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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

戒珠山 密厳寺 華蔵院

2025-06-11 23:32:31 | 寺院

戒珠山 密厳寺 華蔵院 (かいじゅさん みつごんじ けぞういん)。
場所:茨城県ひたちなか市栄町1-1-33。茨城県道108号線(那珂湊大洗線)「湊本町」交差点から南西~西へ約850m(境内入口)。その約200m手前(東)に駐車場有り。
創立年代は、一説によれば応保3年(1163年)、寺伝では応永年間(1394~1428年)、宥尊上人の開基とされる。常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏と各時代の領主の庇護を受け、室町時代の文明年間(1469~1487年)には末寺・門徒寺院が合わせて40ヵ寺が創建された。江戸時代には徳川幕府より朱印地15石を受け、5千坪の境内に七堂伽藍・四塔堂・六供院があったが、元治元年(1864年)、「天狗党の乱」(「元治甲子の乱」)の兵火により、寺宝とともに全て焼失した(天狗党は、水戸城の近郊にあって、裕福な港町であった那珂湊に布陣した。幕府軍と大激戦となり、民家や社寺の大半が大きな被害を受けたという。)。明治14年、現在の堂宇が再建された。現在は真言宗智山派に属し、本尊は大日如来。
なお、当寺院は「華蔵院の猫」という民話でも有名。それは、こんな話である。昔、湊村の行商人が夜、原っぱに通りかかると、猫たちが踊っていた。猫たちが口々に「華蔵院が来ないと、拍子が揃わないな。」と言っているところへ、袈裟をつけた古猫が現れ、「院主が外出して袈裟がなく、遅くなってしまった。」と言って踊りに加わった。その後、行商人が「華蔵院」を訪れ、この話をしたので、住職が袈裟を調べてみると、その裏に猫の毛がたくさんついていた。その日以来、猫は「華蔵院」から姿を消した、という。
蛇足:猫が集まって踊っていたとか、宴会をしていたとかいう民話は全国各地にあるようだが、「華蔵院」の猫、と特定されているのは珍しいと思われる。民話(昔話)なので、色々なヴァリエーションがあるが、例えば、「原っぱ」は下総国小金原(現・千葉県松戸市小金原。直線距離で約80km離れている。)だとするものや、袈裟が湿っていたので猫の仕業とわかったとするもの、住職は笑って許したが、最後には住職の妻を噛み殺して逃げたとするものなどがあり、猫のいたずらのような話から化け猫騒動のような話まである。猫は、江戸時代中期頃までは高価な愛玩動物で、相当裕福でないと飼えなかったらしい。つまり、「華蔵院」には、それだけの財力があったということかもしれない(なお、寺院で猫を飼うのは、経典や供物を齧る鼠の駆除のためもある。)。また、全国に類話があるのは、歌舞伎や読本などの影響があって広まったようで、「原っぱ」といえば(具体的な距離を考慮せず)すぐに「小金原」(現・千葉県北西部に「小金牧」という有名な軍馬の放牧場があった。)を連想したのだろうと思われるところも、いかにも民話らしいお話ということになろう。


茨城県教育委員会のHPから(華蔵院の梵鐘)


写真1:「華蔵院」境内入口、寺号標(「戒珠山 華蔵院」)


写真2:山門


写真3:山門の上の猫


写真4:同上


写真5:本堂


写真6:仁王門。石柱は「華蔵院 破魔薬師尊」。東側(駐車場側)から入る。


写真7:金堂(薬師堂)。仁王門の正面、本堂の向かって左手前にある。この薬師如来は、「天狗党の乱」のとき庭園の池に沈められ、兵乱が治まった後に探したが泥中に紛れて見つからなかったのを、明治14年、老僧の夢に薬師如来が現れて、見つかったという。


写真8:鐘楼


写真9:梵鐘(茨城県指定文化財)。元は常陸国那珂郡上檜沢村(現・茨城県常陸大宮市)「浄因寺」(廃寺)にあったもので、南北朝時代の暦応2年(1339年)銘がある。天保年間(1830~1844年)、水戸藩の大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれた(那珂湊には第9代水戸藩藩主・徳川斉昭により築造された反射炉があった。当寺院の北西約400m(直線距離)のところに復元されている。)。結局、鋳潰されずに済み、明治時代に当寺院の所有となった。


写真10:八大龍王堂。港町らしく、船舶海上交通安全の鎮護神として勧請されたものという。


写真11:弁財天堂。なお、境内にはほかにも大師堂、六角堂(十一面観音堂)、庭園などがある。

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立木観音堂(茨城県かすみがうら市)

2025-05-26 23:34:04 | 寺院

立木観音堂(たちきかんのんどう)。
場所:茨城県かすみがうら市加茂4529外。国道354号線と茨城県道197号線(戸崎上稲吉線)の「加茂入口」交差点から県道を南に約2.2km進んで、真言宗「南圓寺(南円寺)」の駐車場入口のところで左折(東へ)、「南圓寺」の西側を通って道なりに北東へ約400m。堂の前の道路(林道榎幕戸線)は狭く、駐車スペースもないので、「南圓寺」駐車場に置かせていただき、合わせてお参りするのがよいと思われる。
「立木観音堂」は、元は「南圓寺」の境内寺院だった「立木山 千手院 密蔵寺」(廃寺)の観音堂で、現在は「南圓寺」が管理している。堂本尊は千手観世音菩薩で、「常陸西国三十三観音霊場」第10番札所となっている。ただし、火災で焼けてしまい、現在は焼け焦げた仏像の一部が安置されている。残った部分だけでも径約75cm、高さ約1.5mあり、元はもっと大きかったらしい。伝説によれば、この観音像は、現・かすみがうら市の「歩崎観音」(「宝性院 歩崎山 長禅寺」(2022年5月21日記事)参照)及び「崎浜観音」(次項予定)と同じ木から彫られ、「立木観音」が根元、中間が「崎浜観音」、上部が「歩崎観音」となったという。仏師は不明だが、この後、「日光観音」(現・栃木県日光市の天台宗「日光山 中禅寺」の千手観音(通称「立木観音」)も彫ったとされる。あくまでも伝説で、現在残る仏像の様式感では、近世以前ではあるものの、古代まで遡るものではないらしいが、あるいは、さらに古い仏像があったのだろうか。
なお、観音堂の奥に「車塚(愛宕塚)」という大きな円墳があり、径約40m・高さ約7m、八方に突起があるとされているが、現状は山林で、素人ではよくわからず、早々にあきらめた。

五智山 光明院 南圓寺(ごちさん こうみょういん なんえんじ)。
場所:茨城県かすみがうら市加茂4476。
寺伝によれば、応永元年(1394年)、祐尊大和尚により開山、南北朝~室町時代、常陸小田氏領の真言宗四箇寺の一つと称された大寺だった。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大日如来。「東国花の寺」第3番の寺院として、牡丹の花などが有名。


写真1:「南圓寺」寺号標、山門


写真2:同上、本堂。本尊は大日如来だが、ほかに鎌倉時代初期頃の作とされる薬師如来坐像(かすみがうら市指定文化財)がある。


写真3:「南圓寺」東側(土浦警察署 下大津派出所の横に入る)にある「下大津のサクラ」。「下大津小学校」が開校した翌年の明治37年に樹齢5~6年のものが植えられたといわれており、ソメイヨシノとしては茨城県内最古級。周囲約4.5m、樹齢約120年。花も葉もない時の写真で申し訳ない。


写真4:「立木観音堂」入口。左側に池がある。


写真5:「立木観音堂」。堂の裏の土塁は、中世頃?に「車塚古墳」に付設されたものとされる。


写真6:同上、境内の石仏


写真7:同上、四面に仏法を守る四天王像を彫った中世の石塔という。


写真8:堂の向かって左手にある池。小島にあるのは弁天祠だろうか。元は「車塚古墳」の周濠であったともいう。

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真珠院跡(茨城県かすみがうら市)

2025-05-21 23:34:06 | 寺院

真珠院跡(しんじゅいんあと)。
場所:茨城県かすみがうら市深谷3265-2。国道354号線「南中学校入口」交差点から南に約900m進み、狭い道路へ右(南西)に約50m入る。駐車スペースなし。
「真珠院跡」は、現在は聖徳太子像を祀る仏堂のみが残っている廃寺跡であるが、次のような伝説がある。聖徳太子の死(622年)後、蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王一族を滅ぼした時(643年)に、麿王という王子が難を逃れ、乳母を頼って東国に落ち延びた。麿王には桜姫という恋人がいたが、別れる時に「山の東、水の里に行く。」という言葉を残した。桜姫は、その言葉を頼りに侍女の楓を連れて、麿王の後を追い、筑波山の東、霞ヶ浦の里である当地に辿り着いた。しかし、元々、麿王が行き先は当地とは限らず、行方は知れなかった。そこで、小さな庵を建て、麿王の偉大な祖父・聖徳太子の木像を彫りあげたが、重い病の床につき、楓の看病も空しく、「足が弱くて麿王に会うことができなかったので、人を訪ねて旅をする人が丈夫な足でどこまでも歩いていけるように、聖徳太子像の足元へ「お足(お銭)」を入れておいてほしい。」と言い残して亡くなった。その後、侍女の楓も、姫の後を追うように亡くなった。村人たちは二人を哀れみ、山桜と楓の木を植えて墓を造り、庵は寺にして「真珠院」と名付けた。今でも本尊の聖徳太子像の足元には「お足(お銭)」が挿まれていて、足がいつまでも丈夫であるようにと祈る人々がお参りにやってくる。なお、二人の墓として山桜の古木が最近まで残っていたが、令和5年に伐採されてしまったとのこと。


写真1:「真珠院跡」に残る「太子堂」


写真2:五輪塔の一部など


写真3:同上


写真4:石仏


写真5;石造の大師像


写真6:近くにある石祠

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空也堂(茨城県かすみがうら市)

2025-05-14 23:34:30 | 寺院

空也堂(くうやどう)。通称:宍倉空也堂。
場所:茨城県かすみがうら市宍倉367付近。茨城県道141号線(牛渡馬場山土浦線)と同221号線(飯岡石岡線)の「宍倉小東」交差点から東へ道なり(途中から茨城県道118号線(石岡田伏土浦線)になる。)に約4.6kmのところで左折(南へ)、約100mのところで狭い道路に右折(西へ)、約25m。駐車場なし。
空也は平安時代中期の僧で、ひたすら「南無阿弥陀仏」を称える称名念仏を初めて実践したとされ、我が国における浄土教・念仏信仰の先駆とされている。「比叡山 延暦寺」で受戒したため天台宗の一派に属するとされるが、社会事業などを通じて一般大衆にも浄土信仰を広めた。また、「踊念仏」の始祖とされ、それを行う「鉢叩」、「空也聖」などと称されたフォロワーがあった。京都洛中(現・京都市)を中心に活動したが、奥羽地方まで布教して回ったとされる。最期は、自身が創建したという京都東山「西光寺」(現・真言宗豊山派「補陀洛山 普門院 六波羅蜜寺」)で亡くなった。出生は不明(延喜3年(903年)頃?)だが、没年は天禄3年(972年)とされる。なお、第60代・醍醐天皇の皇子とする説が生存中からあったといわれるが、真偽は不明。
以上が僧・空也に関する基礎知識であるが、茨城県かすみがうら市におそらく関東で唯一の「空也堂」がある。伝承によれば、空也は鹿に乗って巡教していたが、当地で亡くなった。かつては「空也上人の墓」とされる塚があり、これを「鹿蔵」と称し、これが当地の地名「宍倉(ししくら)」になったという。「空也上人の墓」には「御墓松」という大きな松の樹(幹回り2丈6尺=約7.8m)が生えていたが、落雷により焼失したと伝えられ、他にも空也が掘った「阿弥陀井」と称する井戸もあったというが、現在では残っていないようである。「空也堂」の創建は不明だが、史料からすると、中世末頃には存在したらしい。ただし、空也が当地を訪れた(亡くなったということも含め)ということは疑わしいようで、おそらく「空也聖」が当地に住み着いて広めた説だろうと思われる。寺伝によれば、「空也堂」は、戦国時代には佐竹氏の重臣で宍倉城主・菅谷氏に厚く庇護されたが、佐竹氏に従って菅谷氏が出羽国に移ると、衰退した。このため、寛文6年(1666年)、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の寺社整理により取り潰しの対象となった。別当(住職)も還俗させられたものの、信仰を守り、一時は「皇子山 空也寺」として山号寺号を許された時期もあったようだが、文政12年(1829年)に水戸藩第9代藩主となった徳川斉昭が廃仏毀釈政策を進めたことから、再び廃寺とされた。このとき、何とか処分を免れようとして、天台宗の談林があった水戸「薬王院」(「吉田山 神宮寺 薬王院」(2019年12月21日記事)を頼り、「空也堂」の由来を提出し、「日本三大空也堂」の1つである(ほかの2つは京都「六波羅蜜寺」と現・福島県会津若松市「諸陵山 成就院 八葉寺」)などと、由緒のある寺院であることを強調した。しかし、結果は思わしくなかったらしく、再興されるのは、明治8年になってからのようである。堂本尊は、自刻と伝わる空也上人像で、有名な「六波羅蜜寺」所蔵の重要文化財「空也上人立像」と同じく、草鞋履きで鹿角杖を持ち、口から6体の小さな阿弥陀如来像が現れている形となっている。
なお、地元の伝説によれば、平将門が敗死した後、生き残りの家来が「空也堂」に集まり、僧侶の教育を受けて「空也聖」になったという。


写真1:「空也堂」参道石段


写真2:「空也堂」。因みに、当地の小字名も「空也堂」といい、堂を管理されている「額賀」家の屋号は「上人様」というとのこと。なお、堂は「額賀」家敷地内にあるため、堂の奥に進むのは遠慮。

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威徳山 福聚院 観音寺

2025-04-26 23:33:43 | 寺院

威徳山 福聚院 観音寺(いとくさん ふくじゅいん かんのんじ)。通称:久野観音寺。
場所:茨城県牛久市久野町2976。茨城県道34号線(竜ヶ崎阿見線)と同68号線(美保栄線)の「下久野」交差点から北へ約600mで左折(北西へ)、約180m進むと分岐があるが、「観音寺→」の案内板が出ている道路に進む。約180mで山門前だが、その手前に駐車場がある。
寺伝によれば、第45代・聖武天皇(在位:724年~749年)のときに行基が彫刻した十一面観世音菩薩像を、大同2年(807年)に伝教大師(最澄)の法孫・覚叡の高弟・教海法印が観音堂を建立して安置したのが創建で、嘉禄2年(1226年)、大破のため修営したとされる(嘉禄2年創建説もあり、こちらのほうが一般的かも。)。現在の本堂(観音堂)は大永5年(1525年)に熊野聖の教海十穀を大願主、当地の領主(守護)であった土岐原(土岐)治頼を大檀那として建てられ、宝永4年(1707年)に大改修されたとされるが、内部に内陣と外陣を備える当時の密教寺院の様式を備えており、附として宮殿・須弥壇などとともに茨城県指定有形文化財に指定されている。なお、国立歴史民俗博物館が炭素14年代測定法及び建材の様式比較などによる本堂の時代推定を行ったところでは、鎌倉時代後期の13~14世紀頃(1226年よりは後れるが、1525年よりは早い。)に建立された可能性が高いとされている。これらのことから、平安時代末~鎌倉時代初め頃に観音堂が建てられ、鎌倉時代末~室町時代頃に当地に下着した熊野聖が寺院として再興した(このときに天台宗となった)ということらしい。現在は天台宗の寺院で、本尊は十一面観音菩薩坐像(ヒノキ材の寄木造で室町時代頃の製作、茨城県指定重要文化財)。常陸西国三十三観音霊場第17番札所で、花の寺として知られ、特に紫陽花(アジサイ)が有名。


牛久市観光協会のHPから(観音寺)


写真1:参道石段と山門(茨城県指定有形文化財)


写真2:山門(仁王門)。なお、後ろのイチョウは樹高25m、幹回り3.8m、推定樹齢約300年。


写真3:仁王(金剛力士)像(吽形)。慶安3年(1650年)製作という。


写真4:本堂(茨城県指定有形文化財)

写真5:回向堂

写真6:四阿。元は鐘楼仮堂という。


写真7:現・鐘楼堂


写真8:十王石像。中央に閻魔王。


写真9:榧(カヤ)の木。樹高14m、幹回り3.2m、推定樹齢約400年。

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