宗の寺院となり、「観音寺」と称するようになったらしい。本尊は釈迦如来。ユニークなのは、国道356号線に面して安置されている石造の観音像で、少し首をかしげている。国道356号線は千葉県成田市に通じており、この地区では「成田街道」とも通称されている。この観音像が首をかしげているのは、成田市にある「成田山 新勝寺」に対して顔を背けているからだとされる。つまり、「新勝寺」こそ、平将門調伏のために開山された寺院であり、これを嫌っていることを示しているのだという。


我孫子市のHPから(ふるさと散歩モデルコース6「史跡と将門伝説の里を訪ねる」

「曹洞宗 観音寺」のHP

「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(日秀観音)


写真1:「将門神社」


写真2:同上、石祠


写真3:「将門の井戸」


写真4:「慈愍山観音寺」本堂


写真5:同上、観音堂


写真6:「首曲げ観音」。向って左が成田方面で、顔を背けている。 
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日秀西遺跡

2013-07-13 23:08:20 | 史跡・文化財
日秀西遺跡(ひびりにしいせき)。
場所:千葉県我孫子市日秀70。国道356号線沿いの曹洞宗「慈泯山 観音寺」の角を曲がって南下し、JR「成田線」の踏切を渡って次の角を右折(東へ)して約250m。駐車場なし。
「日秀西遺跡」は、手賀沼の北側の台地上にある、縄文時代から平安時代までの建物跡を中心とした遺跡で、旧石器時代の石製ナイフ等が出土したほか、縄文時代住居跡が2軒、弥生時代住居跡が2軒、古墳時代住居跡が188軒、奈良時代以降の建物跡が54棟が検出されている。特に、奈良時代以降の建物群は整然と建てられており、下総国相馬郡家(郡衙)に属する倉庫(正倉)跡と考えられている。建物の柱を立てた穴からは和同開珎の銀銭が見つかったが、もともと和同開珎は和銅元年(708年)に銀銭と銅銭が造られたものの、翌年には銀銭の使用が禁止されており、全国的にも珍しいもの。出土した銀銭は、意図的に半分に割られており、何か祭祀的な意味があったのではないかとみられている。
なお、「日秀西遺跡」は、県立湖北高等学校を建設する際に発見されたもので、古代郡家の遺構としては千葉県内最初の発見であったことから、遺跡の一部が保存のために埋め戻され、平成7年には県指定史跡に指定された。しかし、湖北高等学校(昭和54年開校)は平成23年に布佐高等学校と統合され(我孫子東高等学校と改称)、旧・湖北高等学校の校舎は使われなくなってしまい、現在は校内への立ち入りが禁止されている。


あびこ電脳考古博物館のHPから(日秀西遺跡)

千葉県教育振興財団のHPから(日秀西遺跡)


写真1:旧・湖北高等学校入口。遺跡は、左手の校内敷地(植栽部分)などの地下に埋め戻されているようだ。


写真2:説明板


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水神山古墳

2013-07-06 23:32:35 | 古墳
水神山古墳(すいじんやまこふん)。
場所:千葉県我孫子市高野山443-4。県道8号線(船橋我孫子線)「我孫子市若松」交差点から東に約700m進むと「香取神社」へ上る石段があり、その台地上の鳥居の前を右に(東に)進むと突き当たりに個人住宅の間から後円部が見える。そこから、いったん北側から住宅地の道路を東にぐるりと回りこむと、説明板のある前方部に到る。駐車場なし(台地下に「手賀沼親水広場」があり、その駐車場が利用できる。)。
「水神山古墳」は、ほぼ東西に向いた前方後円墳で、全長約69m、前方部の幅約33m、後円部の径約36mという東葛飾地区最大級のもの。築造時期は4世紀末~5世紀初め頃と推定されている。後円部墳頂に割竹形木棺を土で包んだ粘土槨が埋葬されており、ガラス小玉多数、滑石やガラス製の管玉のほか、刀子や針などが出土した。ガラス小玉はネックレスだったとみられ、遺体は発見されなかったが、埋葬者は女性首長であったかもしれないという。
もともと我孫子市には、手賀沼北岸の台地上に100基ほどの古墳があったといわれているが、住宅地化が進み、現存しているものは少ない。その中で、これほど大きな古墳が比較的保存状態が良い形で残っているのは貴重。手賀沼を見下ろす台地上、しかも崖ぎりぎりに造られているというのは、かつて「香取海」の一部だった手賀沼を舟で往来する人々に、その権威を見せつけるものだったのだろうと思われる。


「ちばの観光」のHPから(水神山古墳)


写真1:「香取神社」(住所:我孫子市高野山432)。この境内の周辺に幾つかの古墳があり、「香取神社古墳群」というらしい。


写真2:上記「香取神社」のすぐ東側にある古墳。石の鳥居と小祠があるが、祭神は不明。


写真3:「水神山古墳」の後円部が住宅の間に見える。


写真4:同上、前方部と説明板。古墳の向こう側(南側)は崖で、その先に手賀沼が広がっている。
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