源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

小宰相と通盛のなれそめ

2006-02-25 01:33:52 | 一の谷の合戦
兵庫県神戸市にあります。      二人の石塔の前にあります。
            (通盛正室 子供諸々霊 小宰相殿成人侍女 諸々の霊)

【 平家物語 小宰相身投その2 】

北の方とは、頭の刑部卿憲方(とうのぎょうぶきょうのりかた)の娘で、宮中第一の美人の評判の高い、名を小宰相と申す方であった。通盛は彼女を一目見て恋慕の思いをいだき、はじめは歌を詠み、次に手紙を書いたが無視されてしまった。

こうして三年が過ぎ、通盛はこれが最後と小宰相に手紙を届けさせた。使いのものは、小宰相の御車の中に手紙を投げ入れた。彼女は捨てるわけにもいかずに持っていたが女院の前で落としてしまった。女院が読んでみると一首の歌があった。
我が恋は細谷河のまろ木橋 ふみかへされてぬるる袖かな
(私の恋は細い谷川にかかる丸木橋のようなもの、幾度も踏み返されて水に濡れるように、文を返されて悲しみの涙に袖も濡れています)
その歌に女院自身が返された
ただたのめ細谷河のまろ木橋 ふみかえしてはおちざらめやは
(ただいちずに頼みとしていなさい、細い谷川の丸木橋を踏み返すなら落ちないことがないように、返事の文を返すからには、お心に従わないことはありません)

容貌の美しさは幸せのもとなので、通盛は彼女を賜って、深い愛情で結ばれることとなった。そして、ついに同じあの世への道につかれたのであった。


小宰相身投その1

2006-02-24 00:52:23 | 一の谷の合戦
                兵庫県神戸市 願成寺にあります。

【 平家物語 小宰相(こざいしょう)身投その1 】

通盛死亡の知らせを聞いた北の方(通盛の妻:小宰相)は悲しみで起き上がりもしなかった。14日、屋島に着こうという日の前の宵まで臥しておられたが夜更けに乳母の女房に言われた。
「誰もが湊川の川下で討たれたという。戦いに出て行こうという前夜、仮屋でちょっとお会いしたのが最後だ。妊娠したことを話したら、喜ばれて男子であってほしいと言われた。今となっては、幼い子を亡き人の形見として見たいけど、幼子を見ると悲しみは増しても、慰められることはない、死はのがれられない道です。」

乳母の女房がうとうとと寝られたすきに、船端へ出て、声を忍ばせて念仏を百篇ほどお唱えになり
「むつまじい仲のまま別れた夫婦を、かならず極楽浄土の一つ蓮の上へお迎えください。・・・南無」と唱える声とともに、海に身を投げた。

乳母の女房が目を覚まし、探したが何処にもいない、身を投げられたと思い海上を探したら、しばらくして引き上げられた。しかし、一言の返事もなされず、かすかに通っていた息も途絶えてしまった。そのままにしておけないので、通盛の鎧で包んで海に沈めた。乳母の女房が一緒に海に入ろうとしたのでひき止めた。女房は髪を切って北の方の後世を弔った。

昔から、夫に先立たれた妻は、出家するのが常であり、身を投げるのはまれである。忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえずと言うのは、このようなことを申すのだろう。

漂流

2006-02-22 03:04:23 | 一の谷の合戦
                     淡路島の絵島

【 平家物語 落足その3 】
戦いに敗れたので、安徳天皇をはじめ生き残った者は皆、御船に乗って海上に出た。
潮にひかれ、風にのって紀伊路へ向かう船や葦屋の沖で波に揺られている船もある。あるいは、須磨から明石へ浦づたいに進むものあるいは淡路の海峡を漕ぎ渡り絵島の磯にただよう船、一の谷の沖で揺られる船など停泊のあてのない船路の夜であった。
このように風にまかせて、浦々島々を漂って行くと、たがいに生死もわからない。

国を従えること十四ヶ国、軍勢を結集したこと十万余騎、一日で都に行けるほどに近づいたこともあったので今度こそはと期待していたが、一の谷も攻め落とされ人々は皆心細くなられた。




平家の戦死者

2006-02-20 00:23:50 | 一の谷の合戦
           経俊の墓(鎮守稲荷境内)            師盛の墓(石水寺)

【 平家物語 落足その2 】
備中守師盛(もろもり)は主従七名で小船で逃げようとしたところへ新中納言の家来:清衛門公長(せいえもんきんなが)が「お乗せください」と申し出たので船を渚にこぎ寄せた。大の男が鎧を着たままでがばっと飛び乗ったので船はぐるっとひっくり返ってしまった。そこへ、源氏方の畠山の郎党:本田次郎が一四~五騎で駆けつけ熊手で引き上げ師盛の首を斬ってしまった。生年14歳であった。

東西の城門での合戦は、2時間をこえるくらい続いた。矢倉の前、逆茂木の下には人馬の死骸が山をなし、一の谷の笹の原は、緑の色が薄紅になった。源氏側が斬って首をさらされた者は2千余人であった。


平家の主な戦死者は、越前三位通盛、弟の蔵人大夫業盛( くらんどたいふ)、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清貞、淡路守清房、修理大夫経盛(つねもり)の嫡子皇后宮亮経正(すけつねまさ)、弟の若狭守経俊(つねとし)、その弟の大夫敦盛、以上10人と言うことであった。


源平勇士の碑

2006-02-19 01:17:41 | 一の谷の合戦
              源平勇士の碑(兵庫県神戸市)

【 平家物語 落足その1 】
山の手の大将軍であった、越前三位通盛は兜の内側を射られ、弟の能登守教経(のりつね)とは離れてしまい、静かなところで自害しようと落ちて行かれる所を近江国の木村三郎成綱や武蔵国の玉井四郎など七騎に取り囲まれ、ついに討たれてしまった。

※平知章は2月17日「知章最後」に記載しています。
 猪俣小平六は2月9日「越中前司最後」に記載しています。

息子にもらった命:知盛

2006-02-18 01:12:34 | 一の谷の合戦
【 平家物語 知章最後その2 】

父:知盛をかばって知章は戦い、身代わりとなって討ち死にしました。

知盛は、名馬に乗っていたので海上を二十余町泳がせ宗盛の船にたどりついた。船には馬を乗せる余地がなかったので渚へ追い返した。馬は、主人との別れを惜しんでいたが、船の方を振り返り二、三度いなないて陸に上がった。この馬は、もとは院の秘蔵の名馬であった。

新中納言は、大臣(平家の棟梁:宗盛)の前に来て
「知章に先だたれ、太郎も討たれた。どこの親が子が討たれるのを助けずに逃げるでしょう。わが身のこととなると命は惜しいものと思い知らされました。しかし、本当にはずかしいことです」さめざめと泣かれた。大臣はこれを聞いて
「武蔵守知章が、父の命にかわられたのはけなげなことだ。腕もきき、心も剛毅で、よい大将軍であられた人なのに、息子:清宗と同じ年の十六であったな」
その座に居並んでいた平家の侍たちは、みな鎧の袖をぬらしたのであった。



知章の墓

2006-02-17 01:32:39 | 一の谷の合戦
兵庫県神戸市にあります。    平知章の墓               監物太郎の墓

【 平家物語 知章最後その1 】

新中納言知盛は、生田の森の大将軍であったが、その軍勢は皆逃げてしまい、子息の武蔵守知章と家来の監物太郎頼方だけとなってしまい、助け舟に乗ろうと渚の方に逃げていかれた。そこへ、児玉党と思われる十騎ばかりの軍団が追っかけてきた。

監物太郎は、弓の名手であったので、真っ先に進んできた者をひゅーと射て、馬から射落とした。大将と思われる者が駆けつけ、知盛に組付こうとしたので息子の知章が間に入ってその大将らしき者に組みつき、どーっと馬から落ちたところを首を斬り落とした。しかし、相手の童がかけつけ知章を討った。

監物太郎は、その童の上に落ち重なって討った。そののち太郎は矢のある限り討ちつくし、刀を抜いて闘ったが左の膝がしらを射られ立ち上がれず座ったまま討ち死にした。

※知章の墓は、明泉寺内にあります。
 

平業盛(なりもり)討ち死に

2006-02-16 02:43:52 | 一の谷の合戦
               善光寺別院にある平業盛塚

【 平家物語 知章最後 】

門脇中納言教盛(のりもり)の末子:業盛は、源氏側の土屋五郎重行と組み打ち討たれた。
修理大夫経盛(つねもり)の嫡子:皇后宮亮経正(こうぐうのすけつねまさ)は、船に乗ろうと渚まで来たが、源氏側の小太郎重房軍に囲まれ討たれた。
若狭守経俊(つねとし)、淡路守清房、尾張守清貞は、三騎連れ立って敵の中に攻め入り大いに闘ったが、同じところで討ち死にした。

※知章最後の最初のところに書かれており業盛は、当時17歳であった。

重衡生捕(しげひらいけどり)

2006-02-15 02:02:45 | 一の谷の合戦

【 平家物語 重衡生捕 】

本三位中将重衡は生田の森の副将軍であったが、軍勢は皆逃げ主従2人になられた。源氏の梶原源太景季(げんたかげすえ)と四郎高家(たかいえ)は、重衡を見つけ追っかけた。

重衡は、後ろから敵が追ってくるので、湊川、刈藻川(かるも)を渡り、蓮の池を右手に見て、駒の林を左手に、板宿、須磨も通り過ぎ、西に向かって逃げた。追っての源太景季は、追いつかないので弓を放ったら重衡の馬の三頭(さうつ)に当たった。家来の後藤兵衛盛長は、重衡の馬が弱ってきたのを見て、鎧につけていた平家の赤印を捨て逃げてしまった。

重衡は、もう最後と思い馬から下りて兜をぬぎ、腹を切ろうとなさった。そこに、四郎高家がかけつけ、
「それはいけません」と自分の馬に乗せて味方の陣に帰っていった。

後藤兵衛盛長は、逃げ延びた。重衡の乳母子(めのとご)であったので、上京したさいに「恥知らずの
盛長よ。重衡と一緒に死にもせず」と非難されたので、扇で顔を隠したと言うことである。

※・三頭とは、馬の尻のほう。
・重衡の逃げた地名は今も残っており東の砦:生田の森から海岸沿いに西の砦: 一の谷近くまで来た。