神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

紅龍山 布施弁天 東海寺

2013-06-29 23:10:52 | 寺院
紅龍山 布施弁天 東海寺(こうりゅうさん ふせべんてん とうかいじ)。
場所:千葉県柏市布施1738。国道7号線「台田」交差点から県道を北に進み、柏警察署富勢駐在所のある交差点から東北へ約1200m。駐車場有り。
寺伝によれば、当寺の創建は次のように伝えられている。即ち、大同2年(807年)、激しい雷雨のなかに赤い龍が現れて、手に持った土塊で島を造ったが、その島からは毎夜不思議な光が放たれていた。村人の夢に天女が現れ、「私は、但馬国朝来郡筒江郷から来た。私を探して祀れ。」というお告げがあった。その村人が光を辿っていくと、そこに三寸程の弁財天の尊像があったので、藁葺の小祠を建てて祀った。後に、弘法大師(空海)が当地を訪れたとき、この弁財天像こそ、弘法大師が但馬国で自刻したものとわかった。弘仁14年(823年)、この話に聞いた嵯峨天皇が感嘆し、堂塔伽藍を整備して勅願所に定められた、という。現在は、真言宗豊山派の寺院で、本尊は弁財天。通称「布施弁天」と呼ばれ、東京・上野「寛永寺」の「不忍池の弁天」、神奈川・江ノ島の「江島神社」の「江島弁天」とともに関東三弁天の1つとされる。
さて、古代東海道の「茜津」駅の想定地は現・柏市藤心付近が有力説であるが、現・柏市北柏付近とする説もある。いずれにせよ、古代東海道は北柏付近から転進して我孫子市の台地上を東に進んだと見られている。ただし、(本路ではないにしろ)北柏付近から北に進むルートもあったのではないかという説もあり、その根拠の1つが当寺の存在である。弘法大師(空海)が絡む創建伝説は、もちろん信じるに足りないが、かなり古い由緒を有することは確かだろう。それよりも寧ろ、「布施」という地名が、ここに「布施屋」(旅行者の救護等を行う施設)があり、当寺がその「布施屋」を維持していたのではないかと考えられたことによる。古代の当地の地形は確実にはわからないが、おそらく、鬼怒川が「香取海」に流れ込む河口付近にあり、河畔に突き出した小丘だったのではないかと思われる。
なお、江戸時代の享保(1716年~)頃以降、当寺は江戸などからの参拝客で賑わい、筑波方面に向う経由地としても栄えたという。


紅竜山 布施弁天 東海寺のHP


写真1:「東海寺」の楼門の南、約60mのところに石の鳥居が建てられている。


写真2:「東海寺」。境内は「亀の甲山」という小丘の上にある。正面入口の楼門は「最勝閣」と名づけられ、1階に四天王像、2階に釈迦三尊像が安置されている。


写真3:本堂


写真4:鐘楼。八角形の基壇に円形の縁、十二角形に配置された柱という凝った造り


写真5:寺の裏側(北側)には田が広がり、どの先に利根川の土手がある。利根川に架かる新利根大橋が見えているが、その橋の袂辺りに、江戸時代には渡し場(「七里ヶ渡し」)があった。
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三郡境の不動様

2013-06-22 23:25:34 | 史跡・文化財
三郡境の不動様(さんぐんさかいのふどうさま)。松ヶ崎不動尊ともいう。
場所:千葉県柏市松ヶ崎。国道6号線「北柏入口」交差点の東側で市道に下り、直ぐ左折(北へ)、約300m。駐車場なし。
古代東海道の「茜津」駅は、「柏市史」等により千葉県柏市藤心付近と推定され、それが殆ど通説化しているが、発掘調査で確認されたわけではない。「津」の字が付いているので港(船着場)があったのだろうと考えられ、舟で行く場合もあったとされるが、本路は陸路によったものと思われる。そうしたとき、個人的には、「茜津」駅は現在の柏市北柏付近にあったという説に魅力を感じている。
JR常磐線「北柏」駅の北西、約600mに「三郡境の不動様」というところがある。元は不動堂があり、不動明王像が祀られていたらしいが、平成8年に火災で焼失してしまったという。今は手洗石が置かれているだけだが、葛飾郡・相馬郡・印旛郡の3つの郡境にあったということから、その名が付いたらしい。ここは、かつて手賀沼の西に張り出した舌状台地で、戦国時代には城(館)があり、一般に「松ヶ崎城」と呼ばれる場所で、「三郡境の不動様」は城の南腰曲輪だったところらしい。その近くには有名な湧水があったほか、台地上には古墳が3基(最も大きいものは城の物見台に転用されたらしい。)、平安時代の住居跡等が出土したという。
この付近に古代東海道「茜津」駅があったとする根拠として、①古代東海道など古代の官道はしばしば郡境となっていたこと、②ここから古代東海道は東に向う屈曲点であること、③かつて手賀沼(古代には「香取海」の一部)に面していたこと、④古墳や古代の住居跡などが出土していること等が挙げられる。もちろん、決め手はないが、結構面白い説ではないかと思う.


「手賀沼と松ヶ崎城の歴史を考える会」さんのHP


写真1:「三郡境の不動様」(跡)


写真2:松ヶ崎の湧水。かつては水垢離場でもあったようだ。開発によって樹木が伐採されてしまったため、水が枯れてしまったらしい。


写真3:台地上の松ヶ崎城址。整備中
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下総国の古代東海道(その4・茜津駅)

2013-06-15 23:47:16 | 古道
延喜式に記された古代東海道(本路)は、下総国府の付属駅かともされる「井上」駅から常陸国符(現・茨城県石岡市)に向かう。当初の古代東海道は、相模国の現・神奈川県横須賀市の観音崎付近から海を渡って上総国(上陸地は不明だが、対岸なら現・千葉県富津市の磯根崎付近?)に行き、そこから北上するルートだったとされている。その後、武蔵国から下総国符を経て、常陸国府に向うルートに変更されたわけだが、ここから、①当初の古代東海道の駅路は必ずしも国府を結ぶものではなかったこと、②国府間を結ぶ道路(伝路)も別途あり、下総国と常陸国を結ぶ官道は後に伝路が駅路に転用されたことがわかる。
さて、井上駅・下総国府から常陸国に向うルートであるが、具体的には不明。発掘調査により、下総国府推定地(千葉県市川市国府台の国府台公園付近)の北で古代の道路跡が見つかっている。市川市新山遺跡(市川市国府台6丁目、化学療法研究所付属病院内)と呼ばれるが、側溝を持たない幅約4mの道路跡で、伝路を駅路に転用したため道路幅が狭いものとみられている。現在の県道1号線(市川松戸線)は、国府台団地の下から「国府台公園」入口に向って北北東に進み、そこから北北西に向かうが、古代東海道はおそらく現・和洋女子大構内から「法皇塚古墳」の横を通って真っ直ぐ北へ進み、国府台小学校の西側を通ったものと思われる。その先に「市川市新山遺跡」があり、更にその先は松戸市と市川市の市境となっている直線的な道路が続く。そこから自然に東北に進路を変えるが、松戸市の二十世紀が丘の住宅地にぶつかって、いったん道路は途絶える。しかし、地図で見ると、国道464号線「美野里」交差点付近から再び東北に向う道路がある。その先は、新京成電鉄「みのり台」駅、同「八柱」駅付近を通って、県道51号線(市川柏線)を経て直進すれば、東武野田線「逆井」駅があり、その線路を越えたところが柏市藤心で、ここが「柏市史」が推定する「茜津」駅となる。ただし、発掘調査等によって確認されたものではなく、道路の道形(みちなり)と標準的な駅間距離をもって推定したものとされる。なお、柏市藤心付近は台地の端で、その先は手賀沼から発する大津川が流れており、古代には「香取海」の「津」(船着場)だったのだろうというのも推定の一因。
「茜津」といっても、ここから水路で行ったということではないらしい。とすれば、県道51号線を更に北に進んだ増尾付近(中世の増尾城があった。)、あるいは日立柏サッカー場付近(その東側は「あかね町」である。)も候補地ではないだろうか。


写真1:中世の増尾城は現在「増尾城址公園」になっている。柏市藤心付近には何もないので・・・



写真2:同上、案内板
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下総国の古代東海道(その3・井上駅)

2013-06-08 23:08:47 | 古道
古代の武蔵・下総国境である隅田川を越え、「延喜式」に記された古代東海道の下総国最初の駅は「井上(いかみ)」駅となる。東京低地に残された直線的な道路が古代東海道の痕跡であることは通説であるが、正に下総国府(現・千葉県市川市国府台)に向って真っ直ぐに造られていた。ただ、そうすると、古代には「太日河(ふといがわ、おおひがわ)」と呼ばれた現・江戸川に行き当たり、その先は急な崖になる。市川市国府台地の南側に「真間」という地名があるが、「真間」というのは崖や急な坂を意味した(「真間の継橋」:2013年3月2日記事参照)。現在の江戸川右(西)岸、東京都江戸川区北小岩四丁目付近の標高が約2mであるのに対して、左(東)岸の市川市国府台地の標高は約22mとなっており、崖が江戸川に迫っている。
駅家の屋根が瓦葺であった古代山陽道以外では発掘調査で駅家跡が確認されることは難しいが、特に東京・千葉においては住宅地化が進んでいるため、所在地を特定するのは極めて困難となっている。「井上」駅の比定地も諸説あったが、市川市国府台遺跡から「井上」と墨書された土器が発見されたことで、下総国府付近にあったことがほぼ確実となった。ただし、それが台地上(国府内?)にあったか、台地下の砂洲上にあったかについては、なお説が分かれているようである。駅家は単なる馬継ぎの場所ではなく、国司の宿泊や饗応の場所でもあったとされているから、国府の付属施設とするほうが駅家の運営上は良いと言えるだろう。一方、国府台の台地は、地形上の制約から、国府の標準とされてきた方八町より狭いこと、下総国府に寄らずに上総国に向う旅客にとってはいちいち急坂を上る必要に乏しいこと、中世以降には台地下が「市川宿」として発達することなどを考えると、個人的には、現・市川市市川二丁目~三丁目付近に「井上」駅があったのではないかと思う。
ところで、「更級日記」は、菅原孝標の次女(名前は不明)が、上総国司であった父に従って帰京する場面から始まっている。当時(寛仁4年(1020年))、作者は13歳で、その後老境の52歳頃までが綴られているが、その時々に書かれたのではなく、後にまとめて書かれたのだろうといわれている。そのせいか、上洛までの紀行文は交通史にとっても貴重な文献資料なのだが(国司一行だから、古代東海道を辿ったはず)、事実誤認や記憶違いが多いとされる。また、律令制が崩壊した頃といっても、「延喜式」から100年程しか経っていないのに、駅家らしき記載がないことも特徴の一つとなっている。さて、その「更級日記」では、武蔵・下総国境である太井川を「まつさとのわたりの津(松里の渡りの津?)」で渡ったと書かれている。当時も太井川(太日河)が国境ではないことは明らかであるので、この点は誤りである(ここで上総国から見送りに来た人々と別れているので、国境でないことを知りながら文学上の脚色として「別れ」を強調したのだという説もある。)が、「まつさと」というのは殆どの解説書で千葉県松戸市のことであるとしている。これは、「まつさと」と「まつど」が似ており、「まつさと」が現在の「松戸」になったと考えているようである。しかし、古代東海道の本路は、確かに下総国府から現・松戸市を通っていくのだが、常陸国に向うため北東方面に進路を取るとされているので、太日河(現・江戸川)からは次第に離れていく。また、かなり上流まで台地の崖が続いているため、現・松戸市内で渡河するのに適した場所は見出し難い(「渡りの津」と言っているので、単に渡りやすい場所ということではなく、渡河のための船着場があったということだろう。)。因みに、大ヒットした歌謡曲で有名な「矢切の渡し」(松戸市下矢切)は江戸川両岸に田を持つ農民のために設けられたもので、観光用に現存しているが、現在も交通は不便(北総鉄道「矢切」駅から徒歩約30分)で、渡河のためにこの付近まで遡ってきたとは思えない。と、いうことで、「松里」という地名自体が菅原孝標女の記憶違いだったかもしれないし、渡河したのは現・市川市であったのではないか(「まつさと」は現・市川市にあった?)という説も出てきている。「図説市川の歴史」によれば、地質調査の結果として、国府・国分寺が置かれた頃、砂州や台地上はマツ林だった、という。なお、蛇足だが、市川市の「市の木」は黒松(クロマツ)で、今もJR総武本線、京成電鉄本線の車窓などから散見される。
さて、江戸時代には、江戸川に「小岩・市川関所」が設けられていた。元々、佐倉街道に「市川の渡し」があり、元禄10年(1697年)に道中奉行が直轄することになって、渡しに置かれた番所が関所となったものという。ただし、旅人の吟味を行う建物自体は小岩側のみにあり、市川関所もその後の護岸工事等によって正確な場所がわからなくなってしまったらしいが、現在、京成電鉄「国府台」駅の南、約120mの江戸川堤防上に木の門と説明板が設置されている。この西側辺りに中世以来の「市川宿」があり、古代には「井上」駅家があったのではないかと思われる。即ち、古代には台地上に下総国府があり、台地の下に太日河に開口した「真間の入江」(国府津?)があって、その南の砂州上に駅家があった。こうして、駅家付近は陸路の要衝でもあり、太日河の水運を利用して市が発達し、これが後に宿場になっていったのではないかと思われる。


市川市観光協会のHPから(市川関所跡)


写真1:江戸川左岸は崖で、崖下には川に沿って狭い道路(歩道)が通っているだけ。


写真2:「市川関所跡」


写真3:「市川関所跡」前から国府台地の方をみる。手前の鉄橋は京成本線で、土手の右手に「国府台」駅がある。
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下総国の古代東海道(その2・東京低地の古代道路痕跡)

2013-06-01 23:22:55 | 古道
延喜式に記された古代東海道の武蔵国最後の駅である「豊嶋」駅(「谷中霊園」付近に比定)から下総国に向うルートは、JR・京成電鉄本線「日暮里」駅付近で台地を下り、下総国府(現・千葉県市川市国府台)に向って真っ直ぐ東へ進む。JR・東京メトロ「南千住」駅付近までははっきりしないが、東武電鉄伊勢崎線「鐘ヶ淵」駅の南側の直線的な道路、更に荒川を渡って京成電鉄押上線「京成立石」駅の南側の直線的な道路、奥戸橋から京成電鉄本線「京成小岩」駅の南側を結ぶ直線的な道路が繋がり、これが古代東海道の直線道路の痕跡とされているものである。これを示す地図が、奥戸小学校(住所:東京都葛飾区奥戸8-20-17)の北側の道路に「古代東海道」の案内板として設置されている(写真1)。この直線道路が古代官道の痕跡であることを最初に指摘したのは吉田東伍で、彼が編纂した「大日本地名辞書」(1899~1907年)では「墨田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総村に至る一径あり。今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されている。また、明治13年に作られた迅速測図という地図でも、明瞭に直線道路の存在が見て取れる。「京成小岩」駅南側から先にも直線的な道路は東に延びていて、真言宗豊山派「稲荷山 遍照寺 真光院(いなりさん へんじょうじ しんこういん)」という寺院に突き当たり、その「真光院」の裏は江戸川の土手で、川向こうに千葉県市川市国府台の台地(下総国府の想定地)が見える。古代には、「豊嶋」駅想定地である日暮里付近の台地上から、「下総国府」までが見通せたと思われ、それを目標に直線道路が造られたことは確実だろう。ただし、「京成小岩」駅南側から先(東)の道路には現在、「上小岩遺跡通り」という愛称が付いているが、上記の迅速測図には(「真光院」らしきものはあるが)直線道路はみられない。現・江戸川(古代には「太日河」と呼ばれたらしい。)の対岸は険しい崖で、そのまま進んだのではなく、どうやら「京成小岩」駅南側から東南方向に進路を変え、ほぼ京成本線の線路に沿って進んだものと思われる(続きは次項で。)。


「住んでみないと かわらん版」さんのHPから(この町の歴史)のHP


写真1:奥戸小学校前にある古代東海道の説明板。通常の地図とは南北が逆になっている。


写真2:「京成小岩」駅の南側から東に延びる直線的な道路は「上小岩遺跡通り」という愛称がついている(東の突き当たり付近)。


写真3:同上。「上小岩遺跡通り」の案内板


写真4:「真光院」入口。慶長7年(1602年)良鍐法印の開山で、本尊は阿弥陀如来


写真5:「真光院」裏の江戸川土手上から東を見る。写真右端の高いビルが和洋女子大学(「下総国府」想定地付近)
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