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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

威徳山 福聚院 観音寺

2025-04-26 23:33:43 | 寺院

威徳山 福聚院 観音寺(いとくさん ふくじゅいん かんのんじ)。通称:久野観音寺。
場所:茨城県牛久市久野町2976。茨城県道34号線(竜ヶ崎阿見線)と同68号線(美保栄線)の「下久野」交差点から北へ約600mで左折(北西へ)、約180m進むと分岐があるが、「観音寺→」の案内板が出ている道路に進む。約180mで山門前だが、その手前に駐車場がある。
寺伝によれば、第45代・聖武天皇(在位:724年~749年)のときに行基が彫刻した十一面観世音菩薩像を、大同2年(807年)に伝教大師(最澄)の法孫・覚叡の高弟・教海法印が観音堂を建立して安置したのが創建で、嘉禄2年(1226年)、大破のため修営したとされる(嘉禄2年創建説もあり、こちらのほうが一般的かも。)。現在の本堂(観音堂)は大永5年(1525年)に熊野聖の教海十穀を大願主、当地の領主(守護)であった土岐原(土岐)治頼を大檀那として建てられ、宝永4年(1707年)に大改修されたとされるが、内部に内陣と外陣を備える当時の密教寺院の様式を備えており、附として宮殿・須弥壇などとともに茨城県指定有形文化財に指定されている。なお、国立歴史民俗博物館が炭素14年代測定法及び建材の様式比較などによる本堂の時代推定を行ったところでは、鎌倉時代後期の13~14世紀頃(1226年よりは後れるが、1525年よりは早い。)に建立された可能性が高いとされている。これらのことから、平安時代末~鎌倉時代初め頃に観音堂が建てられ、鎌倉時代末~室町時代頃に当地に下着した熊野聖が寺院として再興した(このときに天台宗となった)ということらしい。現在は天台宗の寺院で、本尊は十一面観音菩薩坐像(ヒノキ材の寄木造で室町時代頃の製作、茨城県指定重要文化財)。常陸西国三十三観音霊場第17番札所で、花の寺として知られ、特に紫陽花(アジサイ)が有名。


牛久市観光協会のHPから(観音寺)


写真1:参道石段と山門(茨城県指定有形文化財)


写真2:山門(仁王門)。なお、後ろのイチョウは樹高25m、幹回り3.8m、推定樹齢約300年。


写真3:仁王(金剛力士)像(吽形)。慶安3年(1650年)製作という。


写真4:本堂(茨城県指定有形文化財)

写真5:回向堂

写真6:四阿。元は鐘楼仮堂という。


写真7:現・鐘楼堂


写真8:十王石像。中央に閻魔王。


写真9:榧(カヤ)の木。樹高14m、幹回り3.2m、推定樹齢約400年。

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満足山 極楽院 妙行寺

2025-04-21 23:34:46 | 寺院

満足山 極楽院 妙行寺(まんぞくさん ごくらくいん みょうぎょうじ)。
場所:茨城県稲敷郡河内町生板4947-13。茨城県道68号線(美浦栄線)「小関」交差点から南東へ約700m(電柱に「妙行寺→」の案内板がある。)で左折(北東へ)、約450mで墓地のところから左折(北へ)して境内に入る(駐車場あり。)。山門は、その先の東側にあるが、門前の道路が狭いので、注意。
寺伝によれば、大同元年(806年)、満願上人が生板郷丸田不断所というところに開山したという。満願は、常陸国一宮「鹿島神宮」などの神宮寺を創建したという修験僧で(「神戸山 蓮華院 慈眼寺」2022年10月29日記事参照)、「満足山」という山号は満願に因むという。丸田不断所というのは現・「(旧村社)皇大神社」(当寺院現在地から北東約300m)の南側の場所であったようである。貞和元年(1345年)、第41世・忠海のとき現在地に移転した。文化9年(1812年)、火災に遭い、同14年(1817年)再建。江戸時代には「東叡山 寛永寺」(現・東京都台東区上野)の直末寺で、境内1580坪、末寺14ヵ寺あったという。昭和3年にも火災に遭い、本尊と過去帳は助け出されたが、その他の伽藍・寺宝は全て焼失したという。現在は天台宗で、本尊は阿弥陀如来。本尊の木造阿弥陀如来坐像は像高107cm、慶派の流れを汲み、桧(ヒノキ)材の寄木造で玉眼が嵌入されており、鎌倉時代の作とされる(河内町唯一の茨城県指定文化財)。他にも、平安時代(11世紀頃)の作とされる木造薬師如来立像(元は末寺「照明院 薬師堂」の本尊)、室町時代作の木像八幡三神坐像(いずれも河内町指定文化財)などを所蔵している。
蛇足:天台宗関東総本山「寛永寺」の直末寺は常陸国に14ヵ寺あり、旧・稲敷郡(現・牛久市、竜ケ崎市を含む)では江戸崎「不動院」(2022年6月18日記事)、小野「逢善寺」(2022年5月28日記事)、阿波「神宮寺」(2022年7月9日記事)と当寺院の4ヵ寺であった。当寺院の住職には「寛永寺」の勧学寮(当時の天台宗最高の学問所)から30歳前後のエリート学僧が派遣され、更に格式の高い寺院に転出する習わしとなり、「出世寺」とも称されたという。


河内町のHPから(木造阿弥陀如来坐像)

同(薬師如来立像)


写真1:「妙行寺」入口。寺号標と山門。


写真2:同上、南側からの入口、寺号標。


写真3:同上、本堂


写真4:同上、鐘楼


写真5:同上、地蔵堂。茨城百八地蔵尊霊場第71番札所となっている。


写真6:法華塔(生板三義人供養塔)。文化14年(1817)年、生板村など天領8ヵ村の農民が、凶作にもかかわらず重くなる年貢に耐えかねて、 江戸の代官邸及び勘定奉行所に門訴した事件があり、捕らえられて獄死した3人の指導者を供養するもの。 その後、代官は解任され、年貢は軽減されたという。塔高4.1mで、文政6年(1823年)建立。河内町指定文化財第1号。


写真7:「皇大神社」(場所:河内町生板5103)。何故か河内町内には「皇大神社」が多いが、この神社が(旧)村社。


写真8:同上、社殿。


写真9:同上、鳥居横のイチョウに見とれてしまった。じつは、「妙行寺」境内には河内町指定天然記念物のイチョウ(幹周4.2m、樹高38.5m)があるのだが、うっかり撮り忘れた。

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蓬莱山 弘誓院 福満寺

2025-04-12 23:35:09 | 寺院
蓬莱山 弘誓院 福満寺(ほうらいさん ぐぜいいん ふくまんじ)。通称:柳戸観音。
場所:千葉県柏市柳戸612。千葉県道282号線(柏印西線)沿い「手賀中学校」前から東に約160m、「柏 ひがし聖地公苑」という案内看板の出ているところで左折(北へ)、約180mで「公苑」墓地駐車場。「弘誓院」本堂は「公苑」から北側へ下りたところにある。
寺伝によれば、大同年間(806~810)に行基菩薩が伽藍を建立し、自ら一刀三礼して桜の木を彫刻した三尺三寸(=1m)の本尊・聖観音像を安置したのが創建とされる。中世、高城下野守胤則・原兵部小輔胤定・相馬弥七郎胤光等の大檀越が珍宝等を喜捨し、仁王門・鐘楼等を造営したが、天正年間(1573~1592年)に火災に遭い、堂宇が全て焼失した。このとき、本尊の観音像は自ら大杉の枝の上に避難して災禍を免れたといい、「火防観音」とも呼ばれる。また、梵鐘が池に落ち、それ以来、この池を「鐘ヶ淵」と称するようになったという。なお、地蔵堂に安置される地蔵像は、伝教大師(最澄。天台宗の宗祖)の作と伝えられる高さ七尺余(約212cm)の木彫立像で、毎夜、村の各家を訪ねて泣く子をあやしたとか、本堂の普請に必要な木材の寄進を求めて回ったとかという伝説がある。因みに、旧来の諸堂は現在の鐘楼堂と同じ丘の上にあったとされ、その台地上から多くの板碑が出土している(もっとも古いものは嘉暦3年(1328年)銘がある。)。昭和45年、東京都千代田区大手町の高速道路工事現場から「下総国南相馬郡泉郷柳渡福満寺文正二年」銘のある古鐘が出土したが、これは文正2年(1467年)に当寺院に寄進されたものと見られている(なお、柏市大井の「教永山 積善院 福満寺」(2025年3月15日記事)のものとする説あり。)。因みに、文明10年(1479年)、武蔵国江戸城主・太田道灌が下総国の千葉氏を攻撃している(「境根原合戦」(境根原は現・柏市酒井根))ので、このときに道灌軍が鐘を略奪したのかもしれない。また、当寺院所蔵の「法華三部経版木」(千葉県指定文化財)は法華三部経を印刷するための版木で、室町時代頃のものと推定されている。当時、版木製作を含め印刷・出版には相当な財力が必要であっただろうから、当地の領主などからの庇護が篤かったことが窺われる。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は聖観世音菩薩(秘仏)。この観音像は桧(ヒノキ)材で像高79.5cm、鎌倉時代(13世頃)の作とされ、千葉県指定文化財。旧下総国西部(東葛飾郡・印旛郡)を巡る下総新西国三十三ヶ所観音霊場の第33番札所となっている。


柏市のHPから(聖観世音菩薩坐像・妙法蓮華経版木)

同上(弘誓院の銀杏樹)

柏市観光協会のHPから(夜あるくお地蔵さま)


写真1:「弘誓院」寺号標。正面に本堂。


写真2:境内に雌雄2本の銀杏樹(イチョウ)の大木がある(柏市指定文化財(天然記念物))。こちらは雌樹で、幹囲4.4m。乳柱(気根)が発生しており、母乳の少ない婦人が削って煎じて飲むと乳に恵まれるという。


写真3:同上、雄樹。幹周4.2m。


写真4:本堂


写真5:右:延命地蔵堂、左:大師堂。大師堂は東葛印旛大師八十八ヶ所霊場第83番札所・下総四郡八十八所霊場第83番札所となっている。


写真6:弁財天像。8臂の石造坐像。


写真7:本堂の南の台地上にある鐘楼。大正時代のもので、柏市都市景観賞受賞。


写真8:本堂の東側に隣接する「熊野神社」(祭神:家都御子大神)。創建時期不明だが、当寺院の山号「逢莱山」は神仙が住む島の名で、所謂「熊野三山」(現・和歌山県新宮市ほか)の異称でもある(秦の始皇帝の命を受けた徐福が辿り着いたのが熊野であるという伝説がある。)ことなどから、当寺院の鎮守として祀られたものとみられている。
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教永山 積善院 福満寺

2025-03-22 23:33:33 | 寺院
教永山 積善院 福満寺(きょうえいさん せきぜんいん ふくまんじ)。
場所:千葉県柏市大井1708。国道16号線と千葉県道282号線(柏印西線)の「大井」交差点から東へ約650mで左折(北へ)、約500m進んだところ(案内看板あり)で左の側道へ(北西へ)進み、約260mで「福満寺」楼門付近。その右側(東側)の道路を北へ約110m下っていくと本堂前に着く。その先、約80m進んだところに広い駐車場がある。
寺伝によれば、第50代・桓武天皇(在位:781~806年)のときに、権大僧都・尊慶により創建された。また、旧薬師堂の古棟札の写しに「承和十一年甲子十一月八日下総国相馬郡南相馬ノ庄大井郷別当福満寺」(承和11年は西暦844年)という記載があるという。これらを信じるならば、最澄が帰国して天台宗を伝えたのが延暦25年(806年)なので、奈良時代に開創され、その後、天台宗の寺院となったということになる。境内地からは、延慶3年(1310年)を最古とする60枚以上の板碑が発見されており、中世には相当に隆盛していたようである。しかし、戦国時代以降、度々兵火に遭遇し、江戸時代にも延宝年間(1673~1681年)、享保年間(1716~1736年)に火災に遭い、堂宇伽藍・古記録は殆ど灰燼に帰した。元文4年(1739年)に再興されたが、これも明治36年の火災で諸堂が焼失し、江戸時代の伽藍は観音堂(旧本堂)と鐘楼堂のみとなっている。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。「関東九十一薬師霊場」第79番札所。
なお、観音堂には聖観世音菩薩が祀られているが、この観音像は聖徳太子作と伝えられ、当寺院の大檀越であった坂巻若狭守の守本尊であったとの伝承がある。坂巻若狭守は平将門の家臣で、大井追花(現・柏市大井)の地に住み、居館内の観音堂に安置した。後に「香取神社」側の当寺院境内の高台に移され、江戸時代に現在地へ移転した。この観音像は、度々の火災にも奇跡的に焼失を免れたため、「火伏せの観音」とも称されているという。ただし、秘仏で、住職一代に1回のみ開扉が許され、非公開。「下総三十三ヶ所観音」の第14番札所となっている。


写真1:「福満寺」山門を兼ねた鐘楼堂。「大井の晩鐘」として「手賀沼八景」の1つ。現在は鐘楼堂だけが台地上にあり、本堂等は北側(手賀沼の方向)の三反田谷津という谷に下りたところにある。


写真2:上の鐘楼堂の東側にある「香取神社」鳥居


写真3:同上、境内の椎の巨木


写真4:「香取神社」。社伝によれば、元和5年(1619年)の創建。大井地区の鎮守で、旧村社。現在の祭神は経津主命。


写真5:「福満寺」鐘楼堂と「香取神社」の間の道路を下っていくと、多くの小堂がある。准四国八十八ヶ所霊場という、当寺院のみで四国八十八ヶ所霊場を写したもの。これらとは別に、「東葛印旛大師八十八ヶ所霊場」の第7番と第54番札所の大師堂がある(第54番札所は、元は「香取神社」にあったらしい。)


写真6:「福満寺」寺号標


写真7:同上、本堂。本尊は薬師如来だが、妙見菩薩も安置されているとのこと。


写真8:同上、境内の「宝子霊石」。お参りすると子宝に恵まれるとのこと。


写真9:同上、本堂の右手にある「将門大明神」祠。当寺院と平将門の所縁は別項で。


写真10:同上、弁天堂と「かしわ七福神」布袋尊像。弁財天は、天保11年(1840年)に江戸上野「東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂」(現・東京都台東区)から分座されたものという。


写真11:同上、観音堂
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興隆山 寿量院 東漸寺

2025-03-08 23:34:17 | 寺院
興隆山 寿量院 東漸寺(こうりゅうさん じゅりょういん とうぜんじ)。
場所:茨城県取手市本郷3-9-19。国道6号線(取手バイパス)「桑原」交差点から北西へ約1.3kmで右折(北へ)して、直ぐ(約40m)右折(東へ)、約140m。駐車場あり(本堂の背後。境内入口の手前で左折(北へ)する。)。
開山の経緯等は不明だが、天正2年(1574年)の創建とされる。東西に通る道路の北側にあって、牛馬の往来が多かったらしく、その守護神として元和3年(1617年)に馬頭観世音菩薩が安置され、寛文7年(1667年)には現在の観音堂が建立された。この馬頭観音像は高さ2尺4寸(=約70cm)、家運隆昌・除災招福に御利益があるとされる。行基菩薩作と伝えられ、この辺りに居館があったと伝えられる県犬養春枝(娘が平将門の母とされるので、将門の祖父に当たる。)所縁の仏像ともいい、当寺院の創建以前にあった小堂に祀られていたものとの伝承がある。また、山門(仁王門)を通った正面に観音堂があるが、馬頭観音の霊験により、馬を乗ったままで門前を通ると必ず落馬することから、山門と観音堂の間に目隠しとして銀杏(イチョウ)を植えたという。これを通称「目隠し銀杏」といい、樹高約19m・目通り幹周り約6.2m・樹齢約600年の大木となっている。山門も元禄3年(1690年)の建立で、昭和26年に鉄板葺に変えられていたが、平成22年に修復工事が行われ、茅葺屋根に戻った。観音堂(附:宮殿、軒札)と山門は、平成27年に茨城県指定文化財に指定。現在は天台宗に属し、本尊は阿弥陀如来。なお、境内に新四国相馬霊場八十八ヶ所の第70番札所、第71番札所がある。
因みに、当寺院境内に源三位頼政公の供養塔がある(通称:ヨリマサ様)。源頼政は平安時代末期の武将で、怪物・鵺を退治したという伝説で有名。治承4年(1180年)に「宇治平等院の戦い」で平氏側に敗れて自害したが、郎党である下河辺氏が首を持って坂東に落ちのびて葬ったとの伝承があり、茨城県内では龍ケ崎市と古河市に「頼政神社」がある(2022年1月1日及び同年1月8日記事)。当寺院の供養塔は明治4年建立の銘があり、どういう経緯かは不明だが、あるいは鵺退治の超人的活躍に肖ったものかもしれない。手・足・腹の痛みや脳の病に霊験があるとのこと。


取手市のHPから(東漸寺観音堂・山門・宮殿・棟札)


写真1:「東漸寺」境内入口、寺号標(「天台宗 興隆山 東漸寺」)


写真2:山門(仁王門)


写真3:「目隠しの銀杏」。取手市内で最大のイチョウの巨木。


写真4:観音堂(堂本尊:馬頭観世音菩薩)。なお、観音堂の左側にある楠(クスノキ)は県内最大とされ、樹高約26m・幹周約7.0m・樹齢約320年という。


写真5:本堂(本尊:阿弥陀如来)


写真6:大師堂(新四国相馬霊場八十八ヶ所第71番札所)


写真7:同上(新四国相馬霊場八十八ヶ所第70番札所)。旧・寺田村の廃寺となった「永福寺」にあったものを移設。


写真8:頼政公供養塔。正面に「治承四庚子年 源三位頼政公建法澤山頼圓大居士神儀 五月廿三日」、左側面に「明治四辛未年九月吉日立之」銘がある。本体の高さ約56cm。
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