源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

書写山と和泉式部

2014-05-20 11:51:22 | 源氏物語
書写山に和泉式部がお参りしていました。歌碑などがあります。

ロープウエイを降りて、バスで10分ばかり行くとお堂があります。書写山の中心地です。

摩尼殿(まにでん)
清水の舞台を思わせるような雰囲気があります。昭和に再建された建物です。摩尼殿は、後白川法皇が参詣されたときに命名されました。





和泉式部歌碑(開山堂にあります)



 (クリックで拡大表示されます) 



ロープウエイを降りたところに、書写山と和泉式部の関係が絵で紹介されています。






詩は和泉式部 小説は紫式部




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書写山 弁慶の史跡

2014-05-03 02:42:10 | 源平の史跡
大河ドラマ「軍師 官兵衛」のロケ地で注目を集めた姫路市書写山に弁慶の史跡があります。弁慶は人気があるのか全国いたるところに弁慶伝説が語り継がれています。

書写山三つの堂
大河官兵衛のドラマの中で、秀吉の本陣として登場して、官兵衛と半兵衛が話をしている場面でも使われていました。史実としても、秀吉は、官兵衛の進言によって播磨平定のための本陣をここに置き、官兵衛、竹中半兵衛とともに軍議を行いました。


弁慶鑑井戸





弁慶学問所





弁慶のお手玉石






書写山の地図は  こちらから




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平家物語の瀬尾兼康公

2014-05-02 12:18:44 | 源平の史跡
瀬尾兼康公(妹尾 せのう)は、倶利伽羅峠の戦いで捕えられ、板倉城の戦いで死亡しました。平家物語「倶利伽羅落」「瀬尾最後」には、次のように書かれています。(抜粋)


 「倶利伽羅落」  
さて、源平は向かい合って陣を構える、両陣の間は約300mばかり。

・・・・

しだいに暗くなってきたので、源氏の北と南の両方からまわった、搦手(からめて)の軍勢一万余騎は、倶利伽羅の不動明堂のあたりで合流しどっと鬨の声をあげた。平家軍がうしろを振り返ると白旗が雲のようにさしあげられている。・・・・・・
木曽義仲の一万余騎は大手から、砺波山の一万余騎、日の宮林に控える今井四朗が六千余騎で全軍勢を合わせると約四万騎の喊声(かんせい)が、山も川もただ一度に崩れるように轟いた。

・・・・・・・・

平家の崩れかかった大軍は、総崩れとなって、倶利伽羅が谷へと我先にと馬を乗りおろしていった。こうして、深い谷は、七万予騎の平家の軍勢で埋めてしまった。
平家方では、主力の大将たちがこの谷で死に、備中国住人瀬尾太郎兼康という評判の高い太刀の勇士も、そこで加賀国住人倉光次郎成澄(なりずみ)によって捕虜にされた。平家の七万余騎の軍勢のうち逃げられたのは、わずか二千余騎であった。


 「瀬尾最後」 
平家の侍、備中国住人瀬尾太郎兼康は、北国の戦いで生け捕りにされた。そして、生捕った加賀国住人倉光の弟:三郎に預けられた。兼康は、評判の高い剛毅な者であり、大力であったので、
木曽殿 「ああ、この男を失っては惜しいことだ」と言って、切らなかった。

・・・・・

兼康は、つねに相手に従いながら、なんとかして敵の隙をうかがい、打ち取って、もう一度、前の主人(平清盛)にお会いしたいと思っていた。

・・・・・・

ある時、兼康は、三郎に
「今後、合戦がございましたら、まっさきに戦って木曽殿に命をさしあげましょう。兼康が領有していた備中の妹尾(せのお)は、馬を飼う牧草の豊かなところです。」
三郎は、このことを木曽殿に申したら、木曽殿は「それでは、瀬尾を案内者として、まず下って、馬草などを用意させよ」
三郎は、30騎ばかりの兵を引き連れ兼康を先頭にたてて、備中へ下っていった。・・・・・
兼康の嫡男:小太郎宗康は、父が木曽殿に許されて下ってくると聞いて、郎党五十騎ばかりで迎えに行き、播磨の国府(兵庫県姫路市)で出会い、備前国三石(岡山県備前市三石)の宿で一緒に泊まった。そして、その夜、倉光三郎と家来に酒を振る舞い、酔いつぶして、一人一人みな刺し殺してしまった。

・・・・・

木曽殿が攻めてくるので、備前、備中、備後の年老いた兵2千余人を集め、瀬尾太郎を先頭に、備前国の福隆寺(岡山市北部)に櫓を建て、木曽殿が攻めてくるのを待ち受けた。・・・・・

今井三郎は、3千余騎の兵で兼康の陣取る櫓を攻めた。今井軍は、郡をなして攻め入り、一日中戦い続けた。夜になって、兼康の守る砦は破られ、退却して備中国板倉川(岡山市高松)のほとりに防御陣地を築いたがそこも破られ、我先にと落ちて行った。

・・・・・・・・

兼康は主従3騎になるまで討たれてしまい、板倉川に沿って落ちて行くと、倉光次郎が追いかけてきて取っ組み合いになって、川に落ちた。倉光は泳げなかったので兼康は、三度刀を刺して、倉光の首をとった。そして、倉光の馬で落ちて行ったが息子:小太郎は、徒歩で落ちて行ったが、あまりに太っていたので、1町(約100M)も走ることはできなかった。父:兼康は息子をうちすて十町(約1000M)も逃げ延びた。

家来は「たとえ逃げ延びても、後に、息子を見捨てて逃げたと言われるので、どうかお引き返えしください」
兼康は、「それでは」と引き返し、息子に「同じところで討死しよう」と言った。

そこへ、今井四郎が五十騎ばかり引き連れ追いかけてきた。兼康は、矢で次々と射落として、その後は、刀を抜いて、まず小太郎の首をはね、敵の中に割って入って多くの敵を打ち取ったがついに討死してしまった。その首は、備中国鷺が森(倉敷市の北部かと)に晒された。
木曽殿 「あっぱれ、剛の者よ。これこそ一人当千(いちにんとうせん)の兵というべきだ。惜しいことに、この者どもを助けられなかった」と言われた。


(参考資料:杉本圭三郎訳 平家物語巻第七)


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※瀬尾太郎兼康は、妹尾とも言われています。、平家物語は、勝った源氏側から見た様子を描いていますので、瀬尾太郎兼康は、相手をだましたり、息子を置き去りにして自分だけ逃げたりと、あまりいいようには書かれていません。しかし、息子置き去りは、戦いの最中で、当然、息子も馬に乗って逃走している思っていたが、そうではなかったので、死を覚悟して引き返し、息子ともども討死したと思われます。また、十二ケ郷用水を築いたと伝えられており、農業の恩人と慕われています。平家物語や演劇での悪役とは違った人物ではなかったかと思われます。


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