神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

白雲山 普明院 小松寺

2019-05-25 23:55:39 | 寺院
白雲山 普明院 小松寺(はくうんざん ふみょういん こまつじ)。
場所:茨城県東茨城郡城里町上入野3912。茨城県道51号線(水戸茂木線)と同52号線「石岡城里線」の「小松」交差点(角にコンビニ「セイコーマート常北上入野店」がある。)から、51号線を西へ約600m。駐車場は参道入口の向かって左側の道路を約150m上ったところにある。
寺伝によれば、天平17年(745年)に行基大僧正が「白雲山」(当寺院の裏山)山頂に大御堂を建立し、十一面観音像を祀ったのが始まり。当時は法相宗の「白雲山 普明院」。後に、平清盛の嫡男・平重盛の家臣であった平貞能が重盛の遺骨を「白雲山」に葬り、自ら仏門に入り小松坊以典と号して、生涯、重盛の菩提を弔ったという。その経緯は、おおよそ次の通り。治承3年(1179年)、平重盛は、清盛より先に亡くなり、翌年には「富士川の戦い」で平氏が大敗、更にその翌年(治承5年:1181年)には清盛も死去。寿永2年(1183年)には平氏の「都落ち」となるが、同年、平貞能は九州で出家し、戦いから離脱。そして、重盛夫人と妹を伴って北陸道から下野国塩原(現・栃木県那須塩原市)に隠れ住んでいたが、平氏滅亡後の元暦2年(1185年)、縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降した。宇都宮朝綱の助命嘆願が実り、貞能の身柄は朝綱に預けられた。その後、当地に重盛の遺骨を葬り、天台宗寺院として「小松寺」を建立したという。現在も、重盛の墓と伝えられる宝篋印塔のほか、貞能、重盛夫人(得律禅尼)の墓と称する五輪塔2基が残されている。また、寺宝である平重盛の念持仏と伝えられる「浮彫如意輪観音像」は中国・唐代のものとみられ、平氏が中国から輸入したという可能性があるという。嘉慶元年(1387年)には、大掾頼幹が常陸国久慈郡上岩瀬(現・茨城県常陸大宮市)出身の高僧・宥尊を招いて中興し、真言宗の寺院となった。なお、「小松坊」、「小松寺」の「小松」とは、平重盛が京都・六波羅小松第に居を構えていたことから「小松殿」、「小松内大臣」などと呼ばれていたのに因むものである。天正13年(1585年)、戦乱により唐門と観音堂を残し焼失したが、寛文3年(1663年)に水戸藩第2代藩主・徳川光圀の寄進により再建されたという。現在は真言宗智山派に属し、本尊は大日如来。


小松寺のHP


写真1:「小松寺」境内入口。寺号標と並んで「史蹟 小松内大臣平重盛公墳墓」石碑。枝垂桜も有名。なお、駐車場は左手の道路を上る。


写真2:唐門


写真3:観音堂(十一面観世音菩薩)。こちらにも枝垂桜。


写真4:観音堂の彫刻


写真5:本堂(本尊:大日如来)


写真6:「伝内大臣平重盛墳墓」(茨城県指定史跡)。石段の上の五輪塔がそれだという。
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有賀神社(茨城県水戸市)(常陸国式内社・その16の3)

2019-05-18 23:22:11 | 神社
有賀神社(ありがじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市有賀町1028。国道50号線と茨城県道52号線(石岡城里線)の「内原跨線橋北」交差点から県道を北へ約1.1km、押ボタン式信号機のある交差点を左折(西へ。「有賀神社 入口」の看板が出ている。)、約40m進んで右折(北西へ。ここにも看板が出ている。)、約180mで神社正面。駐車スペース有り。
社伝によれば、貞観元年(859年)、那賀(仲)国造により創建されたという(この那賀国造を初代・建借馬命とする説もあるが、成務天皇の御代(131~190年?)に任命されたとされており、時代が合わない。もっとも、成務天皇自体の実在性が疑われている。)。清和天皇の御代(858~876年)に「藤内」の地に鎮座し、「藤内神社」と称した。天正18年(1590年)、兵火に遭い焼失、翌年、現在地に遷座して「鹿島明神」と改称。明治6年に青木神社と合併して村社に列格、明治10年に「有賀神社」と改称したという。現在の祭神は、武甕槌命と経津主命。
当神社は「牛伏古墳群」(「唐櫃塚古墳」(2019年4月27日記事)参照)の南西500m(直線距離)のところにあり、元は「藤内神社」と称していたというところから、常陸国式内社「藤内神社」に比定する説がある。また、当神社の特殊神事として、毎年11月11日の早朝に御神体の大御鉾が出御し、道中法螺貝を吹き鳴らしながら「大洗磯前神社」(2018年5月19日記事)へ渡御する「磯渡御」(お磯下り)がある。当神社創建以来続いているともいうが、確認できる史料でも天正2年(1547年)というものがあり、相当古くから行われていたことが窺われる(なお、この神事については「大洗磯前神社」のHPにも紹介されている。)。また、当神社と「大洗磯前神社」とは直線距離でも約22kmも離れているところから、両神社の結びつきの深さも感じられる。
ただし、当神社は元々「有賀台字塚原」の地にあり、天正元年(1573年)に「有賀宿字藤内」に遷座して「藤内神社」と称したとする説もある。この説によれば、当然ながら、式内社「藤内神社」とするには無理がある。因みに、上記の社伝にある「兵火に遭い焼失」というのは「塚原城」焼き討ちのとばっちりらしく、「塚原城」というのは当神社の北西側にあったという中世城館とみられる(「余湖くんのホームページ」による。)。とすると、元々、現在地付近に鎮座していて、兵火に遭って移転、暫くして戻って来た、ということも考えられるのではないだろうか。というようなことで、式内社「藤内神社」の論社として有力とまでは言えないと思われる。


水戸観光コンベンション協会のHPから(有賀神社)

「余湖くんのホームページ」から(内原町)


写真1:「有賀神社」一の鳥居


写真2:二の鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内の「改築記念碑」。上記の社伝や「磯渡御」のことが刻されている。なお、当神社は「虫切りの神様」として知られており、子供の夜泣きなどに御利益があるという。
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立野神社(茨城県水戸市)(常陸国式内社・その16の2)

2019-05-11 23:53:29 | 神社
立野神社(たてのじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市谷津町899。茨城県道52号線(石岡城里線)「中原」交差点から県道を北へ、約2.8km。「水戸 西の杜霊園」という看板が出ているところで左折(西へ。看板の矢印方面)して、直ぐ、左側の狭い道路へ入る。駐車場スペースあり。
社伝によれば、大同2年(807年)の創祀。元は、「鹿島社」、「谷津明神」とも呼ばれていたという。「延喜式神名帳」登載の常陸国式内社「立野神社」の論社とされることもあるが、式内社「立野神社」は久慈郡鎮座となっており、当地が久慈郡内だったことはないとされているので、可能性は低いというのが一般的。一方、当神社は「朝房山」の南東約3km(直線距離)にあって、「朝房山」=「常陸国風土記」那賀郡の条にある「晡時臥山」所縁の常陸国式内社「藤内神社」の論社とされることがある。こちらは那賀郡鎮座なので、可能性がないわけではないが、「藤内神社」(前項)又は「有賀神社」(次項予定)の方を支持する論者が圧倒的に多い。
当神社の場合、式内社というよりも、「常陸国風土記」の記事に出てくる「蛇神の子を祀る社」に比定されることがある。解説書などでは「朝房山」山頂の「朝房権現社」(「朝房山」(2019年4月20日記事)参照)のこととしているものも多いが、「常陸国風土記」の記述では、「昇天できなかった蛇神の子は(晡時臥山の)峰に留まった。投げつけた甕は今も片岡の村にある。(蛇神の子の母親の)子孫が今も祭祀を行っている。」という書きぶりになっている。そうすると、祭祀の場所は、晡時臥山上ではなくて「片岡」の村(里)にあったのではないか。「片岡の村」というのがどこであるか不明だが、当神社が大足、牛伏、田島、黒礒、三ノ輪、谷津、三ヶ野という「朝房山」を巡る7ヵ村の鎮守社とされている。また、「朝房山」が神体山であるとすると、山を南麓から仰ぎ見る形が自然なのではないか。また、「谷津」というのは、谷や低湿地をいう言葉で、各地にそういう地名があり、「谷(や、やと)」・「谷地(やち)」・「谷那(やな)」なども同じ意味である。そして、「常陸国風土記」行方郡の条に「夜刀の神(やとのかみ、やつのかみ)」というのが登場し、これは「角のある蛇(神)」である(「夜刀の神」についてはいずれ別項で書きたい。)。谷津=低湿地=蛇が多く棲んでいるところ、という連想が働くので、蛇神と関連がある場所なのではないかとも思われる。
ただし、現在の祭神は、級長津彦命(シナツヒコ)と級長津姫命(シナツヒメ)で、風の神ということになっている。これは、現・奈良県生駒郡三郷町立野南に鎮座する大和国式内社(名神大)「龍田大社」からの勧請だろうということを示している。「龍田大社」の現在の祭神は天御柱命と国御柱命となっているが、社伝や祝詞ではシナツヒコとシナトベ(=シナツヒメ)と同神とされている。古くから「風の神」として信仰を集めた。「龍田山」というと紅葉の名所のイメージが強いが、風が農作物の生育に影響することから、元は農業神であった。ということで、当神社も早くから拓けた土地の守護神として勧請された可能性が高い。


写真1:「立野神社」鳥居


写真2:鳥居横の社号標「村社 立野神社」


写真3:参道


写真4:拝殿


写真5:拝殿・本殿
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藤内神社(茨城県水戸市)(常陸国式内社・その16の1)

2019-05-04 23:12:24 | 神社
藤内神社(ふじうちじんじゃ)。
場所:茨城県水戸市藤井町874。国道123号線「藤井町」交差点から西へ約900m、「延喜式内 藤内神社」という看板がある。ただし、ここは社殿の裏手になる(駐車スペースあり。)。正面入口は、更に進んで突き当りを左折(南へ)、約160m。
社伝によれば、当神社の西、約5kmにある朝望山(朝房山)は経津主命(フツヌシ)の神山であり、養老5年(721年)、その峰に霊光が輝き、当地を照らした。人々は驚き恐れ、社殿を建立したのが創始という。また、一説には、嘉祥年間(848~851年)に、神託により下総一宮「香取神宮」の神を勧請したともいう。境内入口鳥居横の石碑に「仁和元年(885年)官社に列し、」とあるが、出所不明。康平5年(1062年)、源頼家が征奥の途次、当神社に武運長久を祈願し、社前の藤(フジ)の枝を鞭として進軍した、という。このフジの木というものが、今も境内入口近くにあり、この伝承を刻した石碑も建てられている。なお、このとき、義家は10万の兵を率いており、その兵を集めたところを「十万原」と称した。「十万原」は当神社の北、約1.5km(直線距離)のところにあり、今は住宅団地開発されて「藤が原」という地名になっているが、「十万原近隣公園」等に名を残している。大永年間(1521~1528年)に火災で社殿・神宝を焼失、長らく社殿の再建ができなかったが、寛永5年(1628年)に宍戸城主・秋田河内守が社殿造営、元禄年間(1688~1704年)には水戸藩主・徳川光圀の命により社殿改築されたという。近世には「藤内大明神」とも称した。「延喜式神名帳」登載の「藤内神社」に比定される式内社(論社)で、現在の祭神は経津主命。
由緒にもあるように、当神社も「朝房山」(2019年4月19日記事)に所縁がある。「藤内」という名は、一説に「藤林の中にあったから」というのもあるが、「常陸国風土記」の「晡時臥山(くれふしやま)」を「ホジフシ山」と読んで、これが「藤内」に訛ったのではないか、という説もある(ちょっと苦しいような気もするが。)。さて、どうだろうか。


茨城県神社庁のHPから(藤内神社)


写真1:「藤内神社」境内入口。木々に覆われて鳥居がよく見えない。社号標は「延喜式内 藤内神社」。向かって左側には由緒の石碑もある。


写真2:参道の鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿。随分、屋根が大きい感じ。


写真5:「藤内神社のフジ」石碑。境内入口西側の道路を隔てたところにある。


写真6:ケヤキの大木に絡みついているのが「藤内神社のフジ」。木の前に石祠がある。なお、木の後ろには小さな池がある。これが神池だろうか。





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