備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム73.備前国府の所在地(その2)

2008-10-29 20:46:26 | Weblog
平安時代中期に作られた辞書である「和名類聚抄(和名抄)」によれば、備前国府について「在御野郡」と記している。その所在地についての通説である岡山市の高島地区は旧上道郡高島村であって、合致しない。これを説明するものとして、次の3つがある。
①御野郡と上道郡の郡境は旭川であって、かつて旭川は国府の東側を流れていたので、国府は御野郡にあった。
②和名抄が作られた頃、国府は一時、御野郡に移っていた。
③和名抄の誤り(誤記)。

旭川は、かつては、現在の岡山市中区祇園~国府市場~雄町~神下あたりを流れていたとされる。「雄町の冷泉」(写真)は、旧河道にあることの1つの証拠となる。また、神下あるいは米田あたりが入江となっていて(これを「石間江」という。)、備前国府の外港であったともいわれる。ちなみに、このあたりは、生庶神社(乙多見)、天鴨神社(長岡)、天神一社楊田神社(神下)、當麻神社(米田)、深田神社(今谷)など、狭い地域に国内神名帳所載の古社が集中している。
したがって、備前国府が県史跡となっているあたり(「国長宮」を中心にしたあたり)にあったとすれば、①はありそうにも思えるが、和名抄には「上道郡幡多郷」との記載もあり、矛盾が残る。また、旧河道が東にあったとしても、それは支流に過ぎず、郡境になるようなものではなかったとも考えられている。要するに、「国長宮」の辺りが備前国府跡だったとすることを正当化するための説であり、今や「国長宮」辺りは備前国府跡ではないとする説が有力になってきている(次の記事で書く予定。)。
②は、「一時」というのがどのくらいか、どういう規模か、ということにもよるが、御野郡にはこれと言った国府の想定地がない、という問題がある。まだ見つかっていないだけかもしれないが、「国府」のような地名がないことや、大規模な官寺跡がないことなどが難点。また、この説の論者は、国府はその後再び上道郡に戻ったとするが、その理由は特に説明されていない。
そうすると、あっけない話だが、③が真相かもしれない。


高島公民館のHPから(雄町の冷泉):http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk30.html

環境省選定名水百選のHPから(雄町の冷泉):http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=67