大河ドラマ33回目、清盛の50歳を祝う宴が催されました。清盛が太政大臣となった時で、一門がもっとも繁栄してい時でした。
その席に突然毛むくじゃらの忠度が現れる。そして、忠度は、席に参加していた貴族と歌で勝負をし、堂々と相手を打ち負かすのであった。
今回は、平 忠度について2回に分けて掲載します。
平忠盛の六男で清盛の異母弟にあたり、清盛より26歳年下で清盛兄弟の末弟です。薩摩守で、歌人としても優れた才をもった武将です。1184(元暦元)に一の谷合戦に敗れて死去、享年41歳。
平家物語に忠度は、巻第5「富士川」、巻第七「忠度都落」、巻第九「忠度最後」に出てきます。
第5「富士川」では、副将軍として紺地の錦の直垂に黒糸縅(くろいとおどし)の鎧を着てと凛々しい武将姿がえがかれています。そして、当時付き合っていた女性から別れの辛さを歌った歌をおくられ、それへの返事として
「別れ路を なにかなげかん こえてゆく
関もむかしの 跡と思えば」と返しています。
(この別れをどうして嘆きましょう。越えてゆく関も、むかし先祖が征討(平将門追悼のために東国に行ったこと)にゆき、勝利をおさめたその跡とおもいますと)
「忠度都落ち」 1183年(寿永2)、平家一門が都落ちした後、忠度は都へ引き返し、歌の師匠であった藤原俊成のもとへ引き返し自分の歌が百余首おさめた巻物を俊成に託した。俊成は、千載集の歌を選んだ時、忠度の歌を詠み人知らずとして載せています。
「さざなみや 志賀の都は あれにしを
昔ながらの 山ざくらかな」
(志賀の旧都は今はすっかり廃墟となってしまったが、長良山の山桜ばかりは、昔にかわらず咲いていいます)
討ち取られた忠度の体は、腕と胴が別々に埋葬されました。その塚が神戸と明石にあります。
今回は、明石の忠度の史跡を紹介します。
明石にある忠度の腕塚神社(地図)
昭和53年の町名変更で、右手塚町(うでづか)と呼んでいた町名が天文町に変更されました。約1000年近く続いた忠度に関係する町名が無くなったのは、さびしいですね。
胴塚(地図)
忠度歌碑(旅宿の花)
胴塚内にあります。
「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば
花やこよひの 主(あるじ)ならまし」
(旅路に日が暮れて、桜の木の下陰を一夜の宿とすると、花が今夜の主人となってもてなしてくれることでしょう。)
忠度公園(地図)
このあたりを忠度町といっていましたが、町名変更で天文町となり、1000年も前の人の名の町名が消えるので、名残として公園にその名を残したのではないかと思われます。公園に、忠度の史跡などはありません。東200mの所に胴塚があって、北東へ約300mの所に腕塚神社があります。
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