神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

茂侶神社(千葉県船橋市)

2012-11-24 23:35:59 | 神社
茂侶神社(もろじんじゃ)。
場所:千葉県船橋市東船橋7-20-1。JR総武本線「東船橋」駅の南、約800m。県立船橋高校と宮本中学校の間の道を南に進み、突き当りを右折(西へ)、直ぐ(そこから細長い参道が北に向っている。)。駐車場なし。周囲は住宅地化しているうえ、かなりの高低差があり、狭い曲がりくねった道ばかりなので、自動車では行かないほうがよい。
当神社の創建も不詳であるが、式内社「茂侶神社」の論社の1つ。当神社の北西、約700mのところにある式内社「意冨比神社」(船橋大神宮)の摂社で、江戸時代には「茂侶浅間神社」と称していたという。祭神は、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)。
式内社「茂侶神社」とするが、その根拠が乏しい。当地は元々「砂山」と呼ばれたところで、地元では当神社を「砂山浅間(神社)」とも呼んでいるらしい。当地は、かつては強い風が吹き付けて砂が積もり、高台になった場所で、古代には人が住んだり、式内社のような古社を建てたりというような場所ではなかったともいわれている。現在も船橋市の高台からは富士山が見えるが、当神社も景色が良いところとして有名で、おそらく富士山も良く見えたのだろう。あるいは、コノハナサクヤヒメを祀るのも、そのためかもしれない。こうしたことから、当神社が式内社「茂侶神社」の論社ということについては、かなり旗色が悪いようである。式内社「意冨比神社」(船橋大神宮)の神官が「箔を付ける」ために言い出したことではないか、とも言われているらしい。
さて、当神社の近くに「天の真名井」という井戸(跡)がある(写真4)。この井戸は、「砂山」と言われた如く、水事情が悪い当地にあって、弘法大師(空海)が錫杖で掘ったところ、湧水が出たという伝説がある。隣接して宮本中学校のグラウンドが造られてから水が出なくなったとされるが、現在も大師堂が建てられ、大師の徳を偲んでいるという(写真5)。


玄松子さんのHPから(茂侶神社(船橋市))


写真1:「茂侶神社」正面参道。社号標は「延喜式内 茂侶神社」


写真2:正面鳥居と社殿(南西向き)


写真3:裏参道(北西側)。古い社号標には「式内本宮茂侶神社 仙元宮」とある。「仙元(せんげん)」というのは、浅間大神についての神仏混淆的な(多くは仏教側からの)言い方と思われる。


写真4:「天の真名井」(跡)。裏参道から宮本中学校のグラウンド沿いに北西に少し進んだところにある。


写真5:「真名井大師堂」

 
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茂侶神社(千葉県松戸市)

2012-11-17 23:28:27 | 神社
茂侶神社(もろじんじゃ)。
場所:千葉県松戸市小金原5-28。松戸北郵便局前(西側)の道路から2本西に入る。駐車場なし。
当神社の創建も不詳であるが、式内社「茂侶神社」の論社の1つで、祭神は大物主命。現在の千葉県北西部の台地に、江戸時代には幕府の広大な軍馬の放牧場(小金牧)があり、その中心が松戸市小金原だった。その小金牧に隣接して水戸徳川家の鷹場が設けられ(現在の小金原2~3丁目、通称「西新田」付近に水戸藩の御鷹場役所があったという。)、寛永19年(1642年)にはテレビドラマ「水戸黄門」で有名な徳川光圀が当地で鷹狩りをしたとの記録もある。この縁で、光圀から、当神社が式内社「茂侶神社」であることを認められたという。光圀は「大日本史」の編纂を始めたことでも知られるが、その編纂姿勢は、出典を明らかにするなど実証的なものだった。したがって、当神社を式内社「茂侶神社」であるとするについて、何らかの根拠があったとも思われるのだが、残念ながら何も伝えられていないようである。これが光圀でなかったら、単に、自領内に由緒ある式内社があることを自慢したかっただけなのだろうと思ってしまうところだが・・・。
さて、当神社は、式内社「茂侶神社」の論社としては論拠が少なく、旗色が悪い。もともと現・江戸川の下流域は古墳などが少ない地域で、千葉県流山市・市川市に、ある程度の規模の前方後円墳がみられる程度である。祭神の大物主命は大国主神・大己貴命と同神であるとされ、国土開発の神であるから、広大な北総台地開発の守護神として勧請したとも考えられるが、江戸時代に牧が置かれたように、必ずしも開発が進んだ地域ではなかったと思われる。一説によれば、当神社は、「茂侶神社」と称する以前は「香取明神」と呼ばれていたという。


玄松子さんのHPから(茂侶神社(松戸市))


写真1:「茂侶神社」一の鳥居。傍らの石碑に、当神社が黄門義公(徳川光圀)に式内社「茂侶神社」と認められ、水戸家から祭典料を供せられたことなどが記されている。


写真2:二の鳥居


写真3:本殿
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万葉遺跡葛飾早稲発祥地碑

2012-11-10 23:02:10 | 史跡・文化財
万葉遺跡葛飾早稲発祥地碑(まんよういせきかつしかわせはっしょうちひ)。
場所:埼玉県三郷市早稲田8-17-8。JR武蔵野線「三郷」駅の北、約1.5km。県道21号線(三郷松伏線)「丹後神社」交差点の北の角。駐車場なし。
「万葉遺跡葛飾早稲発祥地碑」は、埼玉県三郷市に「早稲田」(旧・早稲田村)という地名があることから、万葉歌にも詠われた「葛飾早稲」(米)の発祥地であるとしてその中心地にある「稲荷神社」(通称:丹後神社)前に石碑を立てたもの。ただし、地名のほかには「発祥地」であるという根拠はなく、「早稲田村」という村名も明治22年に14ヵ村が合併したときに付けた名のようである。昭和36年、埼玉県指定旧跡。

中根八幡前遺跡(なかねはちまんまえいせき)。
場所:千葉県野田市中根140-53。住宅地の中にあり、目印がなくて説明がむつかしいが、「櫻木神社」という大きな神社の東、約250m。駐車場なし。 
「中根八幡前遺跡」は古墳時代初頭(4世紀頃)の遺跡で、昭和26年に1棟の住居跡が発見された。住居跡は5m×3.85mの長方形の竪穴住居で、現在は史跡公園して整備されている。昭和44年、野田市指定史跡。この公園内に、万葉歌碑が設置されている。

「葛飾(かつしか、かとしか)」という地名は古代からあり、奈良・正倉院文書には「葛餝郡」と記されている。古代には、下総国と武蔵国の境界は「住田河」(隅田川)であり、現在の千葉県・東京都・埼玉県・茨城県に跨る広大な地区であった。明治の中頃には、千葉県に東葛飾郡、東京府に南葛飾郡、埼玉県に北葛飾郡・中葛飾郡、茨城県に西葛飾郡があった。「葛飾」の地名の由来には諸説あり、葛(クズ)が繁った土地、あるいは古語で砂州や低湿地を示す言葉だったという説などがあるが、葛も荒地に生える植物なので、いずれにせよ元々はあまり人が住まないような土地だったのではないだろうか。
それが、古代には東京湾に河口があった古利根川等によって運ばれた肥沃な土と豊かな水のあるところで、稲作には好適な場所でもあったのだろう。しかし、低湿地は洪水の被害を受けやすかったことから、台風シーズンの来る前に収穫する早稲米が育てられることになった。これが「葛飾早稲」で、万葉歌に詠われるほど有名であったというわけである。
さて、その万葉歌は「鳰鳥(にほどり)の 葛飾早稲を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも」で、「葛飾早稲の初穂を神様にお供えする夜には身を慎まなければならないのだけれども、あの愛しい人が来たら外に立たせたままにすることなどできるでしょうか。とてもできません。」という意味だそうである。「鳰鳥」というのはカイツブリという水鳥の古語で、ここでは「葛飾」にかかる枕詞。この歌により、葛飾が水の豊かな場所であったこと、(万葉集の成立時期とされる)8世紀には既に「葛飾早稲」が広く知られていたこと、「葛飾早稲」が神聖なものとして認識されていたことなどがわかる。
こうして、郷土の歴史を讃えるべく、上記2ヵ所のほか、千葉県流山市の式内社「茂侶神社」(2012年10月27日記事)や「諏訪神社」の境内に万葉歌碑が建てられることになったようである。上記のように、ピンポイントで現・三郷市が「葛飾早稲」発祥の地というには根拠がないが、古利根川の流域で広く「葛飾早稲」が栽培されたのだろうと思われる。なお、歌碑ではないが、千葉県野田市には「におどり公園」という「葛飾早稲」に因んだ小さな公園がある。


写真1:「丹後(稲荷)神社」。正式名称は単に「稲荷神社」で、社号標は「村社稲荷神社」となっている。祭神は宇迦御魂之命。


写真2:境内入口の左手に「万葉遺跡葛飾早稲発祥地」と刻された石碑が立てられている。


写真3:同上、裏側に万葉歌。


写真4:「中根八幡前遺跡」。小さな公園のようになっている。


写真5:同上。案内板以外には遺跡らしいものはない。


写真6:遺跡公園内にある万葉歌の石碑。
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鰭ヶ崎三本松古墳

2012-11-03 23:35:00 | 古墳
鰭ヶ崎三本松古墳(ひれがさきさんぼんまつこふん)。
場所:千葉県流山市鰭ヶ崎1265。流鉄流山線「鰭ヶ崎」駅の北、約270m。駐車場なし。
「鰭ヶ崎三本松古墳」は、江戸川左岸流域では珍しい前方後円墳で、流山市内で最大の古墳。その大きさは、全長約25m、後円部の径約17m、前方部の幅約8mとされている。詳しい発掘調査は行われていないが、円筒埴輪等が出土しており、築造時期は6世紀後半とされる。式内社「茂侶神社」の真南、約3kmの位置にあり、何らかの関係があるかもしれない。
現地に行ってみると、古墳は台地上にあるが、周囲はぎりぎりまで土採りで削られ、特に前方部はかなり小さくなっているようである。特筆すべきは、後円部の上にある「下総國鰭崎邨古冢碑(しもふさのくに ひれがさきむら こちょうひ)」で、文政11年(1828年)に鰭ヶ崎村の名主・渡辺睦(庄左衛門)が建てた石碑である。これは、「天明の大飢饉」(1782~1788年)のとき、村人が古墳を盗掘して埋葬物を金にかえようとしたのを、渡辺睦の祖父と父が諌め、私財を提供して古墳を守ったということを記念したもの。江戸時代中期にもこうした人々が居たわけであるが、現在では、周囲の宅地化などで保存が難しくなっているようだ。
因みに、流鉄の線路を挟んだ南西側の高台に「守龍山 東福寺」がある。この寺院は、現在では新義真言宗に属し、本尊は薬師如来。弘仁5年(814年)、弘法大師が当地を訪れた際、この高台の下まで海が迫っていた。そのとき、海から龍が現れて竜宮の霊仏を捧げ、当地に寺を開創することを勧めたという。これが、「東福寺」の創建伝承であるが、この海龍が背鰭の一部を残して消えたことから、当地を「鰭ヶ崎」というようになったという。
なお、流山市内では、東深井地区にかつては約40基の古墳があったという「東深井古墳群」がある。「鰭ヶ崎三本松古墳」からは、北に約8km離れている。前方後円墳は1基(9号墳)だけで、全長約21mとされるが、高さはあまりなく、形もよくわからなくなっている。ただし、この古墳群からは人型のほか、馬、鶏、魚などを象った埴輪が出土している。


流山市のHPから(流山の歴史を学ぼう!)

流山市のHPから(鰭ヶ崎三本松古墳の碑)

「ちばの観光 まるごと紹介」のHPから(東深井古墳群)


写真1:「鰭ヶ崎三本松古墳」。案内板のところから先が後円部になるようだ。


写真2:後円部の「三本松稲荷神社」祠と「下総國鰭崎邨古冢碑」。


写真3:南西側から。台地上のフェンスのところがアプローチの通路で、前方部に当たるようだ。


写真4:南側から。


写真5:「守龍山 東福寺」入口。正面の急な石段を上っていく(場所:流山市鰭ヶ崎1303。「鰭ヶ崎」駅の西側すぐ。駐車場有り)。


写真6:同上、本堂。


写真7:東深井古墳群(場所:流山市東深井991地先。東深井地区公園内にあり、北部図書館の裏手(北側)にある。駐車場有り)。
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