源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

多太神社(斉藤別当実盛・さねもり)

2005-11-30 01:40:27 | 安宅の関コース
                    (写真右が実盛です)
安宅の関のある石川県小松市では、主役は武蔵坊弁慶と斉藤実盛です。
3回連続で実盛の記事を掲載します。

実盛は、源氏の義朝に仕えていたが平治の乱後は平家の宗盛に仕えました。騒乱の続く中、幼少の木曽義仲の命を救ったが、時代が変わって義仲軍との一戦では平家が破れ、
1183年(寿永二年)6月1日に戦死しました。義仲はその死を知り実盛の兜をこの神社に奉納しました。
500年後、芭蕉が訪れ「奥の細道」の中で句を読んでいます。
むざんやな 甲の下の きりぎりす
甲について「目庇(まびさし)より吹返しまで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり」と賛美しています。

源平古戦場跡 根上の松(ねあげのまつ)

2005-11-29 01:21:54 | 安宅の関コース
            根上の松とは、松の根が持ち上がった奇木です。
この史跡の資料は根上町にあると言うくらいの知識しかなく、根上町を走っていると偶然小さな看板を見つけてたどり着きました。観光客などは全くいません。

義経一行は、安宅関を通過し5k先で弁慶が義経に安宅の関での無礼を謝罪(11月26日に掲載)した後、源平古戦場跡の根上の松に立ち寄りました。
「義経記」によれば義経一行は『根上の松から9k先の巖根宮(いわねぐう 能美市辰口町)に籠り、次に倶利伽羅峠で平家の霊を慰める経を読んだ。』と書かれています。

※1183年(寿永二年)、平維盛軍が源軍を破って北上するとき、加賀の井家二郎ら17騎が根上松付近で平家の大軍に包囲され討ち死にしたと伝えられています。
※巖根宮は、探すのに時間がありませんでした。

27日大河「安宅の関」

2005-11-28 00:14:52 | 大河「義経」
   (勧進帳を読む弁慶像は、史跡・安宅の関に隣接している住吉神社にあります)

今日の「義経」を見るために安宅関は、ぜひ見ておきたいと先日訪問しました。そして、ドラマ「安宅の関」を8時と10時の再放送と2回見てしまいました。
松平・弁慶の熱演に答えるかのように関守・富樫もよかった。二人のやり取りは見ごたえがあり、筋書きが分かっているのにハラハラしました。

「・・・それつらつらおもんみれば、大恩教主の秋の月は、涅槃(ねはん)の雲に隠れ、生死(しょうじ)長夜の長き夢、驚かすべき人もなし。・・・・」とむかし、聖武天皇の建立された霊場を再建するいきさつを、もっともらしく作り上げて、天にもひびけとばかり読み上げる弁慶。強力に変装した義経を富樫が見破るが、弁慶は「お前の盗み癖は直らぬか」と主君・義経を金剛杖で打ちつける弁慶の目に涙。それを見た富樫は弁慶の機転と忠誠心に打たれ、義経一行の関所通過を許す。

勧進帳の話は、色んな義経伝説を組み合わせて出来ているようです。安宅の関を通過するため、弁慶が単独で関守の富樫に会った。義経が見破られそうになり弁慶が義経を金剛杖で叩くのは「如意の渡し(富山県高岡市)」での出来事のようです。


安宅の関跡

2005-11-27 02:22:23 | 安宅の関コース
安宅の関は、常設の関ではなく義経を捕縛するためだけに設けられたものです。海岸際の松林の中にあります。松林が減っていくなかで800年以上前もこんな雰囲気だったろうと思わせるものがあります。
松林の中に与謝野晶子の歌碑がありました。
「松たてる 安宅の沙丘その中に 清きは文治三年の関」

弁慶謝罪の地

2005-11-26 00:58:31 | 安宅の関コース
1187年(文治三年)2月10日、義経一行は無事安宅関を通過した。そして、当道林寺で、弁慶は「主・義経を金剛杖で打った罪を心より謝罪した。
義経は「機知の働きは天の加護と」その忠誠心を厚くねぎらったと言う。ここがその伝説の地である。
(安宅の関より東に3kほどいった所にあり、道路に標識があります)


安宅の関 勧進帖

2005-11-25 01:05:46 | 安宅の関コース
              義経        弁慶         富樫
11月27日大河「安宅関」で放映される場面です。

1187年(文治三年)3月頃、山伏姿に変装した義経、弁慶一行が安宅の関を通過しようとした時、関守・富樫に義経一行と疑われる。その時、弁慶が東大寺復興勧進(寄付集め)のために諸国を回っていると勧進帖(趣意書)の空読みを行ったが、強力姿の義経を見て疑いをもたれるが、弁慶は「お前のような者がいるから疑われるのだ」と疑念を晴らすため金剛杖で主・義経を打ち据えました。
富樫は、弁慶の忠誠心に打たれ、義経と知りつつ主従の通行を許した。
(石川県小松市にあります)

泰産神社(たいさん) (仏御前)

2005-11-23 00:43:31 | 安宅の関コース
仏御前の原町から南に行くとありますが、それらしい標識も無く素通りして白山の方に行ってしまいました。あとで距離を測ると約2,5Kほどの距離でした。

仏御前が1176年(安元二年)の秋、京都から故郷の原村(現在は町)に帰って静に暮らしていた頃、安産を願って本社を創立したと伝えられています。

ここからまだ南(白山の方角)に行くと吉野谷村に木滑神社(きなめり)があります。ここは、仏御前が京から故郷・原村に帰る途中、清盛の子を出産する時に寄りかかった石が残っており、安産のお守りとして信仰されています。ここには時間が無く行けませんでした。

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20日大河「しずやしず」

2005-11-21 23:46:49 | 大河「義経」
静の存在は、義経の愛人と言うだけでとりわけストーリーに関係のない存在でしたが今回は、静の存在をアピールした最初で最後の出番でした。

佐藤忠信が、静を助けるために空の神輿を襲って討ち死にしました。
静は、頼朝に尋問されるが気丈にも問い返す「義経様は、戦にだけ利用されたのですか。」
義経の子供を生むが男児であったため取り上げられて殺される。気が狂ったように子供を捜す静しかしどこにもいない。
死人のようになった静に政子は「鶴岡八幡宮の祝い事に舞をまってほしい」と静は引き受けないだろうと思うが依頼する。静は、それを引き受けて見事な舞を披露する。
それは義経を思う恋の唄であった。
「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき」
「しづやしづ賎(しず)の小田巻くり返し昔を今になす由もがな」
そのとき、義経は静の思いを実現するために平泉に向かう途中、捕らえられようとするが敵を打ちのめす。
静の舞と義経の戦いが紅葉のまい散る画面の中で交互に映されました。

今回は、石原・静の演技のすばらしさにオープニングから終わりまで、引き込まれるように見入りました。そして、「義経」もあと3回です。
次回は、いよいよ安宅の関です。先日訪問した石川県小松市にある安宅の関をアップします。