鶴岡八幡宮の東隣に頼朝の墓があります。
頼朝墓への階段
階段の手前に白旗明神があります。
頼朝墓へ行く途中に畠山重忠屋敷跡があります。
鶴岡八幡宮の東隣に頼朝の墓があります。
頼朝墓への階段
階段の手前に白旗明神があります。
頼朝墓へ行く途中に畠山重忠屋敷跡があります。
北条政子が掘らせたと伝わる池。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。源氏池の島には旗上弁天社があります。
太鼓橋
太鼓橋の右にある源氏池に通じる橋と源氏池
旗上弁天社
源氏池の島にある。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。
政子石 夫婦円満の祈願石で姫石ともいいます。
右石碑は源平池について書かれていますが読めません。
平家池
平家池が望めるようにある喫茶:風の杜
鶴岡八幡宮の各施設がわかる境内の配置図です。
施設案内へと入ってください。 (クリック)
源頼朝公 (1147~1199)
源頼朝公は、1147(久安3)年、源義朝の第3子として京都で生まれました。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘といわれています。
13歳で初陣した1150年の平治の乱で敗れ、伊豆国蛭ヶ小島へ流罪となり、20年の歳月を伊豆で過ごします。
1180(治承4)年8月、平家打倒に立ち上がり、そして、1180(治承4年)年10月、父・祖以来源氏ゆかりの地である鎌倉へ入りました。 そして、鶴岡八幡宮を祀って源氏の氏神とし、同時に鎌倉の中心にすえて鎌倉の街造りを進めました。
1185(文治元)年の春、壇ノ浦で平氏を滅ぼし、“鎌倉殿”として武家政権の基盤を築くことになります。
1192(建久3)年、征夷大将軍に任ぜられ、1199(正治元)年正月13日、病でこの世を去りました。享年53歳。
(参考資料:鶴岡八幡宮HP)
(源氏山公園銅像)
ここからは、鶴岡八幡宮の施設を紹介します。
舞 殿
静御前が、義経を慕う歌を舞ったところ。
吉野山峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
静や静しずのおだ巻きくり返し 昔を今になすよしもがな
頼朝は、その舞に怒りましたが、妻:政子が「私が静御前であっても同じように舞ったでしょう」と言って頼朝の怒りを静めました。『吾妻鏡』には、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし。上下みな興感を催す。」と書かれています。
実際に静御前が舞ったのは若宮廻廊で、舞殿はその若宮廻廊の跡地に建てられています。
若宮 武内社
御祭神は武内宿禰命。神功皇后の功臣、長命な神様として知られている。
神輿
大銀杏
樹齢1000年といわれ、高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートルあります。
2010(平成22年3月10日)、強風によって倒れました。現在は植え替えられています。
鶴亀石
白旗神社 由比若宮遥拝所(ようはいじょ)
白旗神社 源頼朝公、実朝公がお祀りされており
由比若宮遥拝所 八幡宮の元宮である由比若宮(材木座に鎮座)を、ここからお参りするところです。
鶴岡八幡宮の文学案内板
鶴岡八幡宮本殿
当宮は1063(康平6)年、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、1180(治承4)年、鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 1191(建久2)年には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。
また、頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。 以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。 当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となりました。
現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されています。
(参考資料:鶴岡八幡宮HPより HPはこちらから)
商店街近道 二の鳥居
段葛(だんかずら)
政子の安産を祈願して造られた参道で、若宮大路(史跡)の中心部となります。
三の鳥居 太鼓橋
神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目1-31 (地図)
一の谷の合戦の際には源義経が祈願したといわれている、神戸市須磨区にある日本最古の厄除神社です。須磨に流された在原行平も参拝したと言われています。
770年(神護景雲4年)に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡宮は古山陽道の摂津と播磨国の国境に位置していたため、その一つとして疫神が祀られたと伝えられています。
本殿 厄除塚
階段 御由緒
地図は こちらから 神戸市須磨区多井畑字宮脇1
1184(寿永3)年、平家のたてこもる西の門からわずか離れたこの塩屋の地は、激しい戦いがあり、多くの兵士が死亡しました。この地の人たちは、戦死者の霊を弔うために、ひっそりと葬り、供養塔を建てました。
兵庫県神戸市垂水区塩屋町梅木谷(地図は下にあります)
この場所は、ひっそりと葬ったとあるように、大変わかりずらいところです。
下の案内板は、山王神社にあるものでそこから行きますとすこしは、
分かるかと思います。木と草の生えた茂みの中にありました。
上の地図には、亀光神社とありますが、建物はなく、下の亀光大明神の石碑があるだけです。
●の場所に下右の標識があります。この茂みの突き当りに左写真の亀光大明神の石碑がり、そこを下に降りてゆきます。
※亀光大明神(きっこうだいみょうじん)には、昔、塩屋の浜に大きな海亀が現れ、その亀を山に上げて祀ったという伝説が残っています。
詳細地図は こちををご覧ください。