大物忌神社(おおものいみじんじゃ)。通称:森子大物忌神社(もりこおおものいみじんじゃ)、または八乙女山大物忌神社(やおとめさんおおものいみじんじゃ)。地元では「お薬師様」とも呼ばれているとのこと。
場所:秋田県由利本荘市森子字八乙女下99。国道108号線「滝沢橋」交差点から南に約1km進み、「下川原」バス停のところ(案内板あり)から西へ約500m。駐車場あり。
社伝によれば、養老年中(717~724年)、八乙女山に「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請し、遥拝所として崇敬された。貞観3年(861年)には社殿を造営し、修験者の「鳥海山」登拝路の1つ「滝沢口」の中心地となったという。早くから神仏習合し、八乙女山にあった天台宗「龍洞寺」を学頭寺として最盛期には宗坊33坊を数えたという。戦国時代末期、当地を支配していた滝沢氏が現・由利本荘市前郷に新たに城(館)を築いたため、「龍洞寺」も城下に移され、「文殊院」が別当となった。当神社は通称「お薬師様」と呼ばれるように、神仏分離以前は「薬師堂」であり、「大物忌神」の本地仏である薬師如来、脇侍の日光菩薩・月光菩薩、守護善神である十二神将が祀られていた(明治期の神仏分離の際には天井裏に隠されて残されたらしい。)。同じく「鳥海山」北麓にあって「逆の峰入り」を行う「矢島口」の修験とは対立関係にあったとされ、江戸時代中期頃には敗北し、立場を失ったとされる。
現在では、「(森子)大物忌神社」となり、安政3年(1856年)再建の拝殿・幣殿、大正時代建立の本殿が国登録有形文化財に登録されているほか、境内一帯が史跡「鳥海山」の一部として国指定史跡に指定されている。
秋田県神社庁のHPから(大物忌神社)
写真1:「(森子)大物忌神社」境内入口の鳥居と社号標。鳥居の扁額は「大物忌神社」、社号標は「八乙女山大物忌神社」。ここから約300段の石段を上る。例大祭(4月第3日曜日)には、古式に則り米俵10俵分と言われる御輿を背負い、この石段を一気に駆け上がる。
写真2:二の鳥居
写真3:「神楽座跡」の石碑。ここから上は女人禁制。
写真4:社殿
写真5:社殿の奥に「鳥海山」山頂に向う「道者道」入口がある。
写真6:八乙女山の山頂にある「鳥海山様」という三角形の石。「鳥海山」の山容を表すものという。
場所:秋田県由利本荘市森子字八乙女下99。国道108号線「滝沢橋」交差点から南に約1km進み、「下川原」バス停のところ(案内板あり)から西へ約500m。駐車場あり。
社伝によれば、養老年中(717~724年)、八乙女山に「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請し、遥拝所として崇敬された。貞観3年(861年)には社殿を造営し、修験者の「鳥海山」登拝路の1つ「滝沢口」の中心地となったという。早くから神仏習合し、八乙女山にあった天台宗「龍洞寺」を学頭寺として最盛期には宗坊33坊を数えたという。戦国時代末期、当地を支配していた滝沢氏が現・由利本荘市前郷に新たに城(館)を築いたため、「龍洞寺」も城下に移され、「文殊院」が別当となった。当神社は通称「お薬師様」と呼ばれるように、神仏分離以前は「薬師堂」であり、「大物忌神」の本地仏である薬師如来、脇侍の日光菩薩・月光菩薩、守護善神である十二神将が祀られていた(明治期の神仏分離の際には天井裏に隠されて残されたらしい。)。同じく「鳥海山」北麓にあって「逆の峰入り」を行う「矢島口」の修験とは対立関係にあったとされ、江戸時代中期頃には敗北し、立場を失ったとされる。
現在では、「(森子)大物忌神社」となり、安政3年(1856年)再建の拝殿・幣殿、大正時代建立の本殿が国登録有形文化財に登録されているほか、境内一帯が史跡「鳥海山」の一部として国指定史跡に指定されている。
秋田県神社庁のHPから(大物忌神社)
写真1:「(森子)大物忌神社」境内入口の鳥居と社号標。鳥居の扁額は「大物忌神社」、社号標は「八乙女山大物忌神社」。ここから約300段の石段を上る。例大祭(4月第3日曜日)には、古式に則り米俵10俵分と言われる御輿を背負い、この石段を一気に駆け上がる。
写真2:二の鳥居
写真3:「神楽座跡」の石碑。ここから上は女人禁制。
写真4:社殿
写真5:社殿の奥に「鳥海山」山頂に向う「道者道」入口がある。
写真6:八乙女山の山頂にある「鳥海山様」という三角形の石。「鳥海山」の山容を表すものという。