備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム64.貴船神社(瀬戸内市)の磐座

2008-10-14 21:26:35 | Weblog
貴船神社(きぶねじんじゃ)。
場所:瀬戸内市邑久町山田庄1366。県道223号線(箕輪尾張線)「邑久駅南」から北へ約800mの交差点(「スバルショップ瀬戸内」があるところ)を右折(東へ)、約500mで左手(北側)の丘に上って行く。山上は「邑久ふれあい公園」になっており、駐車場もある。
祭神は高龗神で、創建年代は不明だが、山城国の貴船神社(式内社・名神大)を勧請したもの。当社の南、JR「邑久」駅の東南部には「尾張」の地名が残っており、この地域が尾張一族の勢力範囲であったとすれば、丘(貴船山)の上から見下ろす形となっており、何らかの関係があったのだろう。また、貴船山の北側には墳長22mの前方後円墳「西郷免古墳」がある。あるいは、これが当地の支配者の墳墓であるかもしれない。
なお、当社の境内末社として「東神社」と「西神社」がある。これが、国内神名帳に載る古社「殿上東神社」と「殿上西神社」であるとする説もある。
また、八木敏乗著「岡山の祭祀遺跡」(平成2年7月)によれば、社殿の背後にある石組みは磐座であるという。

岡山県神社庁のHP(貴船神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12017


写真上:貴船神社摂社の「東神社」


写真中:貴船神社摂社の「西神社」


写真下:貴船神社境内の「磐座」?

コラム63.豊原北島神社の鎮座石

2008-10-13 12:45:39 | Weblog
豊原南島神社の祭神は「豊原南島神」であるが、豊原北島神社の祭神は「豊原北島神」のほか、応神天皇・神功皇后・比売大神・品陀和気命となっており、いわゆる「八幡神」である。
豊原北島神社の伝承によれば、舒明天皇の6年(634年)に豊前国宇佐八幡を、豊原北島(当時は文字通り「島」だった。)の山頂にある大岩(鎮座石)に勧請したのが始まりという。このとき、「鎮座石」の上に藁を解き敷いて奉祀したことから、「解き藁」=「ときわら」が荘名の「豊原」=「とよはら」となったともいう。
一方、上寺山餘慶寺の伝承によれば、舒明天皇の6年に宇佐八幡を勧請したのは邑久郡長沼村の山頂で、その後、報恩大師が日待山日輪寺(上寺山餘慶寺の旧号)を創建した際、神託により宮を長沼村から豊原北島に移した、とされる。「長沼村」というのが現・岡山市長沼なら、豊原南島神社の鎮座する地区。同社は今、山麓にあるが、その山上にあったのだろうか(ちなみに、その山の裏側(南)山腹に「麻御山神社」がある。)。
寺伝のほうが正しければ、上寺山餘慶寺(日待山日輪寺)の創建は天平勝宝元年(749年)とされるので、「豊原北島神社」になったのは社伝より100年以上下ることになる。「舒明天皇の6年(634年)」の根拠は定かでないが、現在の寺と神社の配置をみると、少なくとも神社のほうが先に鎮座していたと思われる。
なお、「鎮座石」は今、豊原北島神社の東側にある業合(なりあい)家の庭内にある。さほど大きな岩ではないが、上が平らになっていて、いかにも古代祭祀を行った岩という感じである。寛文6年(1666年)の寺社整理の際、餘慶寺本乗院の良庸が還俗して業合斎宮と名乗って豊原北島神社の神職となり、代々相続している(6代目業合大枝(なりあいおおえ)は、平田篤胤らの門人で国学者・歌人。)。本乗院は餘慶寺の本坊であるとともに、豊原北島神社の別当であったため、元は檀家を持っておらず、寛文6年以降、吉祥院から住持が入り、檀家を持つようになったという。


写真上:「上寺の森」案内図。業合家は記載されていない(豊原北島神社の東側、図では右端の最も下のところにある。)。


写真中:「業合大枝宅跡」の石碑(業合家玄関の前)


写真下:鎮座石(業合家の庭内にある。)

コラム62.木華佐久耶比神社(続々々)

2008-10-12 15:39:56 | Weblog
寺院巡りは一旦終わりにして、本筋の古社巡りに戻ることにした。
木華佐久耶比神社の奥宮に参拝した。現在の社殿の右手奥に「福南山」山頂(282m)への登り口がある。多分、神社関係者の方が手入れをしているのだろう、藪などは整理されており、結構急坂だが、普通の登山道並み。角張った石が出ているところもあり、靴は底が厚いものを勧める。登り始めてから15分程で「福南山明現宮」の扁額のある石鳥居(写真上)があり、そこから5分程で山頂に到着。山頂は思ったより広く、明るい。社殿跡が良く残っており(写真下)、きちんと南面している。

写真上:奥宮参道途中の石鳥居


写真下:奥宮(旧社殿跡)

コラム61.備前48ヶ寺再考(その3)

2008-10-11 18:49:51 | Weblog
同じ備前国でも、「神名帳」と「48ヶ寺」では分布がかなり異なる。

         神名帳        48ヶ寺
和気郡  |  9社( 7%) |  8寺(17%)
磐梨郡  | 18社(14%) |  3寺( 6%)
邑久郡  | 18社(14%) | 11寺(23%)
赤坂郡  | 29社(23%) |  8寺(17%)
上道郡  | 18社(14%) | 12寺(25%)
御野郡  | 11社( 9%) |  3寺( 6%)
津高郡  | 12社( 9%) |  3寺( 6%)
児島郡  | 11社( 9%) |  0寺( 0%)
小豆島郡 |  2社( 1%) |  0寺( 0%) 

まず、「48ヶ寺」のほうは児島郡・小豆島郡には1寺もない。また、和気郡、邑久郡、上道郡といった、備前国でも東南部に多くなっている。
「神名帳」のほうは、邑久郡、上道郡も少なくはないが、北部の赤坂郡・磐梨郡にかなり多い。特に赤坂郡は「鴨」系の神社が多いのだが、式内社は4社しかない(磐梨郡は、なんと0社)。
御野郡は、「神名帳」では11社で、少ないというほどではないが、必ずしも多くはない。しかし、11社のうち8社(73%)が式内社という高率である。「48ヶ寺」のほうは3寺と少ない。このあたりの選定割合をみると、(いつかは不明だが)選定当時の政治状況が少しわかる気がする。
例えば、「神名帳」選定時は、延喜式完成より時代が下り、式内社の庇護者が衰えたかわりに、赤坂郡を中心として「鴨」系の神を信奉する実力者がいたのだろう。「48ヶ寺」のほうは、山上伽藍と言いながら、実際には山麓近くに下りてきている例が多く、東南部の比較的豊かな地域にあって勢力を蓄え、領主との関係も良好であったことが窺われるのではないか。

写真は、報恩大師の墓との伝承がある「報恩大師供養塚」。瀬戸内市千手にある永倉山(報恩山)山頂にある。

瀬戸内市のHPから(弘法寺報恩大師供養塚):http://www.city.setouchi.lg.jp/history/list/093.html

コラム60.備前48ヶ寺再考(その2)

2008-10-06 20:58:18 | Weblog
備前48ヶ寺のうち、現存しているのは38(寛文年間に退転後、後世再興の妙林寺・幸福寺を除く)。現在の宗派は、天台宗が18、真言宗が19、日蓮宗が1となっている。
「備前48ヶ寺」に相当する呼称が現存史料に現れるのは、いわゆる「金山寺文書」の中の1書で、文禄4年(1595年)のものが最初とされ、しかも、この中には「報恩大師」の名は出てこない。
また、「報恩大師」が備前国生まれとする伝承は、どうやら永禄15年(1702年)刊の「本朝高僧伝」によるものらしい。
48ヶ寺の中には、奈良時代はともかく、平安時代までは創建が遡れる寺院もある。そして、盛時には多数の僧坊を抱えていたという寺院も多い。それが、時代が下るにつれ、旧来の保護を失って寺領(荘園)を奪われ、あるいは焼き討ちにあったりして、寺勢が衰えた。そのようななか、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、その寵臣となった宇喜田秀家(1572~1655年)は領内60ヶ寺・15社に対して寺社領3000石を寄進するかわりに、国主の武運長久と国家安全を祈念させた。そして、「金山寺」が領内寺社統括の役割を担うようになったと考えられる。
こうして、「金山寺」はその発言力を高めるため、自らの宗派である天台宗の寺院を中心に、
①少なくとも元は天台宗であった寺院であること
②山上伽藍を持つか、持った伝承があること
③多くの寺坊を持つか、持った伝承があること
④観音か阿弥陀を本尊とすること
を条件に、大寺院のネットワークを作ったのではないか。
「報恩大師」を担ぎ出したのは、歴史の古さを誇示するとともに、民衆の観音信仰等を利用しようとしたのだろう。
以上のようなことを考えると、国内神名帳所載の神社と備前48ヶ寺の関係は(当然ながら)本来何もないのだが、逆に、豊原北島神社と上寺山余慶寺、石根依立神社と岩生山元恩寺などの例が実に興味深いと思う。
(以上は、岡山県立博物館発行の「備前四十八ヶ寺」(2003年1月)を参考にさせていただきました。)

写真は、報恩大師が備前48ヶ寺のほかに、根本道場として開基したという勅命山日應寺。現在は日蓮宗。場所:岡山市北区日応寺302。

「日蓮宗岡山県教化センター」のHPから(日應寺)http://www.okayama-nichiren.com/jiin/nitiouji/nitiouji.htm

コラム59.備前48ヶ寺再考(その1)

2008-10-05 15:48:39 | Weblog
備前48ヶ寺開基とされる報恩は、一般に「報恩大師」と呼ばれるが、「大師」号を許されたのは最澄(伝教大師。767~822年)が最初なので、奈良時代の「報恩大師」は後世の通称であろう。15歳で日応寺に入り、三十歳から吉野山で修行して観音呪を修め、孝謙天皇の病気を加持祈祷により平癒させたことから、勅願を得て、生まれ故郷の備前国に48ヶ寺を開創したとされる。千手山弘法寺の向かい側「永倉山」山上には墓があるともいうが、これは供養塔であろうといわれている。大和国の伝承では、養老2年(718年)頃大和国で生まれ、天平4年(732年)頃出家して約15年興福寺で修行、その後吉野山に入ったとする。亡くなったのも、延暦14年(795年)に大和国子嶋山寺においてであるという。
このように、報恩大師が架空の人物とまでは言えないものの、半ば伝説的な人物であり、あるいは多数の僧の伝説が「報恩大師」の名で伝えられてきた可能性は高い。
次に、「備前48ヶ寺」ということにも、いろいろ疑問は多い。例えば、
①48ヶ寺のうちには、行基や鑑真など報恩大師以外の開基とする寺院も多い。
②48ヶ寺は本来、本尊はすべて(千手)観音だったとされるが、現在はもちろん、往古も必ずしも観音ではなかった寺院もあるようである。
③同様に、観音に因む数字は「33」(観音は衆生を救うため33の変化身で現れるという。)であり、「48」に関係が深いのは阿弥陀如来である(阿弥陀仏がまだ菩薩であったときに衆生を救うために立てた誓いが「四十八願」)。なぜ、「48ヶ寺」にしたのだろうか。
④報恩大師開基という寺院は他にも多く、例えば「法界院」(岡山市)、「妙教寺」(通称「最上稲荷」、岡山市)などといった大寺もある。選ばれた基準は何か。
⑤報恩大師開基とする寺院は、備前国だけでなく、備中国にもあるが、なぜ「備前」だけなのだろうか。

写真は、日蓮宗「大導山顕本寺」(岡山市北区芳賀2629)の境内にある「報恩大師産湯の井戸」。

顕本寺のHP:http://www2.oninet.ne.jp/namusan/




コラム58.大光山妙福寺(現・正保山幸福寺)

2008-10-02 19:23:10 | Weblog
正保山幸福寺(しょうほさん こうふくじ)。今は日蓮宗の寺院だが、ここに大光山妙福寺(だいこうさん みょうふくじ)という報恩大師開基備前48ヶ寺の1つがあったという。ただし、その山号寺号は如何にも日蓮宗の寺院のようである。元は菅野山菅野寺(すがのさん すがのじ?)といい、天台宗であったが、永禄2年(1559年)に金川城主松田氏により日蓮宗に改宗させられたというので、寺名もこのときに改めたのだろう。そして、寛文6年(1666年)の寺社整理により、いったん退転、廃寺となったが、その後、現在の寺名で再興されたものと思われる。
場所:岡山市北区菅野1570。岡山市街地から国道53号線から、県道237号線(日応寺栢谷線)とクロスする辺りで側道に下り、「広域農道」を北西(岡山空港方面)に向かい、約1.5kmで「東菅野」方面の案内板があるところを下りていくと約400mで到着。駐車場あり。
国内神名帳所載の古社「神神社」(岡山市栢谷)(2008年6月22日記事)の北、約3kmのところにある。
また、上記「広域農道」を更に上って行くと岡山空港に突き当たり、その北側に「勅命山日應寺」(報恩大師開基による、備前48ヶ寺の根本道場とされた寺院)がある。


「岡山県日蓮宗寺院名簿」HPから(幸福寺):
http://www.okayama-nichiren.com/jiin/kouhukuji/kouhukuji.htm