八溝山 日輪寺(やみぞさん にちりんじ)。通称:八溝観音。
場所:茨城県久慈郡大子町上野宮2134。国道118号線と茨城県道28号線(大子那須線)の「下野宮」交差点から、県道を北~北西へ約13.3km進んで茨城県道248号線(八溝山公園線)に入り(「八溝山」方面への分岐の案内標識がある。)、北へ約6.3kmで左折(西へ。「八溝山 日輪寺」の案内板あり。)、約500m。駐車場あり。県道からの道路は狭いので、すれ違いなど注意が必要。
寺伝等によれば、白鳳時代、天武天皇2年(673年)に修験道の開祖・役小角が創建し、その後いったん廃寺となったが、大同2年(807年)に弘法大師・空海(真言宗開祖)が再興したという。大師が出羽国「湯殿山」(現・山形市鶴岡市。「湯殿山神社本宮」(2016年4月6日記事)参照)から常陸国「鹿島」に向かう途中、当地の川を渡った際に香気を感じ、川の水を掬うと掌に梵字が浮んだので、上流に仏陀の浄土があると思った。村人に聞いてみると、嶺に朝日が当たると五色の雲が湧き、音楽が聞こえる。ただし、この山には大猛丸という鬼賊が棲み、人を害するので、皆近づかなくなっているという。そこで、大師が虚空に「般若の魔字品」を描くと、鬼賊は退散していった。大師が山頂に立つと、山の形が8つの谷に分かれ、八葉の蓮華を伏せたようであったため「八溝の嶺」と名づけた。すると、大己貴神・事代主神の2神が現れ、「この嶺は十一面観世音菩薩を安置する浄土である。大師がここに道場を開くならば、我らが垂迹して永く仏法を守ろう」とのお告げがあったので、自ら2体の十一面観音像を刻み、「日輪寺」・「月輪寺」の2寺を建立した。仁寿3年(853年)、慈覚大師・円仁(「比叡山 延暦寺」第3代座主)が来錫して堂宇を改修し、天台宗に改宗した。永延3年(989年)、坂東三十三観音霊場第21番札所となった。平安時代~鎌倉時代にかけて修験者の霊場となって栄え、源頼朝が寺領を寄進するなどし、室町時代の文明年間(1469~1487年)頃には間口十六間・総欅造りの本堂など大伽藍があったとされる。また、上之坊「月輪寺」・下之坊「日輪寺」のほか、中之坊には尼寺があり、その他多くの院坊があったらしい。この頃、当地を支配していたのは佐竹氏で、その一族の者が「大先達」として修験者達を束ねていたが、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に転封となると多くの修験者もこれに従い、「八溝山」は現・福島県棚倉町の「八槻大善院」(天台宗修験、本山派)傘下に入ったものの、しだいに統率が失われていった。寛永20年(1643年)、火災によって焼失したが、水戸藩等の援助もあり、万治3年(1660年)に再建された。しかし、元々、「八溝山」(標高1022m)の8合目付近にあって、地理的条件に厳しく、坂東三十三観音霊場の中で最も参拝が厳しいとされ、山麓からの遥拝のみで済ませる「八溝知らずの偽坂東」という言葉もあった。このようなこともあり、天明年間(1781~1789年)頃には殆ど無住の状態だったらしい。それが、明治時代に入って神仏分離・修験禁止により更に打撃を受けた上、明治13年には山火事に遭って再び焼失。昭和初期には天台宗の寺籍は失われ、本尊も朽廃して開帳もできない状況となっていた。しかし、地元保存会の信者らにより法灯は細々と維持され、昭和40年代に入ると、大子町の観光の目玉の一つとして「八溝山」の登山道整備が行われて参拝者も増加し、昭和48年、現在の鉄筋コンクリート造の「日輪寺」本堂が再建された。現在の本尊は、十一面観世音菩薩。
蛇足1:弘法大師・空海が開いた真言密教の霊地「高野山 金剛峯寺」(現・和歌山県高野町)は8つの山に囲まれた山上の盆地にあって、囲む山々を「八葉の峰」と称し、「高野山」が八葉の蓮華の中心に位置するという。当寺院の伝承に弘法大師が登場するのも、この連想によるものかもしれない。
蛇足2:「八溝」の地名発祥譚は上記の通りだが、次のような説もある。山麓の上野宮・上郷・中郷・町付等の4ヵ村は昔、「黒沢」と称していたが、かつては山に妖鬼が棲んでいて麓まで霧が濛々として暗かったことによるもので、村人も困って、黒沢より奥は「闇ぞ」と言っていた。この妖鬼は、那須国造が近津神の助けを借りて退治したという。
大子町観光協会のHPから(日輪寺)
坂東三十三観音のHPから(八溝山 日輪寺)
写真1:「日輪寺」本堂(観音堂)
写真2:同上
写真3:観音像
写真4:観音像の背後に多数の水子地蔵像
写真5:石塔
写真6:旧・仮本堂
写真7:弁財天像
東勝山 長福寺(とうしょうさん ちょうふくじ)。
場所:茨城県久慈郡大子町頃藤3357。国道118号線「滝倉入口」交差点から北へ約700mで左側道(「高部 上小川駅」方面の案内板あり)に入り、約120m進んで突き当りを右折(東へ)、約70mで参道入口。駐車場あり。
寺伝によれば、長元2年(1029年)、梅閑律師が「長福山」に律宗の寺院として創建した。現在地の東にある「長福山」(標高496m)は、別名・女体山といい、岩壁が露出した標高654mの「(奥久慈)男体山」と並んで、古くから山岳信仰の地であった。現在も登山道があって、「長福観音堂」(堂本尊:十一面観世音菩薩)があるという。文明元年(1469年)、頃藤城主・小川和泉守義房が「広沢山 耕山寺」(現・茨城県常陸太田市)から大通詮甫禅師を招いて曹洞宗に改宗し、翌年、寺院を城内に移した。永正3年(1506年)、二世・亀山香馨の代に現在地の「宮平」に移った。安永6年(1777年)、火災で全堂焼失したが、天明3年(1783年)に本堂を再建し、享和~文化年間(1801~1818年)に山門を新築した。山門は、元は茅葺だったが、大正8年に瓦葺、昭和60年に銅板葺に改修されている。現在の本尊は、釈迦如来。なお、江戸時代開創の「常陸三十三観音霊場」第24番札所(ただし、水戸藩の寺社整理等により、霊場の半分以上が廃寺となっているとのこと。)、「東国花の寺百ヶ寺」茨城1番札所、「奥久慈大子七福神」第1番札所(寿老人)などになっている。
大子町文化遺産のHPから(長福寺山門)
写真1:「長福寺」参道入口
写真2:「新西國八十八箇所 第一番」石碑
写真3:寺号標「曹洞宗別格地 長福寺」
写真4:山門
写真5:鐘楼
写真6:本堂
写真7:本堂前の庭園
戒珠山 密厳寺 華蔵院 (かいじゅさん みつごんじ けぞういん)。
場所:茨城県ひたちなか市栄町1-1-33。茨城県道108号線(那珂湊大洗線)「湊本町」交差点から南西~西へ約850m(境内入口)。その約200m手前(東)に駐車場有り。
創立年代は、一説によれば応保3年(1163年)、寺伝では応永年間(1394~1428年)、宥尊上人の開基とされる。常陸大掾氏、江戸氏、佐竹氏と各時代の領主の庇護を受け、室町時代の文明年間(1469~1487年)には末寺・門徒寺院が合わせて40ヵ寺が創建された。江戸時代には徳川幕府より朱印地15石を受け、5千坪の境内に七堂伽藍・四塔堂・六供院があったが、元治元年(1864年)、「天狗党の乱」(「元治甲子の乱」)の兵火により、寺宝とともに全て焼失した(天狗党は、水戸城の近郊にあって、裕福な港町であった那珂湊に布陣した。幕府軍と大激戦となり、民家や社寺の大半が大きな被害を受けたという。)。明治14年、現在の堂宇が再建された。現在は真言宗智山派に属し、本尊は大日如来。
なお、当寺院は「華蔵院の猫」という民話でも有名。それは、こんな話である。昔、湊村の行商人が夜、原っぱに通りかかると、猫たちが踊っていた。猫たちが口々に「華蔵院が来ないと、拍子が揃わないな。」と言っているところへ、袈裟をつけた古猫が現れ、「院主が外出して袈裟がなく、遅くなってしまった。」と言って踊りに加わった。その後、行商人が「華蔵院」を訪れ、この話をしたので、住職が袈裟を調べてみると、その裏に猫の毛がたくさんついていた。その日以来、猫は「華蔵院」から姿を消した、という。
蛇足:猫が集まって踊っていたとか、宴会をしていたとかいう民話は全国各地にあるようだが、「華蔵院」の猫、と特定されているのは珍しいと思われる。民話(昔話)なので、色々なヴァリエーションがあるが、例えば、「原っぱ」は下総国小金原(現・千葉県松戸市小金原。直線距離で約80km離れている。)だとするものや、袈裟が湿っていたので猫の仕業とわかったとするもの、住職は笑って許したが、最後には住職の妻を噛み殺して逃げたとするものなどがあり、猫のいたずらのような話から化け猫騒動のような話まである。猫は、江戸時代中期頃までは高価な愛玩動物で、相当裕福でないと飼えなかったらしい。つまり、「華蔵院」には、それだけの財力があったということかもしれない(なお、寺院で猫を飼うのは、経典や供物を齧る鼠の駆除のためもある。)。また、全国に類話があるのは、歌舞伎や読本などの影響があって広まったようで、「原っぱ」といえば(具体的な距離を考慮せず)すぐに「小金原」(現・千葉県北西部に「小金牧」という有名な軍馬の放牧場があった。)を連想したのだろうと思われるところも、いかにも民話らしいお話ということになろう。
茨城県教育委員会のHPから(華蔵院の梵鐘)
写真1:「華蔵院」境内入口、寺号標(「戒珠山 華蔵院」)
写真2:山門
写真3:山門の上の猫
写真4:同上
写真5:本堂
写真6:仁王門。石柱は「華蔵院 破魔薬師尊」。東側(駐車場側)から入る。
写真7:金堂(薬師堂)。仁王門の正面、本堂の向かって左手前にある。この薬師如来は、「天狗党の乱」のとき庭園の池に沈められ、兵乱が治まった後に探したが泥中に紛れて見つからなかったのを、明治14年、老僧の夢に薬師如来が現れて、見つかったという。
写真8:鐘楼
写真9:梵鐘(茨城県指定文化財)。元は常陸国那珂郡上檜沢村(現・茨城県常陸大宮市)「浄因寺」(廃寺)にあったもので、南北朝時代の暦応2年(1339年)銘がある。天保年間(1830~1844年)、水戸藩の大砲鋳造のために徴収されて、那珂湊に運ばれた(那珂湊には第9代水戸藩藩主・徳川斉昭により築造された反射炉があった。当寺院の北西約400m(直線距離)のところに復元されている。)。結局、鋳潰されずに済み、明治時代に当寺院の所有となった。
写真10:八大龍王堂。港町らしく、船舶海上交通安全の鎮護神として勧請されたものという。
写真11:弁財天堂。なお、境内にはほかにも大師堂、六角堂(十一面観音堂)、庭園などがある。
立木観音堂(たちきかんのんどう)。
場所:茨城県かすみがうら市加茂4529外。国道354号線と茨城県道197号線(戸崎上稲吉線)の「加茂入口」交差点から県道を南に約2.2km進んで、真言宗「南圓寺(南円寺)」の駐車場入口のところで左折(東へ)、「南圓寺」の西側を通って道なりに北東へ約400m。堂の前の道路(林道榎幕戸線)は狭く、駐車スペースもないので、「南圓寺」駐車場に置かせていただき、合わせてお参りするのがよいと思われる。
「立木観音堂」は、元は「南圓寺」の境内寺院だった「立木山 千手院 密蔵寺」(廃寺)の観音堂で、現在は「南圓寺」が管理している。堂本尊は千手観世音菩薩で、「常陸西国三十三観音霊場」第10番札所となっている。ただし、火災で焼けてしまい、現在は焼け焦げた仏像の一部が安置されている。残った部分だけでも径約75cm、高さ約1.5mあり、元はもっと大きかったらしい。伝説によれば、この観音像は、現・かすみがうら市の「歩崎観音」(「宝性院 歩崎山 長禅寺」(2022年5月21日記事)参照)及び「崎浜観音」(次項予定)と同じ木から彫られ、「立木観音」が根元、中間が「崎浜観音」、上部が「歩崎観音」となったという。仏師は不明だが、この後、「日光観音」(現・栃木県日光市の天台宗「日光山 中禅寺」の千手観音(通称「立木観音」)も彫ったとされる。あくまでも伝説で、現在残る仏像の様式感では、近世以前ではあるものの、古代まで遡るものではないらしいが、あるいは、さらに古い仏像があったのだろうか。
なお、観音堂の奥に「車塚(愛宕塚)」という大きな円墳があり、径約40m・高さ約7m、八方に突起があるとされているが、現状は山林で、素人ではよくわからず、早々にあきらめた。
五智山 光明院 南圓寺(ごちさん こうみょういん なんえんじ)。
場所:茨城県かすみがうら市加茂4476。
寺伝によれば、応永元年(1394年)、祐尊大和尚により開山、南北朝~室町時代、常陸小田氏領の真言宗四箇寺の一つと称された大寺だった。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は大日如来。「東国花の寺」第3番の寺院として、牡丹の花などが有名。
写真1:「南圓寺」寺号標、山門
写真2:同上、本堂。本尊は大日如来だが、ほかに鎌倉時代初期頃の作とされる薬師如来坐像(かすみがうら市指定文化財)がある。
写真3:「南圓寺」東側(土浦警察署 下大津派出所の横に入る)にある「下大津のサクラ」。「下大津小学校」が開校した翌年の明治37年に樹齢5~6年のものが植えられたといわれており、ソメイヨシノとしては茨城県内最古級。周囲約4.5m、樹齢約120年。花も葉もない時の写真で申し訳ない。
写真4:「立木観音堂」入口。左側に池がある。
写真5:「立木観音堂」。堂の裏の土塁は、中世頃?に「車塚古墳」に付設されたものとされる。
写真6:同上、境内の石仏
写真7:同上、四面に仏法を守る四天王像を彫った中世の石塔という。
写真8:堂の向かって左手にある池。小島にあるのは弁天祠だろうか。元は「車塚古墳」の周濠であったともいう。
真珠院跡(しんじゅいんあと)。
場所:茨城県かすみがうら市深谷3265-2。国道354号線「南中学校入口」交差点から南に約900m進み、狭い道路へ右(南西)に約50m入る。駐車スペースなし。
「真珠院跡」は、現在は聖徳太子像を祀る仏堂のみが残っている廃寺跡であるが、次のような伝説がある。聖徳太子の死(622年)後、蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王一族を滅ぼした時(643年)に、麿王という王子が難を逃れ、乳母を頼って東国に落ち延びた。麿王には桜姫という恋人がいたが、別れる時に「山の東、水の里に行く。」という言葉を残した。桜姫は、その言葉を頼りに侍女の楓を連れて、麿王の後を追い、筑波山の東、霞ヶ浦の里である当地に辿り着いた。しかし、元々、麿王が行き先は当地とは限らず、行方は知れなかった。そこで、小さな庵を建て、麿王の偉大な祖父・聖徳太子の木像を彫りあげたが、重い病の床につき、楓の看病も空しく、「足が弱くて麿王に会うことができなかったので、人を訪ねて旅をする人が丈夫な足でどこまでも歩いていけるように、聖徳太子像の足元へ「お足(お銭)」を入れておいてほしい。」と言い残して亡くなった。その後、侍女の楓も、姫の後を追うように亡くなった。村人たちは二人を哀れみ、山桜と楓の木を植えて墓を造り、庵は寺にして「真珠院」と名付けた。今でも本尊の聖徳太子像の足元には「お足(お銭)」が挿まれていて、足がいつまでも丈夫であるようにと祈る人々がお参りにやってくる。なお、二人の墓として山桜の古木が最近まで残っていたが、令和5年に伐採されてしまったとのこと。
写真1:「真珠院跡」に残る「太子堂」
写真2:五輪塔の一部など
写真3:同上
写真4:石仏
写真5;石造の大師像
写真6:近くにある石祠