神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

犬田神社(茨城県桜川市)

2024-06-29 23:33:55 | 神社
犬田神社(いぬたじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市犬田696。国道50号線「鍬田」交差点から茨城県道41号線(つくば益子線)を南東へ約1.2kmで左折(北東~北へ)、約160m(北関東自動車道の高架下を通ったら直ぐに左折して、再び高架下を潜ることになる。)。駐車場なし。
社伝によれば、日本武尊が東征の折、経津主神・武甕槌神・気吹戸主神の3柱を祀ったのが創祀で、「香取神社」と称していた。第14代・仲哀天皇の后・神功皇后が三韓征討のときに祈願し、大勝を報賽して神田の寄進があった。承平年間(931~938年)、平将門にこの神田を没収された。寛治4年(1090年)、源義家が奥州征伐に向かう途中で当神社に参拝したとき、御神木を眺めて「幾世をか 経りし欅の 三の椏(また)に みつの湛(たたえ)の 久しかるべし」と詠んだといわれている。なお、この御神木の欅(ケヤキ)は樹齢約1200年といわれていたが、平成8年に枯れてしまい、根元から2mを保存することになった。明治中期の記録によれば、樹高約30m、中途から三枝になって洞があり、そこに水を湛えて「御手洗」と称していた。旱(ひでり)のとき、この水を汲みだして祈ると必ず雨が降るということで、村人から崇敬されたという。天文12年(1543年)、水戸城主・佐竹義照が社殿修営。寛永3年(1626年)、笠間城主・浅野長重が社殿を造営した(平成4年改築)。明治6年、村社に列格。同年に村内の「八幡神社」(文正元年(1466年)創建、祭神:誉田別尊)を合祀して「犬田神社」に改称した。現在の祭神は、経津主命、武甕槌命、息吹戸主命、誉田別尊。
ところで、永保3年(1083年)に源義家が陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して始まったのが「後三年の役(後三年合戦)」といわれる。この戦いは、朝廷からは私戦とみなされ、 寛治元年(1087年)には義家方が勝利したにもかかわらず、恩賞はなく、義家が陸奥守を解任される結果となっている。上記の義家の逸話は、少し時代がずれていることになるが、理由は何だろうか。因みに、当神社の南側に、その名も「犬田神社前遺跡」という遺跡があり、北関東自動車道建設に伴う発掘調査が平成14~15年に行われた。その結果、縄文時代中期、古墳時代中・後期、奈良・平安時代の住居跡や中世・近世にかけての堀・溝跡や墓壙跡などの複合遺跡であることが確認された。つまり、縄文時代の昔から集落があったということで、中世には豪族の館もあったらしい。出土物では、中世の鍍金された銅製観世音菩薩像 (高さ約10cm)などがあり、当時の信仰の一端も窺われる。源義家ではないにしても、古代末期~中世くらいの豪族・武将の信仰の場であったかもしれない。


茨城教育財団 発掘情報いばらきのHPから(犬田神社前遺跡)


写真1:「犬田神社」参道


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:境内の石祠


写真6:社殿背後のケヤキ大木の切り株


写真7:同上、説明版がある。


写真8:同上
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五大力堂(茨城県桜川市)

2024-06-22 23:31:10 | 寺院
五大力堂(ごだいりきどう)。
場所:茨城県桜川市池亀。茨城県道289号線(富谷稲田線)沿い「桜川警察署 小塩駐在所」付近から北東~北へ約850mで突き当り、右折(東へ)して狭い道路に入る。道なりに約300m進んで左折(北へ。「鹿島神社」の手前(西側))、約290mで左折(北西へ)して林道池亀線に入り約550m。駐車場あり。
当寺院(仏堂)の由緒について、現地の説明板には「五大力堂は平安時代、平将門の乱の際、俵藤太藤原秀郷が霊像5体を安置して将門討伐を祈ったが、討伐後は将門の善心を知りその霊を慰めたといわれています...」という簡単な説明しかないが、伝承では凡そ次の通りである。天慶3年(940年)に将門が討たれた後、将門方の武将・藤原玄明ら残党が当地・池亀の「一の谷」に立て籠もった。そこは自然の要塞のようなところで、秀郷も攻めあぐね、天台宗「月山寺」(前項)の末寺「五大力山 弥勒寺」(本尊:地蔵菩薩)の日乗上人に調伏を頼んだ。日乗上人は、山中から檜(ヒノキ)の大木を切り出し、自ら金剛吼菩薩、龍王吼菩薩、無畏十力吼菩薩、雷電吼菩薩、 無量力吼菩薩の五尊像を彫り上げ、三日三晩にわたり五大力修法を行った。すると、2日目から雨が降り出し、満願の夜には大雨が降って、一の谷に水が溢れて山津波が起こり、玄明軍を一気に押し流してしまった。一兵も損なわずに勝利できた秀郷が、改めて堂宇を造営して、名を「吉祥院」としたという。
当寺院の五大力菩薩像は、いずれもヒノキの寄木造りで、像高は中尊座像が135.5cm、4つの立像が154.1cm~167.1cm。 像の特徴から平安時代後期の作と推定されており、4つの立像のうち 右内側の像から治承2年(1178年)と書かれた墨書が見つかっているという。五大力菩薩像は鎮護国家思想と結びつきが深く、また怨敵調伏を願って造像するとされるが、その作例は少なく、特に平安時代の作品で5体揃っているのは、ここが全国で唯一で、茨城県指定文化財となっている。怨敵調伏を願って造られるというところから、将門討伐のためのものという伝承となったものと思われるが、治承2年(1178年)が作像時期なら、将門の乱からはかなり時代が下る。造り直されたものなのか、あるいは別の目的があったのか、謎が残るところである。なお、訪問時、五大力菩薩像は、本寺である「月山寺」の美術館で展示されていて、「五大力堂」は空っぽで残念だった(とはいえ、周りに何もないところで、無防備に文化財を置いておくのも問題あるだろうと思った。)。
蛇足1:藤原玄明という人物は、軍記物語「将門記」以外には史料に登場せず、詳細不明。「将門記」では、「民にとっては害悪」、「盗賊と同じ」などと悪評が連ねられており、常陸国の実質的なトップである常陸介・藤原維幾から逮捕の命令が出ているのに、行方・河内両郡の不動倉を略奪して、平将門の下に逃げた。将門が玄明を庇護したことで、元々は常陸平氏の一族間の争いだったのが、常陸国司との対立となり、国家への反逆(「平将門の乱」)まで至ったということになる。
蛇足2:「将門記」によれば、将門が関東を征圧して新皇を称したということが朝廷に伝えられ、京都の諸山(寺院)では邪悪を滅ぼす修法を行ったとされる。この中に「五大力尊」にも祈祷したことがみえる。ただし、これが五大力菩薩なのか、五大明王(不動明王、大威徳明王、降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王)なのかは明確でないという。


桜川市教育委員会のHPから(木造五大力菩薩像)


写真1:「五大力堂」


写真2:同上


写真3:堂に掛けられた絵馬など


写真4:「五大力 開祖壹千年記念碑」


写真5:五輪塔など
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曜光山 見明星悟道院 月山寺

2024-06-15 23:32:57 | 寺院
曜光山 見明星悟道院 月山寺(ようこうざん けんみょうじょうごどういん がっさんじ)。
場所:茨城県桜川市西小塙1677。国道50号線と茨城県道257号線(西小塙真岡線)の「羽黒」交差点から県道を北へ約650mで右折(北東へ)、約80m進むと正面が「月山寺」山門で、駐車場は右手(南東)にある。
寺伝によれば、延暦15年(796年)、法相宗の僧・徳一が中郡庄橋本(現・桜川市上城)に「月山寺」を創立し、その後、第13世まで法相宗寺院として存続した。その間、大治2年(1127年)に、橋本城主・豊前守谷中孫八郎将国が菩提寺とした。第13世・光栄が、天台宗「新御堂山 宗光寺」(長沼談議所)(現・栃木県真岡市)で修行後、応永28年(1421年)頃に現・桜川市磯部に移り、談議所(仏教の学問所、僧の養成所)を開設した。これは「月山寺談議所」あるいは「磯部神宮寺談議所」と呼ばれ、実質的に「磯部磯村明神」(「磯部稲村神社」(2019年12月14日記事))の神宮寺であったらしい。一方、「月山寺」の古跡・橋本村には「龍替山 番蔵院 今光寺」という大寺があり、中郡の地頭で吉所城主の庇護を受けていたが、永享2年(1430年)に取潰しとなったため、光栄が天台宗に改宗して「曜光寺」、後に「曜光山 見明星悟道院」と改称した。「曜光寺」は9代続くが、慶長7年(1602年)、中興とされる恵賢が徳川家康から磯部に朱印地10石を拝領して、翌年、磯部に移った。元和元年(1615年)、恵賢は50石を加増されて、西小塙に移るが、このとき「月山寺談議所」と「曜光寺」を合寺して「曜光山 見明星悟道院 月山寺」と改め、関東檀林寺となった(檀林は談議所と同義だが、江戸時代には「檀林寺院」として幕府から指定された。)。なお、関東の天台宗の檀林は江戸中期頃までに整備され、有力寺院として関東八ヶ檀林の1つとされた(現・茨城県内では、江戸崎「不動尊院」(2022年6月18日記事)、小野「逢善寺」(2022年5月28日記事)、水戸「薬王院」(2019年12月21日記事)がある。)。なお、恵賢は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」に祈祷僧として天海(慈眼大師)と共に出陣し、慶長19年(1614年)の「大阪冬の陣」には天海と共に和睦の使者に立ったとされ、当寺院の隆盛は、天海と恵賢の関係によるところが大きかったと考えられる。寛永3年(1626年)に焼失したが、笠間藩主・浅野氏の寄進により再建された(因みに、笠間藩8万石に対し、当寺院の格式は10万石とされて、笠間藩より上だったという。)。江戸時代末には、末寺4ヵ寺・門徒29ヵ寺を有する大寺であった。明治時代に入ると、徳川幕府と関係が深かった関東の天台宗の大寺院ほど、朱印地没収や各種の特権剥奪などにより大きな影響を受けたが、当寺院は檀林寺院でありながら檀家が約500軒あったことも幸いし、寺院の近代化を進めて再興できたという。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師瑠璃光如来(鎌倉時代の作で、茨城県指定文化財)。「東国花の寺百ヶ寺」の第55番。境内に「月山寺美術館」があり、国指定文化財の網代笈(室町時代)、茨城県指定文化財の木造五大力菩薩像(平安時代の作で、平将門調伏のために製作されたとの伝承がある。末寺「吉祥院」蔵の寄託)など、多数の美術品・工芸品等を展示している。
蛇足1:伝説(民話)では、次のような話がある。文明17年(1485年)、天台宗に改宗後の第3世・光順のとき、1人の修行僧が来て、夜遅くまで対談していたが寝入ってしまい、光順が錫杖で起こしたところ、「自分はタヌキだが、変身の術を体得した。住職の法話を聴いて得るところがあったのに、寝入ってしまったのは不覚だった。今後、寺を守護するが、錫杖は嫌いなので禁止してほしい。」と言って、消えた。その後、境内で錫杖を振る者があると、火事や盗難などが起こるので、「禁於境内錫杖振事」という制札を立てたという。
蛇足2:院号の「見明星悟道」であるが、これは、臘月(旧暦12月)月8日、釈迦(ゴータマ・シッダルタ)が、東天に輝く暁の明星を一見した瞬間に悟りを開いたという故事に因むもので、この日を釈尊成道の日として、特に禅宗寺院で「成道会(じょうどうえ)」という法要が行われる。


天台宗 月山寺のHP


写真1:「月山寺」寺号標。左側に「天台宗 月山寺」。


写真2:同上、右側に「曜光山 見明星悟道院」。こちらは隣家の壁が迫っていて、見えにくい。


写真3:山門


写真4:山門を入って、左側に庭園がある。


写真5:本堂


写真6:同上


写真7:客殿


写真8:月山寺美術館


写真9:日枝山王社


写真10:布袋堂


写真11:同上、布袋像


写真12:鐘楼。梵鐘は徳川家康から拝領。

写真13:千手堂
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五所駒瀧神社

2024-06-08 23:34:33 | 神社
五所駒瀧神社(ごしょこまがたきじんじゃ)。
場所:茨城県桜川市真壁町山尾499。茨城県道7号線(石岡筑西線)と同41号線(つくば益子線)の「真壁消防署前」交差点から7号線を東に850mで「五社駒瀧神社入口」の案内柱がある。ただし、こちらは裏参道で、入口が狭くて急坂を下りるので、少し怖い。表参道へは、道順が分かりにくいが、「真壁消防署前」交差点から41号線を南に約130mで左折(東へ)、約270mで右折(南へ)、約110mで左折(東へ)、約450mで一の鳥居前に着く。駐車場有り。
社伝等によれば、長和3年(1014年)、「真壁富士権現山」(標高396m)の山中に一条の滝があり、村人らが五穀豊穣を願って滝の近くに祠を立てたのが創祀という。 この滝には馬がたびたび現れたことから「駒ヶ滝」、この祠も「駒瀧明神」と呼ばれるようになった。承安2年(1172年)、初代真壁城主・真壁長幹の一族・桜井太郎良幹が常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神・武甕槌大神の分霊を勧請し、真壁城の辰巳の方位(南東)に当たる現在地に社殿を造営、以後、真壁氏の氏神として崇敬されるようになった。江戸時代には、幕府より社領5石を受け、笠間藩主の祈願所として春と秋2度の祭儀を執行したという。明治6年、村内の「天満神社」、「飯綱神社」、「富士神社」、「日吉神社」の4社を合祀し、「五所駒瀧神社」と改称した。現在の祭神は武甕槌大神、大山咋神、猿田彦神、木花開耶姫神、菅原道真公。
なお、国選択無形民俗文化財に指定された「五所駒瀧神社の祭事」、通称「真壁祇園祭」は、真壁町内への神輿渡御、山車巡行などが行われる。厄除けの行事だが、京都「八坂神社」の祇園祭とはルーツの違う祭礼で、独自の伝統を有しているという。また、「かったて祭」という祭礼もある。これは、多くの氏子らが灯した松明を持って神社の背後にある「権現山(真壁富士)」の山頂まで登り、山の神様(「真壁富士権現」)に神火を奉納するというもの。平安時代、平将門が近くの湯袋峠の合戦で勝利したことから始められたとの伝承がある。「かったて」という名も、「合戦に勝った」ということに因むともされている。
蛇足:当神社の創建について、次のような伝説がある。常陸平氏の嫡宗家で常陸大掾、多気城主・多気(大掾)致幹の奥方が、ある夜の夢に老翁と老媼が現れ、「我々は筑波、加波といい、祖父母に当たる。」と告げられ、懐妊の示唆を受けた。その後、めでたく男児が生まれて長寿丸と名付けられ、祝宴が続いたが、七夜目に突然、長寿丸の姿が見えなくなった。家臣一同大騒ぎとなり、八方を探したが見つからなかった。その後、真壁の東の山中に、金襴の衣に包まれた幼児がいるとの噂が立った。魔性の者ではあるまいかと、樵(きこり)たちも近づけないでいたが、多気家の家臣たちが見に行くと、正しく長寿丸で、2頭の鹿が守っていた。近くに仮屋を建て、長寿丸に産湯を使わせた。これが湯袋山(峠)の名の由来である。また、近くに二丈(約6m)もの大きな滝があり、「馬来、馬来」という音がした。まもなく2頭の馬が現れ、仮屋の前に跪いた。このことを聞いた致幹が滝のほとりに宮社を建立し、「駒下瀧の明神」と称した。2頭の馬は朝廷に献上され、その由来を聞いた帝は長寿丸に、筑波山と加波山の間にある真壁郡を領地として賜った。この長寿丸というのが、初代・真壁城主の真壁長幹である。なお、以来、真壁城では鹿の肉を食べないという(言うまでもないが、鹿は「鹿島神宮」の祭神・武甕槌大神の神使である。)。この伝説は、江戸時代の元禄12年(1699年)、真壁充幹(真壁氏第22代当主、佐竹家家臣)によって書き残された「当家万覚書」による(ただし、桜井崇・鈴木常光著「真壁町の祇園祭」の孫引きで、かなり省略した。)。なお、史実では、真壁長幹は多気致幹の子・直幹の四男に当たる。因みに、直幹の妻は房総平氏の千葉介常胤の娘といわれ、長子・義幹が多気氏を継ぎ、他の3子は分家として下妻氏、東條氏、真壁氏となったとされる。


茨城県神社庁のHPから(五所駒瀧神社)

桜川市観光協会のHPから(五所駒瀧神社)

同(かったて祭)


写真1:「五所駒瀧神社」一の鳥居、社号標「祈願所 五所神社」


写真2:「駒啼石」。平たい石の左上のところに丸く浅い窪みがある。これが馬の踏みつけた跡だという。


写真3:二の鳥居


写真4:三の鳥居


写真5:狛犬。とても良い表情。


写真6:社殿


写真7:北側参道にある「景勝地 五所駒瀧神社」石碑


写真8:北側参道の鳥居。傍に川が流れている。
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真壁城跡

2024-06-01 23:33:38 | 史跡・文化財
真壁城跡(まかべじょうあと)。
場所:茨城県桜川市真壁町古城377(「桜川市立真壁体育館」の住所)。茨城県道41号線(つくば益子線)「古城」交差点から北へ約120m、右側(東側)に「真壁体育館」駐車場への入口がある。「真壁体育館」のある場所が「真壁城」本丸跡とされる。
「真壁城跡」は、平安時代末から戦国時代にかけて常陸国真壁郡周辺を支配した真壁氏の居城(中世城館)跡とされる。常陸平氏の惣領家・多気氏の祖とされる多気直幹の四男・長幹が承安2年(1172年)に真壁郡の郡司となり、真壁氏を名乗った。長幹が源頼朝に臣従して御家人となった後、南北朝時代には、真壁氏は最初に南朝方、後に北朝方について、室町幕府の御家人(京都扶持衆)となったが、応永30年(1423年)、大掾氏の一族である小栗氏の反乱に加担したとして「真壁城」は落城、第11代城主・秀幹は戦死した。永享8年(1436年)、庶子家出身の朝幹が所領を回復し、家督を承継した(第13代)。戦国時代には佐竹氏の家臣となっていたため、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国秋田に移封となると、これに第19代・房幹らが随行し、「真壁城」は空城となった。その後、浅野氏が城主となったが、真壁を領有したまま「笠間城」(現・茨城県笠間市)に移ったため、「真壁城」は廃城になったとされる(なお、笠間藩の陣屋は旧・真壁町市街地にあった。)。
昭和56年以降の発掘調査の結果、「真壁城跡」は15世紀中頃(室町時代後半)に方形の館が築かれ、その後の改変を経て、現在の遺構は16世紀後半(戦国時代~安土桃山時代)頃のものとされている。土塁や堀跡などが良好に残っていることから、昭和9年に茨城県指定史跡、平成6年に国指定史跡となった。
さて、伝承によれば、「真壁城」は、真壁長幹が真壁郡司になったとき、「真壁郡家(郡衙)」の場所に築城したのが最初、といわれている。ただし、「真壁城跡」の発掘調査では、15世紀前葉以前の遺構は出土していない。一方で、少なくとも奈良時代~平安時代初期の白壁郡(延暦4年(785年)に真壁郡に改称)の郡家は現・桜川市真壁町下谷貝の「下谷貝長者池遺跡(谷貝廃寺跡)」(前項)付近にあったという説が有力である。そうすると、「真壁郡家」は「真壁城跡」付近に移転したのか(もちろん、最初から「真壁城跡」付近にあったとする説もある。)、移転したとするなら、いつ移転したのか、なぜ移転したのか、という問題も出てくるが、そのあたりの解明は今のところ難しそうである。


桜川市観光協会のHPから(国史跡 真壁城跡)


写真1:「国指定史跡 真壁城跡」石碑。本丸跡とされる「真壁体育館」の駐車場にある。


写真2:「真壁城跡」説明版。この奥が二の丸方面。さらに奥には中城、外曲輪などがあったとされる。お城好き(マニア)なら、いろいろ蘊蓄があるのだろうが、このブログではスルー(申し訳ない。)。


写真3:「真壁体育館」と駐車場


写真4:「子育稲荷神社」鳥居。境内は、本丸跡の北側、本丸搦手虎口に当たる。


写真5:同上、社殿。「真壁城」廃城の後の創建という。


写真6:「史蹟 真壁城址」石碑。昭和10年建立。「子育稲荷神社」社殿の近くにある。
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