豊原南島神社の祭神は「豊原南島神」であるが、豊原北島神社の祭神は「豊原北島神」のほか、応神天皇・神功皇后・比売大神・品陀和気命となっており、いわゆる「八幡神」である。
豊原北島神社の伝承によれば、舒明天皇の6年(634年)に豊前国宇佐八幡を、豊原北島(当時は文字通り「島」だった。)の山頂にある大岩(鎮座石)に勧請したのが始まりという。このとき、「鎮座石」の上に藁を解き敷いて奉祀したことから、「解き藁」=「ときわら」が荘名の「豊原」=「とよはら」となったともいう。
一方、上寺山餘慶寺の伝承によれば、舒明天皇の6年に宇佐八幡を勧請したのは邑久郡長沼村の山頂で、その後、報恩大師が日待山日輪寺(上寺山餘慶寺の旧号)を創建した際、神託により宮を長沼村から豊原北島に移した、とされる。「長沼村」というのが現・岡山市長沼なら、豊原南島神社の鎮座する地区。同社は今、山麓にあるが、その山上にあったのだろうか(ちなみに、その山の裏側(南)山腹に「麻御山神社」がある。)。
寺伝のほうが正しければ、上寺山餘慶寺(日待山日輪寺)の創建は天平勝宝元年(749年)とされるので、「豊原北島神社」になったのは社伝より100年以上下ることになる。「舒明天皇の6年(634年)」の根拠は定かでないが、現在の寺と神社の配置をみると、少なくとも神社のほうが先に鎮座していたと思われる。
なお、「鎮座石」は今、豊原北島神社の東側にある業合(なりあい)家の庭内にある。さほど大きな岩ではないが、上が平らになっていて、いかにも古代祭祀を行った岩という感じである。寛文6年(1666年)の寺社整理の際、餘慶寺本乗院の良庸が還俗して業合斎宮と名乗って豊原北島神社の神職となり、代々相続している(6代目業合大枝(なりあいおおえ)は、平田篤胤らの門人で国学者・歌人。)。本乗院は餘慶寺の本坊であるとともに、豊原北島神社の別当であったため、元は檀家を持っておらず、寛文6年以降、吉祥院から住持が入り、檀家を持つようになったという。
写真上:「上寺の森」案内図。業合家は記載されていない(豊原北島神社の東側、図では右端の最も下のところにある。)。
写真中:「業合大枝宅跡」の石碑(業合家玄関の前)
写真下:鎮座石(業合家の庭内にある。)
豊原北島神社の伝承によれば、舒明天皇の6年(634年)に豊前国宇佐八幡を、豊原北島(当時は文字通り「島」だった。)の山頂にある大岩(鎮座石)に勧請したのが始まりという。このとき、「鎮座石」の上に藁を解き敷いて奉祀したことから、「解き藁」=「ときわら」が荘名の「豊原」=「とよはら」となったともいう。
一方、上寺山餘慶寺の伝承によれば、舒明天皇の6年に宇佐八幡を勧請したのは邑久郡長沼村の山頂で、その後、報恩大師が日待山日輪寺(上寺山餘慶寺の旧号)を創建した際、神託により宮を長沼村から豊原北島に移した、とされる。「長沼村」というのが現・岡山市長沼なら、豊原南島神社の鎮座する地区。同社は今、山麓にあるが、その山上にあったのだろうか(ちなみに、その山の裏側(南)山腹に「麻御山神社」がある。)。
寺伝のほうが正しければ、上寺山餘慶寺(日待山日輪寺)の創建は天平勝宝元年(749年)とされるので、「豊原北島神社」になったのは社伝より100年以上下ることになる。「舒明天皇の6年(634年)」の根拠は定かでないが、現在の寺と神社の配置をみると、少なくとも神社のほうが先に鎮座していたと思われる。
なお、「鎮座石」は今、豊原北島神社の東側にある業合(なりあい)家の庭内にある。さほど大きな岩ではないが、上が平らになっていて、いかにも古代祭祀を行った岩という感じである。寛文6年(1666年)の寺社整理の際、餘慶寺本乗院の良庸が還俗して業合斎宮と名乗って豊原北島神社の神職となり、代々相続している(6代目業合大枝(なりあいおおえ)は、平田篤胤らの門人で国学者・歌人。)。本乗院は餘慶寺の本坊であるとともに、豊原北島神社の別当であったため、元は檀家を持っておらず、寛文6年以降、吉祥院から住持が入り、檀家を持つようになったという。
写真上:「上寺の森」案内図。業合家は記載されていない(豊原北島神社の東側、図では右端の最も下のところにある。)。
写真中:「業合大枝宅跡」の石碑(業合家玄関の前)
写真下:鎮座石(業合家の庭内にある。)