goo blog サービス終了のお知らせ 

神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鎌倉権五郎景政之墓(茨城県牛久市)

2025-04-28 23:33:19 | 伝説の地

鎌倉権五郎景政之墓(かまくらごんごろうかげまさのはか)。
場所:茨城県牛久市桂町2049。茨城県道68号線(美浦栄線)「下久野」交差点から北東に約1.5km(「奥野小学校スクールバス 桂」(バス停)の標柱があるところ)で右折(南東へ)、道なりに約900mで「金剛院」入口前。「権五郎之墓」は、東側の川を越えた向こう側で、車でも行けるが、道路が狭く駐車場もないので、南に約70m行ったところで左折(東へ)、突き当りを左折(北へ)、トータル約350mは徒歩を推奨。
鎌倉権五郎景政(景正)は平安時代後期の武将で、桓武平氏の流れを汲み、父の代から相模国(現・神奈川県)鎌倉を領地として鎌倉氏を名乗ったとされる。一説に、平高望または平良文の子孫とするが、詳細は不明。「後三年の役」(1083~1087年)に源義家に従って参戦し、右目を射られながらも奮戦した猛将として有名で、歌舞伎「暫」の主人公ともされている。亡くなった時期・場所は不明で、歌舞伎の主人公になるほど有名であったせいか、当地のほかにも墓所や所縁の地とされる場所があり、現・神奈川県鎌倉市周辺には今も「御霊神社」などとして景政を祀る神社が多い。
ということで、牛久市の伝承では、「後三年の役」の後、景政が鎌倉に帰る途中、現・牛久市の島田台(乙戸川と小野川の間の台地)で敵方の鳥海弥三郎保則に待ち伏せされ、右眼を射られながらも保則を斃したが、結局、当地で亡くなったとされる。景政は右眼に刺さった矢を従者の三浦為嗣に抜かせたが、このとき、為嗣があおむけに寝た景政の額を足で踏まえて矢を引き抜こうとしたため、「矢に当たって死ぬのは武士の本望だが、生きながら土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」といって激怒した。そこで、為嗣が膝で押さえて丁寧に矢を抜くと、近くの清水で眼を洗った。これが「おみたらしの池」で、抜いた矢は傍の「矢の根不動尊」(「矢の根神社」)に納められた。その後、桂村の民家に助けを求めたが、恐れられ、「聖伝寺」(廃寺)に行く途中の桂川に架かる橋から落ちて亡くなった。当時、景政はまだ16歳で、哀れんだ村人らが埋葬したという。
さて、景政が当地で亡くなったというのは史実ではないと思われる。「後三年の役」終結後の長治元年(1104年)頃、相模国高座郡南部の一帯(現・神奈川県茅ヶ崎市、藤沢市)を開墾して相模国最大の寄進型荘園である「大庭御厨(伊勢神宮領)」を成立させた。また、その「大庭御厨」を中心に、景政の子孫・支流が通称「鎌倉党」という武士団を形成したとされる。では何故、当地に景政の伝説があるのか(しかも、他所では「目洗いの池」とか「墓」とか単発の伝承が多いが、当地では史跡が多く、ストーリー性がある。)。県道68号線「牛久二中入口」交差点から北西、同48号線(土浦竜ヶ崎線)「岡見北」交差点までの道路を今も「鎌倉街道」と通称する。その東、乙戸川と小野川の合流地点にかつて「御用河岸」という船着場があり、近世まで小野川~霞ケ浦の水上交通があったといわれている。中世には、鎌倉からの物資や情報が当地に直接流通したのではないか。また、旧・桂下村の名主の先祖は諸国廻の聖であったとの伝承もあり、それらの人々により景政の劇的なストーリーが当地で語られるようになったのではないか、ともいわれている。
蛇足:当ブログの古い記事で、現・千葉県佐倉市の「長熊廃寺跡」(2014年1月4日記事)で「五良神社」(景政を祀る。)、現・秋田県横手市の「兜石」(2016年8月27日記事)で「景政功名塚」(景政が敵の屍を埋葬した塚とされる。)について触れている。また、千葉県野田市には、景政が築いたという「目吹城跡」(2025年2月1日記事)や「鎌倉権五郎目洗いの池」(2025年1月25日記事)がある。


東照山 金剛院 薬師寺(とうしょうさん こんごういん やくしじ)。
場所:茨城県牛久市桂町813。
寺伝によれば、寛治元年(1087年)、智円により開山されたという。天台宗の寺院で、近世には江戸崎「不動院」(「聖医王山 不動尊院 東光教寺」2022年6月18日記事)門徒。本尊は薬師如来で、宋風の作風等から鎌倉時代末期~南北朝時代の者とされている。当寺院で行われる「団子念仏」は、無病息災・五穀豊穣などを祈願して約33mの大数珠を輪になって回す数珠繰りを行うもので、牛久市指定無形文化財となっている。この大数珠(桐製)は鎌倉時代末期に建立されたという仁王像の木くずから作られたとの伝承がある。


牛久市のHPから(鎌倉権五郎物語コースpdf)


写真1:「おみたらしの池」。鎌倉権五郎景政が清水で射られた眼を洗ったところという。今は水はない。この辺りの地名を「赤井」という。(場所:県道68号線「牛久二中入口」交差点の東側にある「ヤマイチ味噌」の向かい側の狭い道路を北東に約700m。)


写真2:「矢の根神社」。「おみたらしの池」のすぐ南西側にある。景政が抜いた矢を納めたという。


写真3:「金剛院」参道石段


写真4:同上、本堂


写真5:同上、本堂内の仁王像(阿形)。


写真6:同上、景政の顕彰碑。昭和45年、旧・牛久町により建立された。


写真7:「鎌倉権五郎景政之墓」。平成19年、木村喜一氏により建立。


写真8:同上、新しい墓碑の背後に、旧墓碑がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河童松(茨城県牛久市)

2025-04-23 23:31:54 | 伝説の地

河童松(かっぱまつ)。
場所:茨城県牛久市城中町2690-3(「小川芋銭記念館(雲魚亭)」の住所)。国道6号線「牛久市遠山町」交差点から牛久土浦バイパスに入り、約1.1kmで左折(西~北西へ)、約450mで左折(西へ)、約350mで「牛久市観光アヤメ園」(住所:牛久市城中町2831-2、駐車場あり。)。「小川芋銭記念館(雲魚亭)」にも駐車場があるが、道順がわかりにくく、道路も狭くなるので、上記駐車場から牛久沼畔(「牛久沼かっぱの小径」)を散策しながら行くことを推奨(ただし、台地上に上るので少しきつい。徒歩約15分)。
河童は全国区の妖怪で、茨城県内にもいくつか河童伝説が残る場所がある。現・茨城県小美玉市、日本で1社とされる河童を祀る「手接神社」(2019年2月9日記事)について既に書いた。こちらは梶無川という川の河童だったが、茨城県での河童の本場といえば牛久沼で、河童に教えられた秘薬、河童に相撲を挑まれる話、河童に尻子玉を抜かれて水難に遭う話、沼の近くを通った農民の籠から好物のキュウリを盗られる話など、多数の伝説がある。その中でも有名なのが「河童松」という話で、次のようなものである。「牛久沼の河童はいつも悪さばかりして、村人を困らせていた。そこで、力が強くて泳ぎも得意という百姓・彦右衛門が大変な格闘の末、河童を捕らえ、沼辺の大きな松の木に縛り付けた。炎天下に三日三晩晒された河童は、頭の皿の水を失って弱り、ついに命乞いを始めた。村人らは哀れに思い、二度と悪さをしないよう約束させ、許してやった。その後、河童は悪さをしなくなったばかりか、沼の邪魔な葦などの草を刈り取って掃除するようになった。」。この河童を縛り付けたという松の木を「河童松」と呼んでいたが、残念ながら昭和30年に枯死し、現在のものは2代目だという。
因みに、牛久沼の河童が広く知られるようになったのは、河童をこよなく愛し、数多くの河童の絵を残した日本画家・小川芋銭(おがわうせん)によるところが大きいと思われる。芋銭の住居兼アトリエであった「雲魚亭」は「小川芋銭記念館」となっており、芋銭の業績を称える河童の碑などもある。芋銭は、牛久藩の大目付の家に生まれたが、廃藩置県により牛久沼畔で農業を営みながら画業を続けたという。


写真1:「牛久市観光アヤメ園」の河童像


写真2:同上


写真3:牛久沼


写真4:牛久市指定文化財「河童の碑」(正式名称は「芋銭先生記念碑」)


写真5:牛久市の「市民の木No.41」に指定されたスダジイの巨樹。樹高約15m・樹幹周り約4m、樹齢推定400年という。


写真6:「改善一歩」石柱。大正11年、青年たちが道標を立てようとしたことを知った芋銭が石柱を寄付したもの。


写真7:芋銭のアトリエ「雲魚亭」


写真8:茨城県初の女性医師・石島ゑいが大正3年、現・茨城県土浦市に開業した産婦人科「土浦病院」(平成30年閉院)から移設された「女護不動尊」石碑。


写真9:「河童松」。「雲魚亭」前の牛久沼を見下ろす台地上にある。


写真10:牛久沼に注ぐ稲荷川河口に架かる三日月橋にも河童像がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平将門 王城の地

2025-03-29 23:31:16 | 伝説の地

平将門 王城の地(たいらのまさかど おうじょうのち)。
場所:千葉県柏市大井。国道16号線と千葉県道282号線(柏印西線)の「大井」交差点から東へ約650mで左折(北へ)、道なりに約700m進んだ交差点で左折(北へ)、約550m(民家の塀に「相馬小次郎 平将門 王城通り」という案内板が掛かっている。)で左折(北西へ)、約120m。駐車場なし。
軍記物語「将門記」によれば、平将門が天慶2年(940年)11月に坂東(関東地方)を制圧して新皇を名乗り、坂東諸国の除目(国司等の任命)を行った。このとき、「王城」(皇居)を建設するとして、「王城を下総国の亭の南に建てよ。そして、檥橋(うきはし)をもって京の山崎とし、相馬郡の大井の津をもって京の大津としよう。」(口語訳)という計画を立てたという。後世、実際に「王城」が建設されたとして、これを「偽都」と称したりするが、天慶3年(941年)2月には将門が討ち死にしてしまうので、「王城」建設などしている暇はなかっただろう。ただ、この「王城」や「檥橋」、「大井の津」がどこを指すのか、という考察が盛んに行われ、例えば「王城」の場所は、現・茨城県常総市国生の「下総国亭(庁)跡」(2012年9月8日記事)の南ということで、同・坂東市岩井(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事参照)または同・守谷市本町(「守谷城址」(2021年7月24日記事参照)などに比定されてきた。
さて、「檥橋」(=浮橋)は不明だが、「京の山崎」が現・京都府大山崎町、「京の大津」が現・滋賀県大津市なら、前者は京都(平安京)の南西、後者は東~北東の入口に当たるので、方角的に対比させたものかともいわれている。そして、「(下総国)相馬郡の大井」であるが、奈良の正倉院古文書の天平17年(745年)の記事、同じく東大寺古文書の天平宝字6年(762年)の記事に「相馬郡大井郷」とあり、かなり古くからある地名であることがわかる。現・柏市大井が遺称地であることに異論はないが、「大井郷」の範囲が問題で、当然ながら、現・柏市大井よりもかなり広い地域が想定される。例えば、清宮秀堅著「下総国旧事考」(弘化2年(1842年)脱稿、明治38年刊行)によれば、古代には、現・茨城県取手市戸頭は大井郡の「津頭(しんとう)」(=渡し場)であり、利根川対岸の現・柏市布施に「布施屋」(=旅行者の一時救護・宿泊施設)があったという説を唱え、「将門記」を引用しているので、現・取手市戸頭を「大井の津」と考えていたことが窺われる。
一方、遺称地として唯一はっきりしているのが現・柏市大井であり、北側に手賀沼があって、そこに津(渡し場、港)もあっただろう、ということで、当地が「王城の地」であるという伝承もある。将門関連の史跡とされるものも散在しており、将門伝説流布の色濃い地域である。現・柏市大井は、室町時代中期までは相馬氏の所領であったらしいので、その影響だろう。また、当地の将門伝説地は天台宗「教永山 福満寺」(2025年3月22日記事)境外地が多く、意図的に流布されたものではないかと思われる。


柏市のHPから(阿弥陀様板碑)

同上(妙照寺の杉樹)


写真1:「相馬小次郎 平将門 王城通り」案内板。「平将門 王城の地」は、ここを左に入る。


写真2:「平将門 王城の地」説明板がある場所。南側から北側(奥の方に手賀沼がある。)を見る。現状は畑だが、奧の塚のようなところを「将門山」または「城山」というらしい。また、当地区の地名(字)は「舟戸」というので、手賀沼の渡し場があったような地区なのかもしれない。


写真3:同上、西側から見る。


写真4:「将門山」の小祠


写真5:阿弥陀堂。写真1のところから南西に約40m(住所:柏市大井2207-2)。「福満寺」の境外地にある「阿弥陀堂」で、中に鎌倉時代中期頃と推定される板碑を安置している。板碑は柏市指定有形文化財。(将門とは無関係ですが、名品なのでご紹介しました。)


写真6:同上、阿弥陀堂内の板碑


写真7:「追花弁才天」。日蓮宗「妙照寺」前にある。ここも「福満寺」の境外地であるという。中世城館「大井追花城」は、「妙照寺」前の谷津の南西側台地上にあったとされるが、かなり地形が変わっているようで、城館跡らしいものはあまり残っていない模様。「大井追花城」は将門の重臣・坂巻若狭守の居城だったという伝承がある。坂巻を始め、石原・石戸・吉野・富瀬・久寺家・座間の七家を「大井七人衆」と称し、将門の影武者を務めたともいう。


写真8:日蓮宗「長國山 妙照寺」山門(場所:柏市大井1070。「大津ヶ丘中入口」交差点から北へ約550m。駐車場あり。)。


写真9:同上、本堂。「妙照寺」は正応元年(1288年)、日蓮聖人の直弟子・日辨上人によって開山されたが、元は弘仁年間(810~824年)創建の通称「大井の御堂」という真言宗の堂があったという。現在は本堂に鬼子母神を祀り、御利益は安産・子育てなど。


写真10:同上、境内の「竜神堂」。「弁才天」や「竜神」は水の神なので、この辺りは湧き水の豊かなところだったと思われる。


写真11:同上、「妙照寺の杉樹」。目通り幹囲約6m、当寺院創建のときに植えられたといわれ、推定樹齢約750年とされる。柏市指定天然記念物。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉権五郎目洗いの池(千葉県野田市)

2025-01-25 23:31:03 | 伝説の地
鎌倉権五郎目洗いの池(かまくらごんごろうめあらいのいけ)。
場所:千葉県野田市目吹1754。千葉県道3号線(つくば野田線)と同7号線(我孫子関宿線)「野田市目吹」交差点から北西に約350mで左折(南へ)、約200m。駐車場なし。
鎌倉権五郎平景政(景正)は、桓武平氏の祖・高望王(平高望)の5世孫といわれ、源義家に従って「後三年の役」(1083~1087年)に参戦、矢で右目を射られるも奮闘し、清原武衡の家臣・鳥海弥三郎を討ち取ったとされる猛将である。歌舞伎十八番のうち「暫」の主人公であり(ただし、その豪勇さから名を借りただけ。)、現・神奈川県に多い「御霊神社」の祭神ともなっているが、当地の伝承では、「後三年の役」の戦功により、現・野田市目吹の一帯を知行地として与えられたとされる。そして、その領内に、1年中涸れることがない不思議な泉があるのを聞き、その湧水に右目の傷を浸したところ快癒したという伝説があり、その泉を「鎌倉権五郎目洗いの池」と称し、「目吹(めふき)」という地名の由来ともなっているという。
ただし、「目吹」という地名は、古代、当地一帯に官牧(国が管理する牧場)として馬牧の「長洲牧(長洲馬場)」が置かれ(当地の北、約9kmに現・茨城県坂東市長須という地名があり、これが遺称地とされる。)、「馬夫給(めぶき)庁」という役所があったことで「めふき」という地名が生じたという説も有力。
蛇足:当ブログの古い記事で、現・千葉県佐倉市の「長熊廃寺跡」(2014年1月4日記事)で「五良神社」(景政を祀る。)、現・秋田県横手市の「兜石」(2016年8月27日記事)で「景政功名塚」(景政が敵の屍を埋葬した塚とされる。)について触れているので、ご参照ください。


野田市観光協会のHPから(鎌倉権五郎目洗いの池)


写真1:「鎌倉権五郎目洗いの池」入口。道路沿いに標柱が立っており、そこから雑木林(竹林)の中を少し下る。


写真2:結構急な下り坂。


写真3:竹林の先に水面が光っている。


写真4:足元の土がかなり柔らかく、あまり池に近づくと沈み込みそうだ。また、池は落葉などで殆ど覆われている。


写真5:池の入口の向かい側にある庚申塔などの石造物。野田市内にはこうした石造物が多く残されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸主名馬尊

2024-10-26 23:32:28 | 伝説の地
幸主名馬尊(こうしゅめいばそん)。通称:名馬さま。
場所:茨城県猿島郡五霞町幸主(「幸主農村公園」内)。新4号国道(春日部古河バイパス)「工業団地前)交差点から西へ約900mで右折(北へ)、約90m。駐車スペースあり。
「幸主名馬尊」は、源頼朝から派遣された範頼・義経が源(木曽)義仲と戦った「宇治川の戦い」(寿永3年(1184年))で先陣争いをして勝った武将・佐々木高綱の愛馬「生唼(いけづき。「生月」、「池月」などとも書く。)を祀る祠堂である。「生唼」は頼朝秘蔵の名馬で、同じく名馬「磨墨(するすみ)」を与えられた梶原景季との間で、雪解け水で増水した宇治川をどちらが先に渡るかで争ったが(いろいろ経緯はあるが省略)、結局、佐々木高綱と「生唼」が先陣の栄誉を得た。当地での伝承では、その後日譚のような形になっている。治承4年(1180年)、源頼朝は、若い2人の武将、梶原源太景季に麿墨を、佐々木四郎高綱に生唼という名馬を与えた。2人は、この名馬に乗って「宇治川の戦い」で先陣を争った。その後、頼朝による奥州平定の戦い「奥州合戦」(文治5年(1189年))にも、佐々木高綱と生唼、梶原景季と磨墨は参加し、帰途、現・五霞町に辿り着いた。当地には奥州と鎌倉を結ぶ街道が通っており、高綱の陣屋が現・五霞町幸主(元は幸館村といい、村名は佐々木高綱の館があったことに因むという。その後、幸館新田・主税新田と合併して幸主村となり、明治22年に五霞村大字幸主となった。)にあり、景季の陣屋が現・五霞町小福田にあった。景季の陣屋の傍には大きな沼があり、景季は「鎌倉路 する墨池の 秋の月」という句を詠んだという。この池は大正9年頃まではあったが、現在は干拓されて水田になっている。景季と磨墨は無事に鎌倉に帰ったが、高綱の愛馬・生唼は刀傷を負い、当地で亡くなった。高綱は、生唼の遺体を陣屋(現・五霞町幸主38。通称「天神山」)まで運ばせ、その東約100mのところに塚を造って葬った。後の人々が塚に約3尺(=約91cm)の墓碑を立てた。江戸時代、関宿藩主・久世大和守がこの墓碑を関宿城に運ぼうとして、江戸川の渡しに差し掛かったところ、墓碑が急に重くなり、動かなくなった。やむなく、元の場所に戻された。その後、村人らが墓碑の前に拝殿を造り、馬の神様として祀ったという(現在、拝殿の背後にある石碑はこれとは異なり、明治43年に建立されたもの。)。なお、安政5年(1858年)出版の赤松宗旦著「利根川図志」には「幸館村薬師堂 生月塚」として墓碑の絵も掲載されているが、梵字らしき文字が1字刻された樽のように太い本体に笠が載せてある形となっている。宗旦は、「生月(生唼)というのは信じ難いが、古い駿馬の塚だろう。」(現代語訳)と感想を述べている。物資輸送を馬に頼っていた時代には大変賑わったが、戦後は運送も農耕も機械化されて馬の利用が激減すると寂れてしまったという。
蛇足:佐々木氏は宇多源氏の一族で、近江国佐々木庄(現・滋賀県近江八幡市)を本貫地とするが、高綱の屋敷は現・神奈川県横浜市港北区鳥山町の「鳥山八幡宮」付近にあったとされ、その近くにある「馬頭観音堂」は、「生唼」の墓を高綱が「駒形明神」として祀ったものだという。


五霞町のHPから(幸主名馬尊)


写真1:「幸主名馬尊」前に並ぶ石仏など。


写真2:同上、背後には六地蔵?も。


写真3:十九夜供養塔。如意輪観音は女人講の守護仏である。


写真4:「幸主名馬尊」祠堂。扁額は「生唼名馬尊」となっている。


写真5:「幸主名馬尊」石碑


写真6:傍らにある「薬師堂」


写真7:境内奥の石塔など。後ろに見えるのは首都圏中央連絡自動車道(通称:圏央道)で、トラックなどの往来が激しい。交通手段は馬から自動車に変わったが、今も交通の要衝であることに変わりないようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする