神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

太平山三吉神社

2017-04-15 23:21:55 | 神社
太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)。通称:みよしさん、さんきちさん。
場所:秋田県秋田市広面字赤沼3の2(里宮)。JR「秋田」駅の北、秋田県道28号線(秋田岩見船岡線)の手形陸橋を東へ向かい、「広面小南」交差点を左折(北へ)、直ぐ。県道に面しておらず、入口がわかりにくいが、案内板が出ている。駐車場有り。
社伝によれば、白鳳2年(646年)、霊峰「太平山」(標高1170m)を開山した役小角(役行者)が創建、延暦20年(801年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征討の際、戦勝を祈願して堂宇を建立、再興したという。古くから修験の道場として栄え、現在も「太平山」山頂に奥宮があり、かつては登山道入口の1つである「野田(登山)口」に修験寺院「東光院」があった。現在の里宮鎮座地である「赤沼」は、現・JR「秋田」駅付近の「長沼」、「手潟」(現・手形)と並んでいて、広い沼沢地であり、ここに久保田(秋田)藩8代藩主・佐竹義敦が天明元年(1781年)に「雪見殿」を建てた。沼に舟を浮かべると水面に「太平山」が映り、同じく酒を満たした杯に映った山影を飲み干すことができるとして「飲山亭」と名付けたという。慶応4年(1868年)には藩主の遥拝祈願所が建てられ、これが現在の里宮社殿の起源となっている。神仏分離以前には、「太平山」を神体山として「太平山大権現」(本地仏:薬師如来)と称し、山伏や修験者が獅子頭を奉じて門毎に回り、神楽を演じて悪魔祓いの祈祷を行ったことで広く信仰が広まったらしい。現在も北海道から福島までの各地に「三吉神社」と称する神社があり、また近世には「太平山講」・「三吉講」という「太平山」登拝が流行して神社境内に記念の碑が多く建てられているが、それらの総本宮に当たる。明治期に入り神仏分離、明治12年には県社に列せられたが、現在も祭神は大己貴大神、少彦名大神、三吉霊神となっており、三吉霊神は独自の神挌である。「三吉神」は、元は修験者の1人で、藤原三吉(鶴寿丸)という力、勝負、破邪顕正を司る巨人(神)であるとされる。民間伝承では、例えば、「奥の枝折」(船遊亭扇橋著、天保12年)では「山鬼神大明神」と記し、久保田城下の茶町(現・秋田市大町)から母の実家にある「太平山」山麓の村に遊びに来ていた16歳の娘が、山中で山の神と契りを結んで生まれたのが「三吉神」で、後に山に入り、それぞれ山姥、山男になったとする。これらの伝承についてはともかく、「三吉神」は「太平山」そのものの化身であり、「だいだら坊」・「ダイダラボッチ」と呼ばれるものの1つだろうと思われる。
なお、毎年1月17日に行われる祭事「三吉梵天祭」は、「梵天」を奉納する先陣争いが勇壮なのが有名で、秋田県立美術館にある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」にも描かれている。


太平山三吉神社総本宮のHP

秋田県神社庁のHPから(太平山三吉神社)


写真1:「太平山三吉神社」正面鳥居と社号標


写真2:社殿。屋根の形は「太平山」をイメージしたものという。


写真3:東参道の鳥居
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平田篤胤之奥墓

2017-04-08 23:02:20 | 史跡・文化財
平田篤胤之奥墓(ひらたあつたねのおくつき)。
場所:秋田県秋田市手形字大沢21-1。「秋田大学」の裏手(東側)の道路沿い、「秋田大学大学院国際資源学研究科附属 鉱業博物館」の南,約250mのところに赤い欄干の橋があり、それを渡り直進(東へ)、その先の石段を徒歩、数分。駐車場なし。なお、「秋田大学 鉱業博物館」は、豊富な鉱物標本を展示していて入場料は何と100円という、石好きには見逃せない博物館である(駐車場有り)。そこから、「平田篤胤之奥墓」までは徒歩直ぐの場所になる。是非、併せて訪問することをお勧めする。
平田篤胤は江戸時代後期の国学者・神道家(1776~1843年)。出羽国久保田(秋田)藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として現・秋田市に生まれた。大和田家は千葉氏の流れを汲むとされ、後に「平将門より30世の子孫である」と自称している。20歳になると、無一文同然で脱藩し、江戸に出た。生活の苦難と戦いながら勉学に励んでいたところ、寛政12年(1800年)、25歳のときに備中国松山藩士で山鹿流兵学者であった平田篤穏の養子となった。その後、本居宣長(1801年没)に私淑し、享和3年(1803年)に処女作「呵妄書」を著してから、古代研究を中心に膨大な著作を次々に発表していった。平田篤胤は死後の世界(幽界・冥界)や仙界にも関心が高く、神仙界で修行してきたという「天狗小僧 寅吉」に取材して、文政5年(1822年)に「仙境異聞」を著している。その後も、「勝五郎再生記聞」、「古今妖魅考」、「稲生物怪録」など幽冥界に関わる奇譚の考察などを行い、後世の民俗学にも影響を与えているとされる。天保12年(1841年)、江戸幕府の暦制を批判した「天朝無窮暦」を出版したことで、秋田に帰るように命じられたうえ、以後の著述も禁止された。それまでも、厳しい儒教批判や尊王主義のため、幕府に目を付けられていたらしい。秋田に帰ってから、人魚の骨を手に入れ、食べたという書簡が残っている(国立歴史民俗博物館蔵)。長生きしてしまってよいものか、と悩む様子が書かれているが、人魚の存在と薬効は疑っていなかったようだ。しかし、その甲斐もなく、秋田に帰って2年後の天保14年(1843年)、68歳で病没した。没後も、その尊王攘夷思想が秋田に受け継がれ、戊辰戦争の際には久保田(秋田)藩が奥羽越列藩同盟から離脱し、新政府側につく背景になったともいわれている。
「平田篤胤之奥墓」であるが、遺言により、衣冠束帯の姿で現・秋田市の「手形山」に葬られ、墓石は本居宣長の没した伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の方角に向けられていると伝えられている。昭和9年、国史跡に指定された。なお、現・秋田市内には平田篤胤と佐藤信淵を祀る「彌高神社(いやたかじんじゃ)」もある。


「文化遺産オンライン」のHPから(平田篤胤墓)

秋田大学鉱業博物館のHP

彌高神社のHP


写真1:「平田篤胤大人終焉之地」石碑(場所:秋田県秋田市南通亀の町5−20)


写真2:後ろの小さい石碑は「石敢當」(前項「秋田市の石敢當」参照)


写真3:「平田篤胤之奥墓」入口。鳥居も見える。


写真4:「平田篤胤之奥墓」正面


写真5:「史蹟平田篤胤墓」石碑


写真6:自然石を使った墓石
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秋田市の石敢當

2017-04-01 23:25:30 | 名石・奇岩・怪岩
石敢當(いしがんどう、せっかんとう)。
場所:秋田県秋田市南通みその町ほか。JR「秋田」駅の南西、旭川と太平川に囲まれた、所謂「築山」地区を中心に多数。
「石敢當」は、表札のような石材(石碑のように大きなものもある。)に「石敢當」と刻したものを路傍に設置したもので、「敢當石」あるいは「散當石」と刻されたものもある。沖縄県に行くと、そこら中に見られるものだが、元々は中国発祥の民間信仰に基づくものらしいので、沖縄県・鹿児島県に多いのはわかるが、次いで多いのが秋田県なのだという。それも、秋田市の南通及び楢山を中心にした地区に集中している。幕末から明治初期にかけて建てられたものが多く、大正期の調査で47基、最近でも30基はあるだろうとされている。
「石敢當」は、読み下せば「石、敢えて當(当)たる」となることから、この石に当たると魔物の身体が砕けるという民間信仰から来たものという説が有力のようだが、人名という説もあって、由来の詳細は不明。「石敢當」が設置されているのは大体、丁字路の突き当りで、これは、魔物(沖縄では「マジムン」)は直線的にしか進めないと信じられているため、魔物がぶつかるところに置かれることになったもののようだ。
では、何故、秋田市内に多いのか。どうやら、江戸時代末期、藩校の教授として招かれた儒学者の中に「石敢當」に詳しい人物がいて、久保田(秋田)藩の武家の子弟に伝えられ、幕末の不安な時代に建立ブームが起きたのではないか、と考えられているようだ。特に、所謂「築山」地区は「内町(うちまち)」、即ち武士が多く居住する町で、侵入してきた敵を惑わせるため町内に丁字路やクランクが多く作られていたことも要因の1つらしい。家の建て替えや道路整備などで古い「石敢當」は減りつつあるようだが、比較的最近に作られたと思われるものも見かけるので、秋田の1つの文化として残してほしいとも思う。


写真1:「石敢當」。これは、秋田市内で最も大きいとみられるもの(場所:秋田市南通みその町)。


写真2:同上。オベリスクのような形で、撮影時には道路上にあったが、その後、後ろの住宅の敷地内に移されたようだ(場所:秋田市南通築地)。


写真3:同上、ただし、「敢當石」となっている。壁面に埋め込まれたもので、丁字路の突き当りにある(場所:秋田市楢山本町)。


写真4:同上。「石」の字が少し変わっている(場所:秋田市楢山本町)。


写真5:同上。これも「敢當石」。クランク状の道路際にある(場所:秋田市楢山登町)。


写真6:同上。3分の1くらい土に埋まってしまっている(場所:秋田市千秋明徳町)。


写真7:同上。これは「散當石」。「総社神社」の近くにある(2015年9月26日記事参照。写真は再掲)(場所:秋田市川尻みよし町)。
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