神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

飯沼山 圓福寺

2014-05-31 23:40:23 | 寺院
飯沼山 圓福寺(いいぬまさん えんぷくじ)。通称:飯沼観音または銚子観音。
場所:千葉県銚子市馬場町293(本坊)。JR「銚子」駅の東、約1.2km。本坊と本堂(観音堂)が少し離れており、県道244号線(外川港線)「馬場町」交差点から北へ進めば「本堂」、南に少し進めば「本坊」がある。いずれにも駐車場有り。なお、銚子電鉄「観音」駅からは「本坊」のほうが近く、駅から北へ徒歩2~3分。
寺伝によれば、創建は神亀5年(728年)。海が光るのが見え、浦人が怪しんでいるうち、ある漁夫の夢にお告げがあり、網を引いたところ十一面観世音菩薩像が引き上げられた。このとき、空から米が降るという奇瑞があったことから、この辺りの地名が「飯沼」となったという。この漁夫が出家して観音像を祀ったのが初めで、弘仁年間(810~824年)に弘法大師(空海)が当地を訪れた際、「海上長者」と称される土地の有力豪族の寄進を得て伽藍を整備したとされる(このため、弘法大師開山とする。)。鎌倉時代以降は海上氏の庇護を受け、坂東三十三観音霊場の第27番札所とされ、江戸時代には本坊のほか寺内に10院を有し、寺域は約5千6百坪に及んだという。現・銚子市は「ほととぎす 銚子は国の とっぱづれ」(江戸時代の俳人・古帳庵の句)といわれ、関東最東端の犬吠埼は(山頂・離島を除けば)日本で最も早く初日の出を見ることができることで有名。坂東三十三観音の第26番札所は現・茨城県土浦市の「南明山 慈眼院 清滝寺」で、当寺からは直線距離でも約80km離れており、次の第28番札所の「滑河山 龍正院」(現・千葉間成田市、2014年2月1日記事)へも直線距離で約50km離れている。このため、巡礼者、あるいは江戸からの参拝者も当地で必ず宿泊することとなり、現・銚子市は当寺の門前町としても栄えることになったようだ。残念ながら、江戸時代までの諸堂は昭和20年の「銚子大空襲」で焼失、現在の本堂等は昭和46年に再建されたものである。
なお、本堂の隣に鎮座する「銚港神社」は、古くは「龍蔵権現」(または「龍造権現」)と称し、「飯沼観音」と神仏混淆の状態で信仰されていた。創建時期は不明だが、「銚子」発祥の祖神であるとして、養老年間(717~723年)の創建ともされる。江戸時代から漁業・魚問屋などの関係者からの崇敬も篤く、明治2年には神仏分離により「銚港神社」と改称した。主祭神は闇淤加美神(クラオカミ)であるが、これは「龍蔵権現」の「龍」を水神とみて、神仏分離時に祭神としたものと思われる。因みに、現・奈良県桜井市の真言宗豊山派総本山「長谷寺(豊山 神楽院 長谷寺)」の本尊は十一面観音で、一説に、当寺の本尊は「長谷寺」本尊と同木であるともいう。そして、この「長谷寺」を守護する地主神とされるのが「瀧蔵神社(瀧蔵権現)」である。そういえば、坂東三十三観音霊場の第29番札所「海上山 千葉寺」の本尊も十一面観音で、境内に「瀧蔵神社」が鎮座していた(2012年4月21日記事参照)。「円福寺」や「銚港神社」の実際の創建時期はわからないが、ある時代に、こうした観音信仰を有する真言宗寺院のネットワークの中で現在のような形が生み出され、定着していったのだと思われる。蛇足ながら、奈良「瀧蔵神社」の祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・速玉命だが、千葉市の「瀧蔵神社」の祭神は海津見尊だそうで、それぞれ異なる。管見ながら、長い神仏混淆により本来の祭神が忘れられた結果なのではないか、と考える。


「真言宗 飯沼山 圓福寺」のHP

「坂東三十三観音霊場」のHPから(円福寺へ御来山歓迎)


写真1:「圓福寺」仁王門


写真2:同上、本堂(観音堂)。本尊は十一面観世音菩薩。


写真3:本堂隣(というか、同じ境内)に鎮座する「銚港神社」(住所:千葉県銚子市馬場町1-1)。社号標と社殿の扁額の文字は再建(昭和32年)当時の内閣総理大臣・吉田茂の揮毫であるという。


写真4:「圓福寺」大師堂。本坊側にある。
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東大神

2014-05-24 23:31:14 | 神社
東大神(とうだいじん)。東大社(とうだいしゃ)ともいう。
場所:千葉県香取郡東庄町宮本406。JR成田線「下総橘」駅の南西、約2km。県道267号線(下総橘停車場東城線)沿いにあるが、そちらは神社の裏手に当たる。駐車場有り。
社伝によれば、創建は景行天皇53年(123年?)。景行天皇が日本武尊の歴戦の跡を尋ねて東国に行幸したとき、当神社裏の白幡という地に船で上陸し、7日の滞在の後、東海の鎮護として創建されたという。主祭神は玉依姫命(タマヨリヒメ)で、相殿にその夫君の鵜葺草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を祀る。創建当時は、「東宮」、「八尾社」と称したというが、下海上郡の総社として康和4年(1102年)に堀河天皇から「総社玉子大明神(そうじゃおうじだいみょうじん)」の号を受けたとされる。現在では「東大神」、「東大社」共に正式名称として使用されるほか、地元では「オオジン様」と通称されているという。因みに、千葉県宗教法人名簿、千葉県神社庁HPではともに「東大神」となっている。東総地区では「~神社」ではなく、「~大神」という名の神社が他にも多く、当神社だけが特別ではない。
さて、当神社の裏(北側)、県道を越えたところに「雲井岬」という場所があり、かつては当神社の神苑であったというが、現在は「雲井岬公園」として整備され、ツツジの名所となっている。「岬」というのは、ここが古代には海に突き出した岬であったとされるためで、現在も西側が谷になっていて、水があれば入江のような地形である。その入江の、岬の向かい側に小さな鳥居と石祠(「白旗宮」)があり、ここが上記の「白幡」という場所らしい。景行天皇が船で着き、行宮を設けた際に、土地の乙女が織った白布を玉座に敷いたので「白幡の郷」、あるいは「幡敷の郷」と呼ばれるようになったという。
なお、当神社では、香取市貝塚の「豊玉姫神社」(前項「良文貝塚」参照)、旭市見広の「雷神社」と合同で、20年毎に銚子市の外川港へ神輿渡御する式年大神幸祭が行われている(片道約30km!)。これは、康和4年(1102年)に海上郡高見浦(現在の銚子市の外川港町付近)の海上が大荒れとなって治まらず、土地の人々が非常に困窮した。そこで、海上郡総社であった当神社に朝廷より宣旨があり、臨時に祭礼を行ったところ、海が静まり陸上では大豊作になったとされるのを記念して始まったという。「玉子大明神」の称号を受けたのは、このときの功績によるもので、地元の人々は式年大神幸祭(通称「オオジン様のオオミユキ」)を何回拝んだかを長生きの尺度として自慢の種となっているという。


千葉県神社庁のHPから(東大神)

「ちばの観光まるごと紹介」のHPから(雲井岬つつじまつり)

同(式年三社銚子大神幸祭)


写真1:「東大社」正面鳥居。社号標は「東海鎮護 東大社」となっている。


写真2:社殿


写真3:同上。社殿も境内も良く手入れがされている。


写真4:「白旗宮」。当神社の裏手(北側)に数軒の住宅があるが、その西側の畑と雑木林の間を北へ約150mのところにある。ここが景行天皇が上陸した「白幡」という場所らしい。
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良文貝塚

2014-05-17 23:59:01 | 史跡・文化財
良文貝塚(よしぶみかいづか)。
場所:千葉県香取市貝塚。県道265号線(小見川海上線)を小見川南小学校から南東へ約1.2km、「国指定史跡 縄文貝層」という案内板のあるところで狭い道路に約100m入る。駐車場なし。
「良文貝塚」は、利根川下流域で最大級の貝塚群で、標高40~50mの台地上の広い範囲に分布している。中には3mも堆積した貝層もあり、学術的価値が高いとして、昭和5年、貝塚としては千葉県内で初めて国の史跡に指定された。「良文」というのは、当地が「良文村」であった(明治22年~昭和30年)からで、晩年、この辺りに住んでいたという平良文に因む(前項「夕顔観音塚(伝平良文墓)」参照)。ハマグリ・アサリ等の貝類のほか、サメ・タイ等の魚類、サル・イノシシ等の哺乳類の骨、土器・貝輪等が出土している。中でも、国内でも類例が少ない香炉形顔面付土器が注目される。その名の通り、人面の装飾の付いた土器で、仏具の香炉に似た形をしているが、香炉として使われたかどうかはわからない。ただ、呪術的な意味が感じられ、祭祀用のものであるとみられている。これが貝塚にあったということは、貝塚が単なるゴミ捨て場ではなく、何か神聖な意味のある場所だったのかもしれない。
なお、「良文貝塚」のすぐ近くに「豊玉姫神社」が鎮座している(住所:千葉県香取市貝塚117-1、駐車スペースあり。)。当神社は、社伝によれば、日本武尊が東征の際、海上安全を祈願して、この地に創始されたという。あるいは、景行天皇が日本武尊の戦跡を偲んで当地を訪れた際に創建されたともいう。往古は当地海上郡編玉郷の総社として「編玉総社大宮大明神」、中世には「新宮大明神」とも称され、明治5年に現在の「豊玉姫神社」となった。主祭神の豊玉姫命は、海神である綿津見神(ワタツミ)の娘で、山幸彦こと火遠理命(ホオリ)と結婚し、鵜茅不合葺命(ウガヤフキアエズ)を産む。この出産のとき、八尋和邇(やひろわに:サメ?)または龍の姿となったとされる。鵜茅不合葺命の子が神武天皇であるから、豊玉姫命は天皇家の直接の祖先に当たる。そういう意味では、海神の一族でもあり、天皇家の祖神でもあることになり、日本武尊あるいは景行天皇が祀る理由があることになる。なお、上記の「良文貝塚」から出土した「香炉形顔面土器」は、「香取市貝塚史跡保存会」の所有となっているが、当神社に保管されており、毎年「文化の日」から2日間公開されているとのこと。
現在、当地から海(太平洋)までは直線距離で少なくとも11kmは離れている(北東方面)が、古代には東に「香取海」という内海が広がっていたといい、あるいは当地の傍まで海岸線が迫っていたのかもしれない。


香取市のHPから(良文貝塚)


写真1:「史跡 良文村貝塚」の石碑


写真2:石碑の向かい側にある貝層見学施設


写真3:県道沿いにある「豊玉姫神社」の石造鳥居と社号標。写真には写っていないが、向って左手に「良文貝塚」の説明板が設置されている。神社の境内はこの先、約250m。


写真4:「豊玉姫神社」木造の鳥居


写真5:同上、社殿
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夕顔観音塚(伝平良文墓)

2014-05-10 23:27:41 | 古墳
夕顔観音塚(伝平良文墓)(ゆうがおかんのんづか(でんたいらのよしぶみはか))。
場所:千葉県香取市阿玉台字千堂。県道265号線(小見川海上線)沿いの小見川南小学校の角を西へ、約200m。小学校の石垣の端付近に「阿玉台遺跡」の案内板があり、そこから徒歩、数分。駐車場なし。
「夕顔観音塚」は中世~近世の塚で、平安時代中期の武将・平良文(仁和2年(886年)?~天暦6年(952年)?)の墓所との伝承がある。平良文は、臣籍降下した高望王(平高望)の五男で、関東に下って武蔵国村岡(現・埼玉県熊谷市)または相模国村岡(現・神奈川県藤沢市)に住んで村岡五郎と称した。鎮守府将軍として陸奥国・胆沢城(現・岩手県奥州市)に赴くなどしたが、晩年には下総国阿玉郡(現・千葉県香取市)に移り、同地で亡くなったという。良文は、上総氏・秩父氏・千葉氏など坂東八平氏と呼ばれる多くの支族の祖となり、関東地方に広く勢力を張った。なお、承平天慶の乱の際には、平将門の味方をしたのか敵だったのか不明(あるいは、まだ陸奥国に居たのかもしれない。)というが、乱平定後、将門の遺領である下総国相馬郡を継承している。
さて、平良文が晩年に当地に移り住んだというのは伝承であって、確証はないらしい(通説では、墓所は、現・神奈川県藤沢市渡内にある浄土宗「戒法山 宝国院 二伝寺」にある塚がそれであるとされる。)。「「阿玉台貝塚」・「夕顔観音塚」の北側(現在、「芳源ファーム有限会社 パッキングセンター」という会社のある辺り)に「伝平良文館跡」といわれる遺跡があり、昭和50年の発掘調査では、二重空堀・土塁・物見台といった城郭遺構が検出されたという(現状、遺跡らしいものは何も見当たらない。)。平安時代中期頃の住居跡や貯蔵穴の遺構も発掘されたといい、良文の館跡かどうかは不明だが、全く可能性が無い訳ではないらしい。
ところで、「伝平良文墓」を何故、「夕顔観音塚」というのか。それは、次のような伝承による。即ち、晩年、良文は夕顔(ユウガオ)の花を愛し、死に際しては子の忠頼に「我に会いたければ、畑に生えし夕顔の実を開けよ」と遺言した。忠頼が畑の大きな夕顔の実を割ったところ、中から観音像が出てきた、という。因みに、良文の法名は「夕顔観音大士」というのだとか。また、後に、亥鼻城を築いた千葉常重の夢枕に「この夕顔観音を本尊として祀れ」とのお告げがあり、大治年中(1126~1131年)、堂宇を建立した。これが現在の臨済宗妙心寺派「白華山 樹林寺」で、元は真言宗だったが、貞和年間(1345~1349年)に覚源禅師を開山として臨済宗に改宗したという。本尊の「夕顔観音」は千手観世音菩薩であるというが、秘仏で、見ることはできない。なお、夕顔の果実を紐状に剥いて干したものが干瓢(かんぴょう)であり、当地では干瓢を食べない、という。

※ 本来であれば「阿玉台貝塚」が国指定史跡であることから、そちらをタイトルにすべきかもしれないが、縄文時代にはあまり興味がない。一方、平良文は千葉氏の祖とされる人物であり、伝承も面白いので、「夕顔観音塚」を中心に取り上げた。


香取市商工観光課のHPから(阿玉台貝塚)


写真1:「国指定史跡阿玉台貝塚」の石碑。「夕顔観音塚」へは、この碑の後ろの木道を下っていくのだが、最初に訪問したときは夏草が生い茂って木道が全く見えない状態だった。実は、「夕顔観音塚」に向う途中は梅林になっていて、梅の花の時期は賑わうが、夏場は放置されているようである。


写真2:「夕顔観音塚」。台地の斜面に造られた方形の塚


写真3:同上。「夕顔観世音菩薩」と刻された石塔が建てられている。


写真4:「樹林寺」本堂(場所:千葉県香取市五郷内2063。県道265号線沿い、小見川南小学校の北西、約900m。駐車場有り)


写真5:同上。手水舎の水盤の横にある丸い石は「子持石」といい、浄水を掛けると子宝に恵まれたり、イボ等が取れたりする御利益があるという。なお、水盤に刻された紋は千葉氏の家紋である「月星」


写真6:同上。境内の「四季桜」


写真7:同上、こちらに訪問したのは11月。花いっぱいというわけではないが、可憐な花が咲いていた。
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府馬の大クス

2014-05-03 23:26:02 | 巨樹
府馬の大クス(ふまのおおくす)。
場所:千葉県香取市府馬2395(「宇賀神社」境内)。県道28号線(旭小見川線)から、府馬郵便局の南東約300mのところ(「府馬の大クス」の案内板あり)で左折(北へ)、約500m。駐車場有り。途中の道路が狭いので注意。なお、台地の北側の道路沿いに立派な駐車場もある(ただし、「府馬の大クス」までは徒歩で、かなり登る。)。
「府馬の大クス」は、樹高約20m、幹周り約12m、根周り約27.5mというタブノキ(椨)の巨樹で、樹齢は1300年~1500年とされる。昭和63年の環境庁による調査では、全国第3位の大きさという。大正15年に「府馬の大クス」として国の天然記念物に指定されたが、昭和44年の調査でクスノキ(楠)ではなく、タブノキであることが判明した。もっとも、タブノキはクスノキ科に属し、俗に「イヌグス」、「タマグス」とも呼ばれることから、強ち誤りとも言えないだろう。
「府馬の大クス」がある「宇賀神社」は、社伝によれば宝亀4年(773年)に宇気母知神を勧請したのを創始とする。「ウケモチ」の神は、一般に「保食神」と書き、食物神である「大宜都比売神(オオゲツヒメ)」または「宇迦之御魂神(ウカノミタマ)」と同一視される。普通は「稲荷神社」であることが多いが、牛馬の神として「駒形神社」とされることもある。台地上の路傍にあることから、ひょっとしたら元は馬の神だったかもしれない。一帯は中世(14世紀初め頃?)、府馬氏が「府馬城」を築いたところとされるが、本体は西~西北の細長い台地で、「宇賀神社」・「府馬の大クス」のある辺りはその出城(「山ノ下城」とも称する。)であったともいう(「宇賀神社」の裏手の広場は、武士団が勝どきの声を上げる「鬨の台(ときのだい)」ともいったとのこと。)。

※ 当地を訪問したのは平成24年10月で、平成25年10月の台風26年により「府馬の大クス」は東側の幹が倒れる等の大きな被害を受けたとのこと。何とか樹勢回復してほしいと切に願います。


香取市商工観光課のHPから(府馬の大クス)


写真1:「宇賀神社」鳥居


写真2:「府馬の大クス」


写真3:同上。「天然記念物 府馬之大楠」の石碑が建てられている。


写真4:同上


写真5:「宇賀神社」社殿


写真6:「宇賀神社」の背後は公園になっていて、展望台が設置されている。北東側(茨城県鹿嶋市方面)を見る。
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