神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

靜神社(茨城県那珂市静)(常陸国式内社・その2)

2018-02-24 23:08:35 | 神社
靜神社(しずじんじゃ)。
場所:茨城県那珂市静2。国道118号線と茨城県道61号線(日立笠間線)の「静入口」交差点から県道を西へ、約1.7km。駐車場有り。
創建時期は不明であるが、一説に大同元年(806年)創建という。大同元年(あるいは2年)というのは関東~東北地方の古社古寺の創建伝承によくある年号なので、あまり信用できないが、確実なのは、六国史の1つである「日本三代実録」の仁和元年(885年)の条に、神階を従五位上に進められた記事があることである。また、「延喜式神名帳」(延長5年(927年)成立)に登載された「式内社」(名神大)である。なお、「延喜式神名帳」では「靜神社」の鎮座地を「久慈郡」としているが、当神社の現在地を含む久慈川以西も「久慈郡」に属していたのが、羽柴秀吉による所謂「太閤検地」で那珂郡に編入されたことによるとのこと。そして、「常陸国風土記」(養老5年(721年)成立)によれば、久慈郡に「静織の里」があり、ここで初めて「倭文」を織る機が使われたことから、その名が付けられた、という記事がある。「和名類聚抄」(承平年間(931~938年)編纂)にも、久慈郡に「倭文郷」があることが記載されており、現在も使われている「静」という地名は「倭文」(しづおり、しず、しどり)から来ているとするのが有力。「倭文」というのは、楮(コウゾ)、麻、苧(カラムシ)などの繊維を使った織物だそうで、これを織る部民が信仰したのが「倭文神社」で、全国各地にある(有名なのは、伯耆国一宮「倭文神社」(鳥取県湯梨浜町)など)。当神社も、そうした神社の1つと考えられるという。よって、現在の主祭神は、「建葉槌命」(タケハヅチ)、別名「倭文神」。「建葉槌命」は機織りの祖神とされるが、「日本書紀」によれば、葦原中国平定において「経津主神」・「武甕槌命」にも征服できなかった「星の神・香香背男」(カガセオ)を服従させた神として登場している。機織りの神様が何故、星の神を服従させ得たのかは謎だが、「倭文」という織物自体が呪物、つまり呪文を織り込んだ布だったのではないか、という説もあって面白いが、これ以上は深入りできない。
さて、当神社は、「鹿島神宮」・「香取神宮」とともに東国三鎮護神といわれ、常陸国にあっては「鹿島神宮」に次ぐ「常陸国二宮」とされた。このため、中世以降も栄え、当神社を中心として3つの神社が鎮座し、7つの寺院がこれを囲んで、大きな霊地を形成していたという。特に、江戸時代には水戸徳川家の祈願所とされ、維持管理は藩費によってなされた。寛文7年(1667年)に第2代徳川光圀が社殿を修造した際、本殿脇の大きな桧の根元から「靜神宮印」と刻された古銅印が見つかったという。これは奈良時代頃のものとされ、現在は国指定重要文化財となっている。因みに、上記の通り、現在の主祭神は「建葉槌命」なのだが、近世までは「手力雄命」(タヂカラヲ)が主祭神であったらしい。「手力雄命」といえば、「天照大神」が天岩屋戸の中にお隠れになったとき、天岩屋戸を開けた神として知られるが、何故当神社の主祭神とされたかは不明。遡ると、文献上は、光圀による延宝2年(1674年)銘の「靜神社祝文」に「手力雄命」を当神社の(主)祭神としてしているのが最も古いらしい。「新編常陸国誌」(江戸時代後期)には、大同年間に「手力雄命」を小勝村(現・茨城県城里町(旧・七会村)小勝)から当地に移した、という記事があるらしいが、いずれも根拠はよくわからない。現在、「手力雄命」は相殿に配祀されている。なお、光圀が造営した社殿は天保12年(1841年)の火災で焼失しまったが、現在の社殿は第9代徳川斉昭が再建したものであるとのこと。


静神社のHP


写真1:「靜神社」一の鳥居と社号標「常陸二ノ宮 静神社」


写真2:二の鳥居


写真3:石段の途中から下を見る(南東方向)。神社の前に「静溜池」という大きな池がある。実は、10年以上前に一度参拝したことがある。その時には参道両脇に杉の大木が何本も立っていて暗く、怖いくらいだったが、随分明るくなっていた。


写真4:唐門


写真5:唐門前に「織姫」の銅像がある。


写真6:「織姫」像の向かって左のほうに、「常陸風土記」石碑が建てられている。


写真7:「千度杉」。元は拝殿前の向かって左手にあり、この杉の周りを千回廻ると願い事が叶うといわれていた。天保12年の火災で枯れてしまったのを移設したものという。


写真8:社殿(拝殿)


写真9:社殿(本殿)


写真10:境内末社「手接足尾神社」。本殿裏手から山道を少し歩く。手足の健康を守護する神様で、履物や松葉杖などが供えられている。この神社を目当てに参拝する人も多いらしい。
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府中愛宕山古墳

2018-02-17 23:57:15 | 古墳
府中愛宕山古墳(ふちゅうあたごやまこふん)。舟塚山古墳群6号墳。
場所:茨城県石岡市北根本693ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南下、約2.3km。県道沿いに「見学者用駐車場」がある。そこから、直ぐ手前(北西)のところに「史跡 舟塚山古墳」の石碑があり、その向かい側の道路に入り(北東へ)、約70m。なお、JR常磐線「高浜」から徒歩約11分(約900m)。
「府中愛宕山古墳」は、「舟塚山古墳」(前項)の北西、約300mに位置する前方後円墳で、舟塚山古墳群41基(うち19基は隠滅)の中で2番目の規模。墳丘長96.6m、後円部径約57m、前方部約57m、後円部高8.5mの大きさで、周濠が認められ、その幅は後円部側で約16m、前方部側で約24mとされる。近くまで民家が迫り、昭和45年には削平して全て宅地化される計画もあったが、石岡市によって買収・保存されることになり、昭和46年に茨城県指定史跡に指定された。明治30年に東京大学の坪井正五郎博士が発掘調査を行い、無文素焼の壷7個を発見したが、内部構造については確認されていない。昭和54年の周溝確認発掘調査により古墳の規模が明らかになったほか、円筒埴輪や象形埴輪片が出土した。また、墳形は「誉田御廟山古墳(応神天皇陵)」(大阪府羽曳野市)に類似している、とのこと。築造年代は、「舟塚山古墳」よりも古いとされた時期もあったが、現在では、「舟塚山古墳」に続く6世紀初め頃と推定されている。被葬者は不明であるが、「舟塚山古墳」の被葬者に次ぐ地位にあった有力者とみられている。なお、霞ヶ浦に注ぐ恋瀬川河口に近い位置にあり、前方後円墳の形を船になぞらえて、「府中愛宕山古墳」を霞ヶ浦に乗り出す「出船」、「舟塚山古墳」を「入船」と称する、という。


石岡市のHPから(府中愛宕山古墳)


写真1:「府中愛宕山古墳」。県道から狭い道に入るとすぐに、後円部の横に着く。墳丘は南向き。


写真2:上り口のところに説明板が立てられている。


写真3:後円部。北側から見る。


写真4:南側の括れ部分には民家が迫っている。


写真5:後円部から前方部を見る。かなり削られているようだ。


写真6:前方部から後円部を見る。
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舟塚山古墳

2018-02-10 23:27:17 | 古墳
舟塚山古墳(ふなつかやまこふん)。舟塚山古墳群16号墳。
場所:茨城県石岡市北根本597番地ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南下、約2.3km。県道沿いに「見学者用駐車場」がある。そこから、直ぐ手前(北西)のところに「史跡 舟塚山古墳」の石碑があり、そこから南西へ、約300m。なお、JR「高浜」駅からは徒歩約11分(約900m)。
「舟塚山古墳」は、恋瀬川が霞ヶ浦に注ぐ河口近くの台地上に築かれた前方後円墳で、墳丘長は約186m。これは、茨城県内で最大、関東地方でも「太田天神山古墳」(群馬県太田市、約210m)に次ぐ第2位の規模になる。墳丘は3段築造、前方部幅約100m、後円部径約90m、後円部高約11mで、盾形の周濠も巡らされていたとされ、これを含めた全長は約260mという大きな古墳である。後円部径に比べて前方部が長く、日本一の大きさで有名な「大仙陵古墳(仁徳天皇陵)」(大阪府堺市)に似た形であるという。墳丘の発掘調査は行われていないが、昭和47年の周濠確認発掘調査時に円筒埴輪が出土しているほか、付近の陪塚とみられる円墳からは木棺、短甲、直刀、楯などの副葬品が発見されており、築造時期は5世紀後半頃と推定されている。被葬者は明らかでないが、よほどの大豪族の首長であり、伝承では茨城国造の筑紫刀禰(天津彦根命の孫で、応神朝に茨城国造に任命されたとされる。)であるという。大正10年、国指定史跡に指定された。


石岡市のHPから(舟塚山古墳)


写真1:県道沿いに立つ「史蹟 舟塚山古墳」の石碑。古墳へは、この道を入る。


写真2:石碑のところから進むと、「舟塚山古墳」がこんな感じに見えてくる。墳丘は西向き。


写真3:後円部西側に「鹿島神社」があり、その部分が少し削られている。


写真4:「鹿島神社」鳥居


写真5:「鹿島神社」社殿


写真6:古墳上に上ると、北西方向に「筑波山」がきれいに見える。


写真7:後円部から前方部を見る。前方部南端が墓地になっている。


写真8:前方部から後円部を見る。なんだかゴルフ・コースみたい。


写真9:同上


写真10:古墳北側からみる。かつて墳丘全体が松林となっていたが、マツクイムシの被害で松の木がなくなったとのこと。
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茨城廃寺跡

2018-02-03 23:17:31 | 史跡・文化財
茨城廃寺跡(ばらきはいじあと)。
場所:茨城県石岡市貝地2-5071ほか。国道6号線と茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)の「貝地」交差点から、県道を南東へ約650m、「コインランドリー」の向かい側に「親鸞聖人御旧跡」という石碑がある脇の道に入り(西へ)、突き当りを右折(北へ)、次の角を左折(西へ)、突き当りを右折(北へ)、約30mで説明板のある場所。駐車場なし。道路が狭く、入り組んでいるのでわかりにくい。
平安時代中期の承平年間(931~938年)に編纂された「和名類聚抄」によれば、常陸国の国府は「茨城郡に在り」と記載されている。古代の「茨城郡」は近世のそれよりも南に広がり、現在の茨城県の中央部にあって、現・石岡市が中心部であった。そして、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)は現・石岡市総社1丁目で発見されており、「茨城郡家(郡衙)」も国府の近くにあったとみられている。「常陸国風土記」の記述によれば、「茨城郡家」は、信筑川(しづくがわ、現・恋瀬川)が南西に流れ、東の高浜の海(現・霞ケ浦の恋瀬川河口付近)に注いでいる。東に10里(5~6km)の距離に、田余(たまり、現・小美玉市玉里)の里がある、という場所にあると読み取れる。そこで、「茨城郡家」は、現・石岡市田島~茨城付近と推定されているが、詳細な位置は未だ確定されていない。
さて、その「茨城郡家」の有力候補地として「外城遺跡」(石岡市貝地字外城)があるが、同じ台地の南辺にほぼ隣接して「茨城廃寺跡」という遺跡がある。古瓦の散布がみられることや礎石らしいものが多く存在したことなどから、古くから廃寺跡とみられていたが、昭和54年からの数次にわたる発掘調査によって伽藍配置が明らかになった。寺域は1町半(約160m)四方と推定され、その中に塔と金堂が東西に並び、北に講堂が位置する「法隆寺式」の伽藍配置で、「国分寺」に先行して7世紀後半頃に建立された初期寺院の遺構であるとされた。そして、出土物として瓦、仏像線刻瓦、硯、土師器、須恵器、貨幣(和同開珎)等が見つかっているが、特に重要なのは、「茨木寺」や「茨寺」と墨書された土器が発見されたことで、この寺院が郡名を冠していたことが明らかとなり、「茨城郡家」の付属寺院であることが確実になったとされる。もっとも、その墨書土器は9世紀頃のものと推定されており、創建当初から「茨木寺」という名であったかは不明であり、あるいは単に通称・俗称であった可能性もある。とはいえ、国司は中央政権からの派遣であるが、郡司はその地方の有力者が任命されることから、郡家付属寺院=郡司の氏寺であることから、郡名を冠した寺院を経営・維持することで、その郡司一族の権威を示す狙いもあったのだろうといわれている。


石岡市のHPから(茨城廃寺跡)


写真1:「茨城廃寺跡」説明板。なお、平成24年、石岡市有形文化財(史跡)に指定。


写真2:同上、境内跡と思われるが、現在は宅地・農地となっていて、「廃寺跡」を思わせるものはない。


写真3:「茨城廃寺礎石」説明板。「茨城廃寺跡」の説明板の南、約130m(直線距離)。「小目代公民館」(石岡市貝地2-17-8)の西側。


写真4:同上の後ろにある「礎石」。もちろん、元からここにあったものではない。なお、同様のものが「清凉寺」(石岡市国府6-2)境内などにもある。


写真5:「「茨城」の地名発祥の地」説明板。県道沿いにある「スーパーやまうち石岡店」の道路向かい。「常陸国風土記」の「茨城郡」の条で、黒坂命が茨で城(柵)を造って土蜘蛛を退治したという記述を引用している。


写真6:「きんちゃく石」。「萬福寺」(石岡市茨城1-21)の南西の畑の中。「茨城廃寺」の塔の露盤であるといわれているもの(1辺1.1mの御影石で、中央に丸い穴が開いている。)。因みに、「きんちゃく石」という名の由来は次の通り。昔、「龍神山」(現・石岡市村上)に茨城童子という大男が棲んでいて、時おり村里に下りてきて村人を捕まえて食べていた。茨城童子は、捕まえた村人を入れる大きな巾着袋を腰に下げており、その口を大きな石の根締めで括っていた。ある時、西の方の国から茨城童子を征伐に来るという噂が伝わり、それを聞いた茨城童子は恐れてどこかへ逃げ去った。その時、邪魔になった巾着袋を放り投げたが、その弾みで根締めの大石は「萬福寺」の辺りまで飛んできて畑にめり込んだ、という。
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