源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

仏御前(ほとけごぜん 石川県)

2012-10-30 11:50:07 | 源平の史跡

平家物語巻一「妓王」に仏御前の話は出てきます。

清盛の愛人:妓王を追い出すほどの美貌と美声と美しい舞のできる白拍子であった仏御前は、石川県小松市原町の出身です。
仏御前14歳の1174(承安4)年に京都にのぼり、16歳のとき、清盛の前で今様を歌い、舞を舞った。そして、清盛の関心が仏御膳に傾いて、妓王に変わって清盛の愛人となる。

妓王は、清盛屋敷を出るとき、ふすまに一首、書き残して去っていきました。
萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき
春に芽を出す草木も(仏御前)、冬にはかれる草木も(妓王)、同じ草木です(白拍子)。いずれは秋に枯れ果てるでしょう(清盛に飽きられる)。


仏御前は、3年後、いつか自分も妓王のように追い出されるだろうと思い、清盛の元を離れて、仏門に入り、嵯峨野に住んでいた妓王と妓女(姉妹)の住んでいるところで一緒に生活をしました。
1178(治承2)年に故郷の加賀国(石川県小松市)に帰郷し、1180(治承4)年8月に没した。享年:20歳。
墓所は小松市原町にあって、今でも村人が彼女のお墓を守っています。


仏御前の像を安置している家 地図
石川県小松市原町ト24

 


仏御前のお墓



泰産神社(原町にあります)
安産のお守りとして仏御前が建てました。



正覚寺 地図石川県小松市松任町
仏御前が、清盛の元を去るとき、「靴を履いた珍しい阿弥陀像」を与えたと
言われています。
その「履行阿弥陀如来像(くつばき)」と仏御前像が安置されています。



小松市は、安宅の関のあるところです。又、プロ野球松井選手の出身地で松井選手の野球館は、当地の一大観光スポットです。

 


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妓王 妓女 (滋賀県編)

2012-10-25 02:51:14 | 源平の史跡

小宰相の話がでましたので、清盛の愛人の話を紹介します。妓王・妓女の滋賀県の史跡を再びアップします。

妓王の出身地は滋賀県で、屋敷跡と妓王寺があります。

 

祇王寺

仏壇

 

妓女 妓王   自刃(じじ:母) 仏御前(左から) 

 

妓王供養塔

 

村で管理しておられるので、参拝には、事前に連絡しておく必要があります。
077-587-3910(野洲市観光物産協会)


(案内図をクリックで拡大図) 地図

 

屋敷跡
妓王寺の近くにあります。

 

妓王井川は、妓王が清盛に願い出て、故郷の水不足を解消するために作られて川です。現在まで村人達によって守られています。

 

 

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岩屋神社 大和島 (淡路市岩屋)

2012-10-17 02:21:20 | 淡路島

今回は、淡路島の源平の史跡を紹介していますが、源平とは関係ありませんが、淡路島の源平の史跡を廻ったついでに行った岩屋神社と大和島を紹介します。

岩屋神社 創祀年代は不詳。
神功皇后(170ー269年)の三韓征伐のおり、対岸の明石垂水の浜で風波にあわれ、渡海に難渋し、風待ちのため、岩屋に着岸。三対山上の石屋明神に参拝し、戦勝を祈願され、「いざなぎやいざなみ渡る春の日にいかに石屋の神ならば神」と詠じ給うと、風波が止み、海上は静まったと言う言い伝えがあります。
(神社内説明書より)

※三韓征伐とは、古事記、日本書紀に書かれており、朝鮮半島に出兵して、新羅、高句麗、百済を降伏させました。年代は確定していません。この神社は、神功皇后の200年ころにはすでにあったということです。
絵島明神の絵島とは、ここから歩いて5分くらいの岩屋港にある小島の名前。

本殿

 

岩屋神社謂れ

 

 正面入口


東入口

 

大和島
絵島のすぐ南、岩屋神社の東側にあります。

 

大和島から見た明石海峡大橋

 

天離る 夷の長道ゆ 恋ひ来れば
   明石の門より 大和島見ゆ  

        柿本人麻呂

 

岩屋神社 大和島 (地図
淡路市岩屋字明神799  

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静の里公園 (静御前墓地 淡路市志筑)

2012-10-14 02:54:02 | 源平の史跡

静の里公園内には、静御前と義経の墓があります。

静御前は、義経の死後、淡路島の志筑辺りに住んで義経の供養をしました。

左静御前墓  右源義経の墓

 

 静御前墓碑


墓碑の後ろにある木
 


 

静の里公園入口


 

 


静御前と義経を偲んだ花壇:しずのおだまき
左は、肉厚植物でで義経の勇気と強さを
右は、低く枝垂れる植物で静御前の思いやり優しさを
表しています





 

静の里公園 (地図
淡路市津名町志筑795-1


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福田寺 (淡路市志筑)

2012-10-13 13:24:59 | 源平の史跡

静御前は、義経亡き後、尼になって淡路島の志筑のこの福田寺に住み義経を供養しました。このお寺の隣りに静御前と義経のお墓があります。今は、静の里公園として管理され多くの人々が参拝に訪れています。

福田寺

 

静御前石碑

 

福田寺 (地図
兵庫県淡路市志筑


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志筑神社 (しずき 淡路市志筑)

2012-10-13 02:40:34 | 源平の史跡

静御前にゆかりのある神社ですが、特に静御前に関係したものはありません。ここより東に行った所に静御前のお墓があります。

当地は、平安時代は平家領で、鎌倉時代は、静御前と関係のある一條中納言家の荘園でした。


本殿

 

奥宮

 




入口の鳥居

 

境内入口

ご神木

 

    粟島神社             北野神社
 


志筑別神社

志筑神社のすぐ近くにあります。大きな御神木があります。

 

極楽寺
志筑別神社の前にあります。名前がいいので写しましたがどんな謂れのあるお寺なのかわかりません。

 

志筑神社 (地図
兵庫県淡路市志筑天神907  

 

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絵島(淡路市岩屋)

2012-10-11 02:30:24 | 源平の史跡

絵島は、淡路島の北端にあって、昔から月の名所として知られ、和歌に歌われ、平家物語にも出てきます。
また、別名「おのころ島」と呼ばれ。古事記や日本書紀の国生み神話に 登場する「おのころ島」は、この島のことで日本最初の国土とも言われています。

絵島全景(後ろに明石海峡大橋が見えます)

 

約2000万年前の岩肌が露出しています。
800年くらい前の清盛の時代もこのような島の姿だったでしょう。

 

西行法師の歌

平家物語巻五「月見」 杉本圭三郎訳
(治承4)年秋、福原の新都におられる人々は、名所の月を見ようと、ある者は源氏の大将(源氏物語の光源氏)の昔を偲んで、須磨から明石の浦伝いに行き、淡路の海峡を渡って、絵島の磯の月を見る。(下の説明板に書かれています)


岩の上に厳島神社があり、鳥居の上に鳥がとまっています。
大輪田の泊りの改修工事に際して、難工事であったため。龍神の怒りを治めるため、清盛の小姓:松王丸が自らすすんで人柱となりました。松王丸を偲び、供養塔を建てました。

 

 

絵島から見た岩屋港と明石海峡大橋
人を乗せる高速艇が明石港に向かって出港しています。橋ができるまでは、この左側からフェリーが車を乗せて明石港との間を往復していました。

岩屋港にある「源平の名の店」(刺身は美味しいです)
 

絵島 (地図
淡路市岩屋

 


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煙島(南あわじ市 福良湾内)

2012-10-09 11:34:32 | 源平の史跡

淡路島の南端にある福良湾にある小さな島:煙島(けむりじま)の紹介です。

1184(寿永3)年2月、一の谷の合戦で敗れた平経盛(つねもり 清盛の弟)は、屋島に向かって逃げる途中、福良湾で休んでいると一の谷の戦いで熊谷直実に首を切られた敦盛の首が届けられた。経盛は、煙島で敦盛の首を荼毘にふし、煙が立ち上ったので煙島と言われています。
島には、海に面して鳥居がたっており登って行くと厳島神社と敦盛の首塚と言われる石の祠があり、また、安徳天皇が7日間滞在したと言われる跡もあるらしいです。

 

平家物語巻九「落足(おちあし)」 (平家敗走  経盛も)
1184(寿永3)年2月の一の谷の合戦で敗れた平家軍は、みな御船に乗られたて海上にお出になる。風にひかれて紀伊路へ向かう船、あるいは須磨から明石浦づたいに進むもの、また、淡路の海峡を漕ぎ、絵島が磯に漂って、波間をかすかに鳴き渡る群れからはぐれた小夜千鳥の声をきいて・・・・一の谷も攻め落とされた人々はみな心細くなられた。
※一の谷合戦で敗れた平家がばらばらにあわてふためき逃げていく様子が描かれており、経盛もその中にいたと思われます。

平家物語巻九「敦盛最期」
熊谷直実は、敗れた平家を追って磯の方に馬を進めると立派な鎧を着、馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船めざして、・・・・。熊谷が扇をあげて招くと武者は引き返し、なぎさで馬を押し並べて組み付きどうと落ちて取り押さえた。甲をあげてみると年は16~7、薄化粧をして歯を染めているまことに美しい若武者であった。わが子を思い出して助けようとしたが、若武者は「ただすみやかに首をとれ」と言われた。・・・・・・後で聞くと経盛の子息敦盛で笛の名手として知られていた。熊谷直実が仏門に入ったのは、敦盛を討ったのが原因で敦盛供養のためと言われています。
※金覆輪とは、鞍(などの縁飾りに、金または金色の金属を用たもの。

 

福良湾遠景

 

岸からの最短距離(約150m)から見た煙島
無人島で船を予約しないと渡れません

 

島の左に鳥居が見えます。

 

煙島  (地図
南あわじ市福良湾内

 

 

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平家一門の供養碑(淡路島 花さじき)

2012-10-07 13:17:23 | 源平の史跡

淡路島の花さじきにある平家の供養碑を紹介します。

一の谷の戦いで敗れた平家の武士たちは、領地であった淡路島に逃れるが追ってきた源氏軍と現在の夢舞台あたりで戦いがあり敗れてしまいました。そして、山の中に逃げ、花さじきあたありで隠れ住み、自分たちの大将であった平通盛や一門の人の供養のために造ったと言われています。
このあたりには今でも、「平(たいら)さん」という家があり、平家に関係のある地名や伝説が残っています。

 

平家供養碑

 

石碑には何も書かれていません

 

 

花さじきから見た景色


史跡は、花さじき案内所の裏側にあります。
あわじ花さじき  (地図
淡路市楠本2865-4

 

 

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お局塚 小宰相供養碑(淡路島 南あわじ市伊加利)

2012-10-05 11:32:24 | 源平の史跡

10月1~2日に淡路島の源平の史跡を訪ねました。

最初は、南あわじ市伊加利にある小宰相(こざいしょう)の塚:お局塚の紹介です。

1184(寿永3)年、小宰相は、夫:通盛(みちもり)が一ノ谷の戦いで討ち死(享年32歳)にすると、鳴門海峡で船から身をなげ、夫の後を追いました。享年19歳

小宰相は刑部卿藤原憲方の娘で、絶世の美女と歌われた小野小町に例えられるほどの宮中一の美人であった。平通盛の妻。通盛は、清盛の弟:平教盛(のりもり)の息子。

平家物語巻九{小宰相身投」
通盛の家来が北の方(小宰相)の船に参って、「ご主君(通盛)は湊川の川下でお討たれになられました」と伝えると北の方は、なんともご返事もなさらず、衣をひきかぶって泣き伏された。・・・・

八島につく前の宵に、北の方は船端へ出向き、漫々とひろがる海上の月の沈む山の端を西方浄土と思われたか念仏を百遍ほどお唱えになり「南無西方極楽世界の教主、阿弥陀如来、ご本願のとおり浄土へ導きくださって、むつまじい仲のまま不本意に別れた夫婦を、かならず極楽浄土の一つ蓮の上へお迎えください」と、泣く泣くはるかかなたに向かってかきくどき、「南無」と唱える声とともに、海に身を投げお沈みになった。・・・・・人々は救出に務めたが、その甲斐もなく、北の方は息絶えた。夫:通盛の鎧を身にまとわせ海に沈めました。

※刑部省(ぎょうぶしょう) 罪人を裁く部所で郷はそこの長官。

お局塚全景

 

小宰相供養碑

 

身を投げた鳴門海峡

 



洲本から28号線で養宜上(ようぎかみ)を右に(うずしおライン)→志知→伊加利交差点(お局塚入口の標識)を右に曲がり北上して約1500mで次の参道入口の標識があります。


参道入口の小さな標識を見落とさないようにしてください。

 

お局塚の場所は山の頂上にあります。(中腹からの景色)
健脚者で約20分以上はかかります。道は舗装されてますので、
注意して登れば、車でも可能です。塚の前に駐車できます。


お局塚の地図は→こちらから 
南あわじ市伊加利

 

 

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