神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鏑木古墳群

2012-05-26 23:57:04 | 古墳
鏑木古墳群(かぶらきこふんぐん)。

御前鬼塚古墳(ごぜんきづかこふん)。千葉県指定史跡(昭和50年指定)。
場所:千葉県旭市鏑木3368。県道74号線(多古笹本線)から「長熊運動公園」の入口横(西側)を北へ進み、最初の分岐を右(東北)へ進む。県道から約700m。駐車場なし。
式内社「老尾神社」の北東約8kmのところに、下総国で2番目に大きいとされる「御前鬼塚古墳」がある。この古墳は、墳丘全長約105m、後円部径約40m、前方部幅約35mの前方後円墳で、発掘調査が行われていないため詳細不明だが、埴輪等が見つかっていないことから、古墳時代末期(6世紀末頃?)のものとみられている。現地に行ってみると、写真1のとおり雑木に覆われており、全体像が全く掴めない。説明板がなければ、単なる雑木林の小山にしか見えないだろう。

鏑木大神古墳(かぶらきおおかみこふん)。
場所:千葉県旭市鏑木2965-1(「鏑木大神(社)」の住所)。県道74号線(多古笹本線)から古城小学校の西側の道路を北へ進み、右へカーヴするところで左側に弘法大師像?が立っている(県道から約500m)辺りの狭い道路に入り、約200m。駐車場なし。
「御前鬼塚古墳」の西、約800mのところに、もっと分かり易い古墳が幾つかある。「鏑木大神」という神社への道路沿いに「泥内古墳」(円墳、径約10m:写真2)、「法王塚古墳」(前方後円墳、墳長約25m、後円部径約15m、前方部幅約9m:写真3)があり、同神社の境内に「鏑木大神古墳」(写真5、6)がある。この古墳は、墳長約38m、後円部径約18m、前方部幅約17mという前方後円墳。神社境内のため手入れもされているようで、きれいな瓢箪形をしていることがわかる。発掘調査等により、周囲に二重の周溝があり、埴輪の破片等が出土したという。このため、「御前鬼塚古墳」より少し早い時期の古墳であるとされる。

鏑木古墳群は、上記のほかにも10数基が確認されており、位置的には「椿海」を見下ろす台地上にあって、九十九里から香取方面に向う交通の要衝であったとみられている(現在も、近くを県道56号線(佐原椿海線)が通っている。)。このようなことから、下海上国造一族の墳墓だろうと考えられている。
因みに、JR総武本線「干潟」駅の南、約2kmにある「八日市場平木遺跡」(現・八日市場特別支援学校付近)からは、古墳時代から平安時代までの集落跡が発見され、特に平安時代の掘立柱建物跡や「郡厨」と記された墨書土器が出土した。この付近に匝瑳郡の郡家があったのではないかと推定されているようである。


「九十九里海岸13市町村 観光情報」のHPから(御前鬼塚古墳)

「古墳探訪」さんのHPから(鏑木古墳群)


写真1:「御前鬼塚古墳」。説明板のある南側から見たものだが、どうなっているのか、よくわからない。北西側からみると、多少は墳丘のように見えるかも。


写真2:「泥内古墳」


写真3:「法王塚古墳」。小型なので、分かり易い・・・とはいっても、笹竹に覆われて形がはっきりしない。


写真4:「鏑木大神(かぶらきだいじん)」。「鏑木神社」ではなく、「鏑木大神」という社号で登録されている。祭神は豊受姫命で、明治維新前までは「稲荷大明神」と呼ばれていたらしい(現在も、通称は「稲荷様」)。創建時期は不明だが、康正元年(1455年)に千葉介が社祠を修営したという記録があるという。境内入口に、2本の大きな樹(ここではイチョウ)が門のように植えられているのは、古社によくある形。


写真5:「鏑木大神古墳」。社殿の向って左にあり、くびれ部分に小屋が建っている。


写真6:同上。境内の外、西側から見たもの。形がよくわかる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿田神社

2012-05-19 23:00:18 | 神社
猿田神社(さるだじんじゃ)。
場所:千葉県銚子市猿田町1677。JR総武本線「猿田」駅の西、約300m。駐車場有り。
社伝等によれば、垂仁天皇25年(前4年)に霊光神託があって創始、大同2年(807年)に社殿が造営されたという。猿田彦大神を主祭神とするが、元々道案内の神であり、中世には庚申信仰とも結びつき、厄除け・開運の御利益ありとして、源頼朝、関東管領足利氏、千葉氏、徳川氏など関東の武家の信仰を集めたという。
さて、江戸時代までは、香取・海上・匝瑳の3郡の境界付近に「椿海(つばきのうみ)」という巨大な湖があった。伝えられるところでは、東西3里南北1里半(約51平方km)の広さであったという。元々は内海であったのが、犬吠崎方面から延びてきた砂州で出口が塞がれてできたものとされている。しかし、この「椿海」の形成には、つぎのような伝説(昔話)がある。
昔々、香取・海上・匝瑳郡の境界に樹齢80万80年という巨大な椿の大木があった。元々は猿田彦命が国分けの際に、境界の目印に植えたものだったが、ぐんぐんと枝を延ばし、繁った葉は3郡の空を覆い、紅い花が咲くと、空が燃えるように真っ赤になった。ところが、いつしか、この椿の巨樹に悪い鬼が棲むようになった。そこで、猿田彦命は、「香取神宮」の経津主命と力を合わせて鬼退治に乗り出した。鬼も巨樹を揺らして抵抗したが、2神には勝てず、東の海に逃げ出した。このとき、椿の巨樹は根ごと倒れ、根元に大きな穴が開いた。この穴に水が溜まったのが「椿海」である。また、倒れた梢側を上総国、根元側を下総国と呼ぶようになったという。
式内社「老尾神社」は、かつての「椿海」を見下ろす高台にある。「椿海」の鬼退治伝説は、経津主命を奉じる一族が、反抗する勢力を鎮圧していったことを示し、その守護神として「老尾神社」や当神社を祀ったとも考えられるのではなかろうか。
なお、江戸時代初期、「椿海」は干拓され、「干潟八万石」と呼ばれる米どころとなった。現在でも、現・匝瑳市に椿という地名があり、椿海小学校という名も残っている(ただし、「椿海(ちんかい)」というのは、旧・椿村と旧・春海村の合併地名である。)ほか、現・旭市にはJR総武本線「干潟」駅(旧・干潟町に由来。)がある。


「神社探訪」さんのHPから(猿田神社)

匝瑳市のHPから(椿海)


写真1:「猿田神社」参道入口の大きな石の鳥居


写真2:二の鳥居。社殿はこの石段の上だが・・・


写真3:石段の下をJR総武本線が通っている。


写真4:社殿


写真5:社殿の裏手にある「猿田彦大神御降臨之地」。一段高くなったところに玉垣を巡らし、中に土盛りをして、その前に石祠が置かれている。また、その傍らに石碑が建てられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老尾神社(下総国式内社・その4)

2012-05-12 23:24:13 | 神社
老尾神社(おいおじんじゃ)。
場所:千葉県匝瑳市生尾75。匝瑳高校入口の向かい側(東)の狭い道路を入ると、すぐ。駐車場なし。
創建時期は不明。社伝によれば、当神社の祭神である阿佐比古命は経津主神の子であり、経津主神・建御雷神とともに葦原中国を平定するため天下り、後に当地に止まって守護神となったという。「続日本後紀」の承和2年(835年)条に、下総国の人で、陸奥鎮守将軍である物部匝瑳連猪熊に対して、連(むらじ)という姓(かばね)から、より上位の宿彌(すくね)という姓を与えたという記事がある。続けて、昔、物部小事大連が朝命を受けて東国を征伐し、その勲功により、下総国に創設された匝瑳郡を与えられたのだが、この物部小事が物部猪熊の先祖である、と記述されている。また、「先代旧事本紀」によれば、物部小事は宇摩志麻治命(ウマシマジ)の12世の孫となっている。社伝では、この物部小事が阿佐比古命(朝彦命、別名・天苗加命(アマノナエマス))であるということになっている。下総国一宮「香取神宮」は経津主神を祀っているので、同族で下総国東部を広く支配していたことが窺われる。
神社名の「老尾」は、鎮座地の「生尾」と同じ読みの「おいお」で、地名を採ったものと思われている。表記が異なっているのは、「老」という字を忌んで、後に変えたのだろうという。現在の「匝瑳(そうさ)」というのは難読漢字だが、上記にあるように古代からの地名を伝えている。因みに、平安中期に編纂された「和名類聚抄」には、「匝瑳」は「狭布佐(さふさ)」と表記されている。「狭」は美しい、「布佐」は麻を指し(下総国の「総(ふさ)」も同じ。)、美しい麻が生産される地という意味だったらしい。当神社は匝瑳郡の総社・68ヵ村の鎮守として、古来「匝瑳大明神」と呼ばれていたという。


玄松子さんのHPから(老尾神社)


写真1:「老尾神社」入口。社号標には「延喜式内 老尾神社」とあるが、「延喜式内」という文字は随分小さい。


写真2:正面鳥居


写真3:社殿


写真4:社殿背後の大杉。目通り6.8m、樹高約30m。匝瑳市指定天然記念物で、樹齢推定約800年。


写真5:梵字が彫られた石の板碑。匝瑳市指定有形文化財。境内から少し離れた北側にある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千葉神社

2012-05-05 23:48:55 | 神社
千葉神社(ちばじんじゃ)。
場所:千葉市中央区院内1-16-1。JR「千葉」駅の東、約900m。国道126号線「千葉神社前」交差点の南西角。駐車場なし(近隣の有料駐車場利用)。
社伝によれば、千葉氏の祖である平良文は北辰妙見尊星王(妙見菩薩)を深く信仰し、一族の守護神としてきた。千葉氏3代平忠常(975?~1031年)により現在地に祀られ、その次男・覚算大僧正によって伽藍が整備された後、一条天皇の眼病平癒の勅願所とされたことから長保2年(1000年)に「北斗山 金剛授寺」の寺名を賜ったという。即ち、元々は寺院だったわけだが、いわゆる神仏混淆であり、それどころか、妙見信仰には道教、陰陽道などの影響も強い。妙見菩薩は、古代中国で天帝とみなされた北極星(及び北斗七星)を神格化したもので、星占いに象徴されるように、人の運命を司る神として信仰された。
当神社は、千葉氏一族のほか、千葉氏の支援を受けた源頼朝、安房国生まれの日蓮上人、関東に入部した徳川家康などから篤い信仰を受けた。特に、家康からは永代二百石を寄進され、 十万石の大名と同等の格式を賜ったという。江戸時代には、「北斗山 金剛授寺 尊光院」(家康の命により「妙見寺」とも称されていた。)という真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離令によって祭神を天之御中主大神として「千葉神社」に改めた。現在も「妙見本宮 千葉神社」と称し、八方除の神様として信仰され、参拝客が絶えない。


千葉神社のHP


写真1:「千葉神社」東側の鳥居


写真2:正面の楼門型の分霊社「尊星殿」


写真3:社殿


写真4:境内の「亀岩」


写真5:千葉常胤の像。源頼朝を案内して、当神社(当時は寺だったが)を参拝させたという。当神社前にある公園の西端に「出世弁天」祠があるが、その横の方にある。何でこんなところに・・・。





コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする