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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

平将門 王城の地

2025-03-29 23:31:16 | 伝説の地

平将門 王城の地(たいらのまさかど おうじょうのち)。
場所:千葉県柏市大井。国道16号線と千葉県道282号線(柏印西線)の「大井」交差点から東へ約650mで左折(北へ)、道なりに約700m進んだ交差点で左折(北へ)、約550m(民家の塀に「相馬小次郎 平将門 王城通り」という案内板が掛かっている。)で左折(北西へ)、約120m。駐車場なし。
軍記物語「将門記」によれば、平将門が天慶2年(940年)11月に坂東(関東地方)を制圧して新皇を名乗り、坂東諸国の除目(国司等の任命)を行った。このとき、「王城」(皇居)を建設するとして、「王城を下総国の亭の南に建てよ。そして、檥橋(うきはし)をもって京の山崎とし、相馬郡の大井の津をもって京の大津としよう。」(口語訳)という計画を立てたという。後世、実際に「王城」が建設されたとして、これを「偽都」と称したりするが、天慶3年(941年)2月には将門が討ち死にしてしまうので、「王城」建設などしている暇はなかっただろう。ただ、この「王城」や「檥橋」、「大井の津」がどこを指すのか、という考察が盛んに行われ、例えば「王城」の場所は、現・茨城県常総市国生の「下総国亭(庁)跡」(2012年9月8日記事)の南ということで、同・坂東市岩井(「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事参照)または同・守谷市本町(「守谷城址」(2021年7月24日記事参照)などに比定されてきた。
さて、「檥橋」(=浮橋)は不明だが、「京の山崎」が現・京都府大山崎町、「京の大津」が現・滋賀県大津市なら、前者は京都(平安京)の南西、後者は東~北東の入口に当たるので、方角的に対比させたものかともいわれている。そして、「(下総国)相馬郡の大井」であるが、奈良の正倉院古文書の天平17年(745年)の記事、同じく東大寺古文書の天平宝字6年(762年)の記事に「相馬郡大井郷」とあり、かなり古くからある地名であることがわかる。現・柏市大井が遺称地であることに異論はないが、「大井郷」の範囲が問題で、当然ながら、現・柏市大井よりもかなり広い地域が想定される。例えば、清宮秀堅著「下総国旧事考」(弘化2年(1842年)脱稿、明治38年刊行)によれば、古代には、現・茨城県取手市戸頭は大井郡の「津頭(しんとう)」(=渡し場)であり、利根川対岸の現・柏市布施に「布施屋」(=旅行者の一時救護・宿泊施設)があったという説を唱え、「将門記」を引用しているので、現・取手市戸頭を「大井の津」と考えていたことが窺われる。
一方、遺称地として唯一はっきりしているのが現・柏市大井であり、北側に手賀沼があって、そこに津(渡し場、港)もあっただろう、ということで、当地が「王城の地」であるという伝承もある。将門関連の史跡とされるものも散在しており、将門伝説流布の色濃い地域である。現・柏市大井は、室町時代中期までは相馬氏の所領であったらしいので、その影響だろう。また、当地の将門伝説地は天台宗「教永山 福満寺」(2025年3月22日記事)境外地が多く、意図的に流布されたものではないかと思われる。


柏市のHPから(阿弥陀様板碑)

同上(妙照寺の杉樹)


写真1:「相馬小次郎 平将門 王城通り」案内板。「平将門 王城の地」は、ここを左に入る。


写真2:「平将門 王城の地」説明板がある場所。南側から北側(奥の方に手賀沼がある。)を見る。現状は畑だが、奧の塚のようなところを「将門山」または「城山」というらしい。また、当地区の地名(字)は「舟戸」というので、手賀沼の渡し場があったような地区なのかもしれない。


写真3:同上、西側から見る。


写真4:「将門山」の小祠


写真5:阿弥陀堂。写真1のところから南西に約40m(住所:柏市大井2207-2)。「福満寺」の境外地にある「阿弥陀堂」で、中に鎌倉時代中期頃と推定される板碑を安置している。板碑は柏市指定有形文化財。(将門とは無関係ですが、名品なのでご紹介しました。)


写真6:同上、阿弥陀堂内の板碑


写真7:「追花弁才天」。日蓮宗「妙照寺」前にある。ここも「福満寺」の境外地であるという。中世城館「大井追花城」は、「妙照寺」前の谷津の南西側台地上にあったとされるが、かなり地形が変わっているようで、城館跡らしいものはあまり残っていない模様。「大井追花城」は将門の重臣・坂巻若狭守の居城だったという伝承がある。坂巻を始め、石原・石戸・吉野・富瀬・久寺家・座間の七家を「大井七人衆」と称し、将門の影武者を務めたともいう。


写真8:日蓮宗「長國山 妙照寺」山門(場所:柏市大井1070。「大津ヶ丘中入口」交差点から北へ約550m。駐車場あり。)。


写真9:同上、本堂。「妙照寺」は正応元年(1288年)、日蓮聖人の直弟子・日辨上人によって開山されたが、元は弘仁年間(810~824年)創建の通称「大井の御堂」という真言宗の堂があったという。現在は本堂に鬼子母神を祀り、御利益は安産・子育てなど。


写真10:同上、境内の「竜神堂」。「弁才天」や「竜神」は水の神なので、この辺りは湧き水の豊かなところだったと思われる。


写真11:同上、「妙照寺の杉樹」。目通り幹囲約6m、当寺院創建のときに植えられたといわれ、推定樹齢約750年とされる。柏市指定天然記念物。

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車ノ前五輪塔

2025-03-29 23:31:10 | 史跡・文化財

車ノ前五輪塔(くるまのまえごりんとう)。
場所:千葉県柏市大井1228。天台宗「教永山 福満寺」(前項)鐘楼堂・「香取神社」鳥居前から南に約70mで右折(西へ)、約100m進んだところで左折(東へ)して未舗装農道を約75m。駐車場なし。
「福満寺」の南側の境外地にある通称「妙見さま」・「妙見堂跡」という100m四方の森にある、沼南地区最大・最古の五輪塔を「車ノ前五輪塔」と称し、柏市指定有形文化財となっている。この五輪塔は台上の高さ152.4cmで、石材は安山岩(平成28年 柏市教育委員会の現地案内板による。柏市のHPでは筑波小田の白色花崗岩としている。)。軒部などに一部欠損があるものの、全体としては保存状態は良好で、姿も美しい。仏教の宇宙観を空・風・火・水・地の五要素で表した石塔で、平安時代末期以降、供養塔・墓塔として建立されるようになったとされる。この五輪塔では、四方に(下から)地(ア)・水(バ)・火(ラ)・風(カ)・空(キャ)の梵字が彫られているとされるので、密教系のものである。建立時期は室町時代初期(14世紀中葉~15世紀前半)頃と推定され、当時この地域を治めた武人(おそらく相馬氏の一族)の供養塔と考えられている。
一方、伝承では、平将門が天慶3年(940年)に討ち死にすると、その側室・車ノ前(車御前)が遺児とともに当地に隠れ住み、将門が信仰していた妙見菩薩を祀る堂を建て、将門の菩提を弔ったとされる。将門の家族については確実な資料がなく、正室は伯父・平良兼の娘(名は不明)または現・茨城県桜川市周辺の豪族・平真樹の娘(君御前)という説がある。また、愛妾としては桔梗の前(桔梗姫)が有名だが、素性については伝承地によって様々である。そのほかにも愛妾(側室)とされる女性は多いが、当地では車ノ前を「第三夫人」と表現している。「千葉県東葛飾郡誌」によれば、車ノ前は中村庄司良志の娘で、桓武天皇の女子・車内親王に準えて将門が名付けたとされ、将門の乱のときには懐妊していて、当地に疎開して出産した。子は若松と名付けられたが、2歳になったとき車ノ前は亡くなった。その後、若松は良忠と名乗り、西国で勇者となったという。五輪塔は、車ノ前が将門の供養のために建てたが、車ノ前もここに葬られたため、その墓塔ということにもなっている。また、車ノ前が亡くなったとき、村人らが遺体を火葬にしようとしたが、薪では燃えず、米を焚いて荼毘に付したとの伝説もある。なお、妙見堂にあった妙見菩薩像は「福満寺」に移され、本堂に安置されたという。そして、地元の人々によって、今も例年2月21日を将門の命日として妙見講が行われているとのこと。


柏市のHPから(車ノ前五輪塔)


写真1:「車ノ前五輪塔」がある妙見堂跡。この辺りの地名(字)を「車ノ前」という。


写真2:「車ノ前五輪塔」。湯飲みなどが供えられているのは、献茶すると風邪をひかないという言い伝えによるらしい。


写真3:「妙見社」

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教永山 積善院 福満寺

2025-03-22 23:33:33 | 寺院
教永山 積善院 福満寺(きょうえいさん せきぜんいん ふくまんじ)。
場所:千葉県柏市大井1708。国道16号線と千葉県道282号線(柏印西線)の「大井」交差点から東へ約650mで左折(北へ)、約500m進んだところ(案内看板あり)で左の側道へ(北西へ)進み、約260mで「福満寺」楼門付近。その右側(東側)の道路を北へ約110m下っていくと本堂前に着く。その先、約80m進んだところに広い駐車場がある。
寺伝によれば、第50代・桓武天皇(在位:781~806年)のときに、権大僧都・尊慶により創建された。また、旧薬師堂の古棟札の写しに「承和十一年甲子十一月八日下総国相馬郡南相馬ノ庄大井郷別当福満寺」(承和11年は西暦844年)という記載があるという。これらを信じるならば、最澄が帰国して天台宗を伝えたのが延暦25年(806年)なので、奈良時代に開創され、その後、天台宗の寺院となったということになる。境内地からは、延慶3年(1310年)を最古とする60枚以上の板碑が発見されており、中世には相当に隆盛していたようである。しかし、戦国時代以降、度々兵火に遭遇し、江戸時代にも延宝年間(1673~1681年)、享保年間(1716~1736年)に火災に遭い、堂宇伽藍・古記録は殆ど灰燼に帰した。元文4年(1739年)に再興されたが、これも明治36年の火災で諸堂が焼失し、江戸時代の伽藍は観音堂(旧本堂)と鐘楼堂のみとなっている。現在は天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。「関東九十一薬師霊場」第79番札所。
なお、観音堂には聖観世音菩薩が祀られているが、この観音像は聖徳太子作と伝えられ、当寺院の大檀越であった坂巻若狭守の守本尊であったとの伝承がある。坂巻若狭守は平将門の家臣で、大井追花(現・柏市大井)の地に住み、居館内の観音堂に安置した。後に「香取神社」側の当寺院境内の高台に移され、江戸時代に現在地へ移転した。この観音像は、度々の火災にも奇跡的に焼失を免れたため、「火伏せの観音」とも称されているという。ただし、秘仏で、住職一代に1回のみ開扉が許され、非公開。「下総三十三ヶ所観音」の第14番札所となっている。


写真1:「福満寺」山門を兼ねた鐘楼堂。「大井の晩鐘」として「手賀沼八景」の1つ。現在は鐘楼堂だけが台地上にあり、本堂等は北側(手賀沼の方向)の三反田谷津という谷に下りたところにある。


写真2:上の鐘楼堂の東側にある「香取神社」鳥居


写真3:同上、境内の椎の巨木


写真4:「香取神社」。社伝によれば、元和5年(1619年)の創建。大井地区の鎮守で、旧村社。現在の祭神は経津主命。


写真5:「福満寺」鐘楼堂と「香取神社」の間の道路を下っていくと、多くの小堂がある。准四国八十八ヶ所霊場という、当寺院のみで四国八十八ヶ所霊場を写したもの。これらとは別に、「東葛印旛大師八十八ヶ所霊場」の第7番と第54番札所の大師堂がある(第54番札所は、元は「香取神社」にあったらしい。)


写真6:「福満寺」寺号標


写真7:同上、本堂。本尊は薬師如来だが、妙見菩薩も安置されているとのこと。


写真8:同上、境内の「宝子霊石」。お参りすると子宝に恵まれるとのこと。


写真9:同上、本堂の右手にある「将門大明神」祠。当寺院と平将門の所縁は別項で。


写真10:同上、弁天堂と「かしわ七福神」布袋尊像。弁財天は、天保11年(1840年)に江戸上野「東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂」(現・東京都台東区)から分座されたものという。


写真11:同上、観音堂
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柴崎神社(千葉県我孫子市)

2025-03-15 23:32:09 | 神社

柴崎神社(しばさきじんじゃ)。
場所:千葉県我孫子市柴崎174。国道6号線「柴崎」交差点から南西に約550m。駐車場は、手前約55mの「曹洞宗 東漸寺→」という案内板のところから西へ入る(道路が狭いので注意。)。
社伝によれば、日本武尊が東征のとき当地で武運長久を祈って幣立てをしたといい、現・我孫子市天王台という地名(当神社の南東、徒歩7~8分のところにJR常磐線「天王台」駅がある。)は日本武尊に因むという。神社としての創建は天慶元年(938年)とされ、平将門の祈願所であったともいうが、天慶2年(939年)には将門が常陸・下野・上野の国府を攻撃・占領して新皇と名乗った(「天慶の乱」)ものの、翌年、将門は討たれ、反乱は鎮圧されている。そのために、以後は社勢が衰えたとされるが、境内で永仁6年(1298年)銘の板碑の断片が発見されており(我孫子市内で最も古い年号の板碑という。)、当地における祭祀は続いていたようである。その後、将門直系の子孫と自称する相馬氏一門の守護神とされて崇敬を受け、永禄4年(1561年)には相馬氏家臣の柴崎城主・荒木三河守が社殿を修復したという。近世には、「羽黒・妙見社」として柴崎村の鎮守となり、明治元年に「北星神社」、明治13年に「柴崎神社」と改称して、村社に列格した。現在は、我孫子市の総鎮守と称し、祭神は天御中主命、日本武尊、蒼稲魂命、素盞鳴尊ほか。
蛇足:創建当初の祭神は不明だが、近世には「妙見社」であり、現在の祭神が天御中主神であれば、明治時代より前は妙見菩薩だった可能性もある(「妙見本宮」を称する「千葉神社」(2012年5月5日記事)も同様。)。将門の子孫を自称する千葉氏・相馬氏が妙見菩薩を信仰していたことは確実だが、将門自身もそうだったかは不明。小説やブログなどで将門自身が妙見菩薩を信仰していたことを当然のように書いてある記述もあるが、それを裏付ける資料はない。軍記物語「将門記」には、将門が八幡大菩薩から新皇位を授けるとの神託を受けたという記事はあるが、妙見菩薩の名は出てこない。また、将門所縁の寺院で、将門の守り本尊だったという仏像の伝承があるケースでも、観世音菩薩、薬師如来、不動明王など様々である。妙見信仰自体は、わが国には7世紀頃に伝来したとされており、将門が信仰していた可能性もないとは言えないが、「将門記」以後の将門と妙見信仰を結びつける文書等はいずれも千葉氏・相馬氏の関係者が絡んでいるようである。このように考えると、将門自身には妙見信仰はなかったのでないかと思われる(あくまでも私見です。)。


柴崎神社のHP


写真1:「柴崎神社」鳥居と社号標


写真2:鳥居横の青面金剛、庚申塔


写真3:境内の道祖神、青面金剛像、庚申塔(猿田彦大神)


写真4:手水舎と神亀


写真5:狛犬と並ぶ神亀(玄武)石像。玄武は北方の守護神で、妙見菩薩の神使とされる。


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:境内の黒髪塚。日露戦争のとき、出征する兵士の妻たちが夫の無事を祈って黒髪を捧げたという塚。


写真9:境内の神武天皇遥拝碑。左手には明治天皇遥拝碑もある。


写真10:北側に隣接する「羽黒山 円福寺」本堂。江戸時代初期頃の創建かといわれる。「柴崎神社」の旧別当寺で、現在は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来。


写真11:同上、大師堂。新四国相馬霊場八十八ヶ所第55番札所となっている。


写真12:同上、上の大師堂の隣に所謂「鯖大師」像を安置した大師堂もある。「鯖大師」伝説の中心地は四国で、関東地方では比較的珍しいのではないだろうか。

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興隆山 寿量院 東漸寺

2025-03-08 23:34:17 | 寺院
興隆山 寿量院 東漸寺(こうりゅうさん じゅりょういん とうぜんじ)。
場所:茨城県取手市本郷3-9-19。国道6号線(取手バイパス)「桑原」交差点から北西へ約1.3kmで右折(北へ)して、直ぐ(約40m)右折(東へ)、約140m。駐車場あり(本堂の背後。境内入口の手前で左折(北へ)する。)。
開山の経緯等は不明だが、天正2年(1574年)の創建とされる。東西に通る道路の北側にあって、牛馬の往来が多かったらしく、その守護神として元和3年(1617年)に馬頭観世音菩薩が安置され、寛文7年(1667年)には現在の観音堂が建立された。この馬頭観音像は高さ2尺4寸(=約70cm)、家運隆昌・除災招福に御利益があるとされる。行基菩薩作と伝えられ、この辺りに居館があったと伝えられる県犬養春枝(娘が平将門の母とされるので、将門の祖父に当たる。)所縁の仏像ともいい、当寺院の創建以前にあった小堂に祀られていたものとの伝承がある。また、山門(仁王門)を通った正面に観音堂があるが、馬頭観音の霊験により、馬を乗ったままで門前を通ると必ず落馬することから、山門と観音堂の間に目隠しとして銀杏(イチョウ)を植えたという。これを通称「目隠し銀杏」といい、樹高約19m・目通り幹周り約6.2m・樹齢約600年の大木となっている。山門も元禄3年(1690年)の建立で、昭和26年に鉄板葺に変えられていたが、平成22年に修復工事が行われ、茅葺屋根に戻った。観音堂(附:宮殿、軒札)と山門は、平成27年に茨城県指定文化財に指定。現在は天台宗に属し、本尊は阿弥陀如来。なお、境内に新四国相馬霊場八十八ヶ所の第70番札所、第71番札所がある。
因みに、当寺院境内に源三位頼政公の供養塔がある(通称:ヨリマサ様)。源頼政は平安時代末期の武将で、怪物・鵺を退治したという伝説で有名。治承4年(1180年)に「宇治平等院の戦い」で平氏側に敗れて自害したが、郎党である下河辺氏が首を持って坂東に落ちのびて葬ったとの伝承があり、茨城県内では龍ケ崎市と古河市に「頼政神社」がある(2022年1月1日及び同年1月8日記事)。当寺院の供養塔は明治4年建立の銘があり、どういう経緯かは不明だが、あるいは鵺退治の超人的活躍に肖ったものかもしれない。手・足・腹の痛みや脳の病に霊験があるとのこと。


取手市のHPから(東漸寺観音堂・山門・宮殿・棟札)


写真1:「東漸寺」境内入口、寺号標(「天台宗 興隆山 東漸寺」)


写真2:山門(仁王門)


写真3:「目隠しの銀杏」。取手市内で最大のイチョウの巨木。


写真4:観音堂(堂本尊:馬頭観世音菩薩)。なお、観音堂の左側にある楠(クスノキ)は県内最大とされ、樹高約26m・幹周約7.0m・樹齢約320年という。


写真5:本堂(本尊:阿弥陀如来)


写真6:大師堂(新四国相馬霊場八十八ヶ所第71番札所)


写真7:同上(新四国相馬霊場八十八ヶ所第70番札所)。旧・寺田村の廃寺となった「永福寺」にあったものを移設。


写真8:頼政公供養塔。正面に「治承四庚子年 源三位頼政公建法澤山頼圓大居士神儀 五月廿三日」、左側面に「明治四辛未年九月吉日立之」銘がある。本体の高さ約56cm。
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