神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

愛宕神社古墳(茨城県石岡市)

2023-11-25 23:33:42 | 古墳
愛宕神社古墳(あたごじんじゃこふん)。通称:景清塚。
場所:茨城家石岡市貝地2-6-13。国道6号線「貝地」交差点から茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)を南西へ約190m進んだところで左側道に入り、突き当りY字分岐を左(北東へ)、約50m。駐車場なし。
「愛宕神社古墳」は、直径約10m・高さ約2mの円墳とされるが、一部削平されており、発掘調査等も行われていないようなので、詳細は不明。墳頂に「愛宕神社」が勧請されているため、その名があるが、平安時代末期~鎌倉時代初期の武士で、悪七兵衛の異名で有名な藤原景清を祀るという伝承があって、「景清塚」とも呼ばれている(とすると、古墳時代の「古墳」ではなく、中世以降の「塚」かもしれない。)。景清は所謂「源平合戦(治承・寿永の乱)」(1180~1185年)で平氏方につき、「屋島の戦い」等で奮戦したので平景清と通称されるが、本姓は藤原氏(俵藤太こと藤原秀郷の後裔)で、伊勢の藤原氏ということで伊藤氏とも名乗ったとされる。平氏方の有力武将で上総介・藤原忠清の七男であるため、上総七郎とも呼ばれたということから、坂東(関東地方)に所縁があると思われ、現・石岡市生まれとする伝承もあるが、前半生は全く不明となっている。「壇ノ浦の戦い」で敗れた後に捕らえられ、八田知家(小田氏の祖、現・茨城県つくば市に「小田城」を築城。常陸国守護)に預けられたが、建久7年(1196年)、自ら食を断って果てたとも伝えられている。このようなことから、能や歌舞伎などの主人公として取り上げられ、各地に墓・供養塚などがある。
さて、この古墳の南側に日蓮宗「平等寺」があるが、その境内は「景清屋敷」とも呼ばれ、12世紀前半、在庁官吏の「国掌屋敷」のあったところと伝承されている。かつては西方に竹藪があり、明治末期までは土塁が築かれていたという。「石岡市史」では、「国掌所」は正税などの運送を分担した官衙であるとし、それがあった場所と推定している。因みに、当地の地名の「貝地(かいじ)」であるが、その語源として、①地方豪族の縄張り、即ち「垣内(かいと、かいち)」とする説、②官衙・役所を意味する「廨」がある場所、即ち「廨地(かいち)」とする説があり、「石岡市史」は後者の②説を採用しているようである。その当否は不明だが、仮に、当地に地方官衙あるいは地方豪族屋敷があり、そこに景清という名の人物がいたとすれば、悪七兵衛・藤原景清ではなかったとしても、それが有名な景清ということになって、伝説が作られたということがあったのかもしれない。

一妙山 平等寺(いちみょうざん びょうどうじ)。通称:貝地の法華様。
場所:茨城県石岡市貝地2-7-8。「愛宕神社古墳」の南側。駐車場有り。
大僧正・本雄院日舜上人の開基で、元は石岡市国府2丁目(旧・木之地町)にあって「一妙庵」といった。後に日勝上人が現在地に移転。明治12年に本堂建立。日蓮宗の寺院で、本尊は十界大曼荼羅。なお、日舜上人というのは、現・東京都大田区の日蓮宗大本山「池上本門寺」(「長栄山 大国院 本門寺」)第66世貫主(天保2年(1831年)~明治34年(1901年))のことと思われる。


写真1:「愛宕神社古墳」。墳形に沿って、道路がカーヴしている。


写真2:同上、「愛宕神社」鳥居と社号標


写真3:同上、墳頂の「愛宕神社」社殿。祭神:軻遇突智命。


写真4:同上、「平景清公之霊地」石碑


写真5:西側に隣接する「貝地町公民館」敷地端にある「茨城廃寺五重塔露盤レプリカ」と説明板。五重塔の露盤は塔の相輪の土台となるもので、本物は「きんちゃく石」(石岡市茨城1丁目、「茨城廃寺」(2018年2月3日記事)の写真6参照)とみられている。玉垣?に「茨城国廨地」と刻されている。


写真6:同上


写真7:日蓮宗「平等寺」
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常陸大掾氏墓所

2023-11-18 23:34:01 | 史跡・文化財
常陸大掾氏墓所 (ひたちだいじょうしぼしょ)。
場所:茨城県石岡市国府5-9-3(「平福寺」の住所)。「富田北向観音堂」(前項)の東側約20mのところに「平福寺」参道入口がある。入口がやや狭いが、境内に駐車スペースあり。
曹洞宗「春林山 平福寺」の境内に「常陸大掾氏墓所」がある。伝承によれば、平安時代中期、桓武天皇の曾孫である平国香が坂東に下向して常陸国に土着、常陸国の大掾となり、菩提寺として天台宗「興国山 平福寺」を開基した。寺号は、平氏の繁栄(福)を祈念して名付けたものという。因みに、国司の官職は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4つあり、掾は第3等官に当たる。常陸国の国級が「大国」であったため、掾に大掾と小掾があり、また、親王任国として国守に親王が補任されるが、赴任はしなかったので、大掾は実質的には国司のナンバー2となる。そして、国香の子・貞盛が平将門の乱を鎮圧した功績により、その子孫が常陸大掾職を継承、在庁官人を掌握して「大掾氏」と称するまでになったとされる。さて、「平福寺」内の「常陸大掾氏墓所」というのは、高さ1.62mという大きな五輪塔を中央にして、その周囲に14基の五輪塔が並んでいるもので、一説に中央の五輪塔が平国香の墓(あるいは供養塔)であるという。ただし、平国香流の常陸平氏の惣領が代々、大掾職を承継して常陸国府の在庁官人を支配してきたというのは史実に反するようで、どうやら、鎌倉時代初期に常陸平氏の庶流である馬場資幹が源頼朝から祖先に因んだ常陸大掾の地位を与えられてから、世襲としての「大掾氏」が成立したらしい。なお、「平福寺」が天台宗から曹洞宗に改宗した経緯は不明とされているが、大掾氏が天台宗を信仰していたのに対し、大掾氏を滅ぼした佐竹氏が曹洞宗を信仰していたらしいので、それに起因したもの思われる(佐竹氏は「関ヶ原の戦い」の後に出羽国秋田(現・秋田県)に転封となるが、寛正3年(1462年)に常陸国久慈郡太田村(現・茨城県常陸太田市)に創建された佐竹氏菩提寺の曹洞宗「萬固山 天徳寺」も現・秋田県秋田市に移転している。)。こうしたことなどから、「常陸大掾氏墓所」の石塔は、(馬場)大掾氏第9代・詮国(貞和2年・正平元年(1346年)に「府中城」を築いたとされる人物)以降のものとみられているようである。


写真1:「平福寺」本堂。本尊:如意輪観世音菩薩。


写真2:同上、本堂の向かい側にある「常陸大掾氏碑」(高さ3.2m・幅1.8m)


写真3:同上、本堂の南側にある「常陸大掾氏墓所」


写真4:同上


写真5:同上。中央の最も大きな五輪塔が「平国香の墓」とされるもの。


写真6:同上、境内には「景清の墓」という五輪塔もある。歌舞伎などで有名な悪七兵衛・平景清(藤原景清)は現・石岡市の生まれという伝承があるという。
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富田北向観音堂

2023-11-11 23:33:35 | 寺院
富田北向観音堂(とみたきたむきかんのんどう)。
場所:茨城県石岡市国府5ー9-34。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を北西へ約130mで左折(西へ)、約85m。駐車場なし。なお、西隣に「府中誉」醸造元(酒蔵)がある。
「富田北向観音堂」は、常陸国の総社である「總社神社(通称「常陸国総社宮」)」(2018年1月13日記事)の神宮寺に付属する観音堂であったといわれている。元は神宮寺とともに「常陸国総社宮」の地内にあり、「景清の産湯の水」と称する泉の近くに藤原景清(平安時代末期~鎌倉時代初期の武士、通称:悪七兵衛 平景清)の守り本尊の観音像を安置した仏堂を建てたとの伝承がある。元禄年間(1688~1704年)に神宮寺が現在地から北方約50mの旧・石岡市富田町(現・国府4~6丁目及び貝地2丁目)内に移され、更にその後、 現在地に移ったことにより観音堂も当地に移築されたという。現在では、神宮寺はなく、この観音堂だけが残っている。堂本尊は十一面観世音菩薩で、安産・子育て・厄除けに御利益があるという。天仁年間(1108~1110年)の銘がある鰐口も残されており、石岡市指定文化財(工芸品)となっている。
なお、南側にある曹洞宗「平福寺」境内には「常陸大掾氏墓所」(次項予定)と「平景清の墓」という五輪塔がある。


写真1:「富田北向観音堂」境内入口


写真:「富田北向観音堂」


写真3:同上、境内の地蔵堂、石碑。
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高照山 養願院 東耀寺

2023-11-04 23:31:17 | 寺院
高照山 養願院 東耀寺(こうしょうざん ようがんいん とうようじ)。
場所:茨城県石岡市若宮1-1-13。国道355号線と茨城県道277号線(石岡停車場線)の「国府三丁目」交差点から国道を南に約50mで右折(西へ)、通称「土橋通り」を約290mで右折(北へ)、約90m。駐車場有り。
寺伝によれば、養老5年(721年)、第40代・天武天皇の第6皇子・舎人親王が常陸国巡回の折、霞ヶ浦を船で渡るうち阿弥陀如来像が流れ着いたので、拾い上げて当寺院を建立したのが創建という。一説によれば、大宝年間(701~703年)頃に弓削道鏡が伽藍を建立したともいうが、道鏡は文武天皇4年(700年)頃の生まれとされているので、時代が合わない。また、伝承によれば、「筑波山寺(筑波山 中禅寺)」(「筑波山 大御堂」(2020年9月26日記事参照))を開いた奈良時代の法相宗の僧・徳一(749?~824年)が創建したともいう。当初は法相宗で、天元3年(980年)頃は「広大寺」と称して常陸総社掛を勤め、「常陸国総社宮」(「總社神社」2018年1月13日記事)の臨時祭を行ったという。その後、真言宗「真観山 正上院 広大寺」として「五智山 光明院 南圓寺」(現・茨城県かすみがうら市加茂)の末寺になっていたが、本寺の「南圓寺」との間で争論が生じ、寛永17年(1640年)に天台宗に改めて「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区)の直末寺となり、現在の寺号に改称した(争論の内容は不明だが、「南圓寺」は応永元年(1394年)の開山で、当寺院より遅れるが、領主・小田氏の庇護を受けて「常陸真言宗四大寺」の1つとして栄えた。戦国時代を経て小田氏が没落したこともあり、江戸時代に入ると、本末関係に不満が生じたのかもしれない。)。寛文3年(1663年)、火災により焼失。また、明治38年にも火災に遭い、大正初年に再建した。現在は天台宗の寺院で、 昭和53年に別格本山に昇格。本尊は阿弥陀如来。
なお、元禄年間(1688~1704年)頃、時の藩主の命により「常陸国総社宮」境内にあった神宮寺が富田町地内に移された際、一種の神仏分離が行われ、神社内の釈迦如来像などの仏像と社僧は当寺院へ、観音像は神宮寺(現・「富田北向観音堂」(次項予定))に移されたという(当寺院には元々、「府中六観音」の1つといわれた千手観音像があったためらしい。)。


写真1:「東耀寺」山門と寺号標


写真2:入ると、正面に「天台宗別格本山」寺格石柱と「閻魔堂」(堂本尊:閻魔大王)


写真3:左手に曲がっていくと、本堂(東向き)
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