源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

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丹波道を駆け抜ける⇒義経伝説ツアー埼鹿寺(はしかでら)

2012-03-31 02:10:02 | 平清盛

いよいよツアーも最後の史跡:埼鹿寺です。ここは、行ってないところですので楽しみです。

コスミックホールでバスを小型2台に乗り換えます。道路が狭いので大型バスでは無理なんです。

掎鹿寺(はしかじ)
三草山合戦のあと、義経は5日にこの寺で戦勝の宴を開いて、翌6日に、軍を二つに分けて、土肥実平(どいさねひら)軍は、一の谷に向かわせ、義経自身は、少数を率いて鵯越に向かったと言われています。
(参考資料:野村貴郎先生著 鵯越の逆落し)

 掎鹿寺にある川柳の庭

 

 

       掎鹿寺納経所           塔
 

 

掎鹿寺本堂

 

         本尊          二匹の白鹿
 

 

掎鹿寺の横を通っている義経道 ここから鵯越に行きました

 

道の駅とうじょう(おみやげを買ったり 最後の一休み)

 

ツアー参加のおみやげに加東市名物の伝之助うどん(4食分)とカレンダーが
全員に配られました。

 

このツアーは、神戸新聞旅行社が募集したものですが、加東市観光協会から補助が出ていたのではないかとおもわれるほど、格安ツアーでした。
明石、神戸からバスで来て、加東市観光協会のガイドさんがついて、三草山合戦の史跡を巡って、昼食はおいしく、最後は、お土産までもらって満足のいく一日でした。3月に4~5回行われたようですが、大河ドラマ「平清盛」で、源平ブームにのってか、どの日も満員だったようです。

 

一の谷合戦の史跡については、以下のHP「明石海峡大橋 北南」で紹介しています。

こちらから ⇒ 「平清盛関連(源平合戦)の史跡」から入っていただくと詳しく紹介しています。

 

加東市観光協会は こちらから

 

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丹波道を駆け抜ける⇒義経伝説ツアー三草山合戦

2012-03-29 03:33:50 | 平清盛

昼食後は、いよいよ三草山合戦地へ移動です。地図

 

このツアーのハイライト、戦の天才:義経の名を
有名にしたデビュー戦の地:三草山です。

三草山合戦モニュメント
この辺りは御所谷と呼ばれ平家の本陣があったと言われています。




三草山


弁慶の薙刀石(三草山合戦モニュメントの横にあります 
弁慶が薙刀を突き刺した穴があります)

 

平家物語絵巻物(複製品 鴨川の郷にあります)
京都→篠山と進んだ義経軍は、三草山の手前の小野原に布陣した。
小野原(兵庫県篠山市今田町小野原 地図 )

 

三草山合戦夜討ち
1184年2月4日夜半、義経軍は三草山麓:御所谷に陣を構えた平資盛(すけもり)軍に
夜襲をかけて撃破した。

三草山合戦



平家 屋島へ逃亡
負けた平家は須磨海岸(兵庫県神戸市須磨区)まで退却し、
義経の鵯越の坂落としの急襲を受け屋島へ逃亡しました。

 

三草山で戦った義経軍は、佐保神社に集結して、軍制を立て直しました。
 

稲荷神社
 

加東市観光協会のガイドの方が丁寧に説明してくださいました。

 

              山氏神社の義経手植えの松(やまうじ)
 

6日、義経は自軍を二手に分けて、7000騎(実際は700騎か)を土居実平(どいさねひら)に預け、須磨一の谷(兵庫県神戸市須磨区)に向かわせ、義経自身は、3000騎(実際は300騎か)の精鋭を率いて鵯越を目指しました。(義経軍の人数は、諸説ありますが、平家物語の数字を使っています)

このあと、義経は鵯越の坂落としで平家の背後をつく作戦で、勝利します。

一の谷合戦の史跡については、以下のHP「明石海峡大橋 北南」で紹介しています。

こちらから ⇒「平清盛関連(源平合戦)の史跡」から入っていただくと詳しく紹介しています。

 

 加東市観光協会は こちらから

佐保神社は こちらから

 

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丹波道を駆け抜ける⇒義経伝説ツアー清水寺

2012-03-27 13:16:00 | 平清盛

神戸新聞旅行社主催、加東市観光協会後援みたいな企画ツアーです。
加東市にある義経伝説を中心にして、清盛ブームにのって、関連の史跡を尋ねるツアーです。
この史跡は、以前に2回ほど回っていますが、個人では見ることのできなかった物を見ることもできそうだし、費用(昼食込みで¥4980)も安かったので参加しました。

集合場所は、JR明石駅の近くです。集合時間:8:20~神戸駅に寄って加東市に向かいます。

あいおい観光のバスで定員は、約50名で満員の好評なツアーです。

 

丹波道を駆け抜ける⇒義経伝説ツアー行程図(地図

 

まず着いたのが清水寺(きよみずでら)です。標高542Mの御嶽山にある天台宗の寺院です。

山の頂上にありますが、車で登れ、駐車場もあります。

清水寺由緒

入口には、立派な仁王門があって、金剛力士像が睨みをきかしています。
 

 

仁王門を入ってすぐのところに、薬師堂があります。
清盛の父:忠盛の妻:池之禅尼が創建しました。

  

 

 薬師堂のすぐ横にある大講堂です。

 

 

十一面千手観世音菩薩


 

       地蔵堂             地蔵菩薩
 

 

鐘楼
 

 

大講堂から八十段登ったところに根本中堂があります。
      根本中堂            十一面観世音菩薩
 

 

滾浄水(こんじょうすい)
このお寺が清水寺(きよみずでら)と言われるようになった井戸。

 

大塔跡
清盛の生母と言われる祇園女御の建立と言われています。
 

 

清水寺所蔵品

弁慶の碁盤


祇園女御奉納の寶鏡



平盛久奉納聖観音像





鴨川の郷
昼食です。隣にグラウンドゴルフ場と池がある広々としたところです。
 


源平御膳
絶品の黒田庄牛、三草茶うどんなどご当地の食材を使って
味も量もまんぷくです。

源平の三草山合戦についての説明と平家物語絵巻の解説などがあります。

いよいよ三草山決戦の地から、各地で戦った義経軍が集結した場所 へ移動します。

 

加東市観光協会は こちらから

鴨川の郷は こちらから

播州清水寺は こちらから

 

一の谷合戦の史跡については、以下のHP「明石海峡大橋 北南」で紹介しています。

こちらから ⇒「平清盛関連(源平合戦)の史跡」から入っていただくと詳しく紹介しています。

 

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歴女の旅 イタリアンランチと平清盛史跡

2012-03-21 02:34:51 | 平清盛

歴女の清盛ブームもここまできたかと言う企画を見つけました。

清盛も気に入った舞子の浜と明石海峡の景色の中にあるホテルセトレで「ランチと清盛の史跡を訪ねる」をコラボした贅沢な企画です。

明石海峡大橋のすぐ東隣にあるホテルセトレ


ホテルから見える景色です。



清盛も絶賛した舞子の浜と明石海峡
右の洋館は、カネボウ社長武藤氏が明治40年に建てたものを移築してあります。

 

昔は、松林のきれいな海岸でしたが、今は、埋め立てられて面影は少しです。
安藤広重が描いた舞子の松と明石海峡

 

イタリアンランチと平清盛史跡巡りについては
こちらをクリックしてください。 
(2012年3月1日~2013年3月31日まで)

 

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神戸市兵庫区内で訪ねる平清盛 大輪田の泊編5

2012-03-14 03:10:06 | 平清盛

3恵林寺 4済鱗寺 5平経俊塚 6七宮神社を紹介します。

 
           (地図)

 

3 恵林寺
1346年(貞和2年)錦江省文禅師により開山された臨済宗のお寺です。
境内には、平清盛が経ケ島築造の際に困難や水難克服を祈願して建てられた弁財社があり、「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていました。

 

 

4 済鱗寺
1493年(明応2年)、真誉林光上人の開祖。西連寺と号していました。海中より出現の阿弥陀仏像を本尊とし、魚類済度を合わせ行ったため、済鱗寺と改名した。先の大戦で本堂以下全てを焼失し、現在は仮の本堂に阿弥陀仏像をお祀りしています。
   


6 七宮神社
清盛が経ケ島築造の工事を進めている時、暴風雨でなかなか進まないのを不振に思い調べたところ築造に必要な土砂を取っていた塩槌山に住む神が怒って暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し祀ったところ、無事築造できたと言われています。
 

 

5 平経俊塚(鎮守稲荷神社)
左写真:平経俊塚(つねとし)   右写真:鎮守稲荷神社
平敦盛の兄。湊川の合戦で鵯越の守備についていたが戦利あらずと西出の浜へ落ち延びてきたところを源氏の名和太郎と組み打ちとなり当地で落命した。御歳18
鎮守稲荷神社には、江戸時代の豪商:高田屋嘉兵衛提供の灯籠があります。
 

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神戸市兵庫区内の平清盛史跡を訪ねる 大輪田の泊4

2012-03-11 02:57:47 | 平清盛

 大輪田の泊りを紹介します。

 
            (地図)

 

大輪田の泊りがどこにあったのか特定できるものは残っていません。上の地図の黄色のあたりと言われています。16阿弥陀寺と14清盛塚の間の水路にかかっている橋に15大輪田橋と水門があります。

 

 

11清盛くんの功績を讃えて銅像があります。



 

10大輪田の泊りの石椋(いわくら) ※石椋とは、石を積んだ堤
古代の港湾設備の一部として石椋が発見され、発見された場所は、当時、海中でありましたので、大輪田の泊の石椋であったと推定されています。



 

 

12和田の笠松
「和田の笠松」入り江の浜にそびえ(7真光寺隣)、大輪田の泊への入港船や旅人の目印になっていました。
和歌にも歌われ古くから有名な松のあったところ、戦災で焼失しました。

 鎌倉時代の歌人藤原為家の歌に
 「秋風の吹き来る峰の村雨にさして宿かる和田の笠松」

 

 

1清盛が好んだ時雨の松
福海寺に石碑だけが残っています。
 

 

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平清盛展(神戸)に行ってきました

2012-03-08 03:01:18 | 平清盛

神戸市立博物館で開催されている「平清盛展」に3月6日に行ってきました。



展示品の撮影は禁止で、記念撮影用のコーナーがあります。
入口を入ったここだけが撮影OKです。



上の絵画を拡大したもので、平家納経に書かれている一場面です。
童女が仏様に捧げ物をして成仏するところが描かれています。
展示品の中にもこれの本物があったと思います。



2階3階が展示会場で、なかなか貴重な歴史的に価値のある物が多数展示されています。目玉は、
平家納経で、清盛が、平家一門の繁栄を願って、宮島厳島神社に奉納したもので、金箔、銀箔などを贅沢に使って書かれています。900年ほど前に造られたものが今でも色あせることなく残っているのが清盛の権力と財力の豊かさを示しています。
展示品を見ていると900年前の清盛時代へタイムスリップしてしまいます。物語ではなく、現実にあった歴史上の出来事であったことが多くの資料から読み取れました。滋賀県の故宮神社(こきゅう)にある、「祇園の女御の妹が清盛の母である」と書かれた古文書も展示されています。
展示されている資料や絵画などを見ることで、大河ドラマ「平清盛」がより面白く見れます。

その他、数多くの見応えのある資料が展示されています。ただ、撮影は、できませんので、絵葉を買ったのでそれを載せます。


平清盛(絵葉書)

源義経 鵯越の坂落とし(絵葉書)

 

 宮島厳島神社
清盛の厳島神社への信仰はあついものがありました。
福原京には、ここから勧請した厳島神社が多数あります。
 
 



土産物も多数、陳列されています。酒、本、ハンカチ(¥1890)
 


神戸市博物館「平清盛展」は、~4月5日まで
こちらをクリックしてください



 

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神戸市兵庫区内の平清盛史跡を訪ねる 大輪田の泊編3

2012-03-06 03:21:29 | 平清盛

今回は、13真光寺、8能福寺、7金光寺そして16阿弥陀寺の4ヶ所を紹介します。

 
          (地図)

 

13真光寺
福原遷都の際、都の周囲に祀られた七弁天の一つである真野弁天はこの大日堂にあったと言われています。
下右写真:「和田の笠松」入り江の浜にそびえ入港船や旅人の目印になっていた。和歌にも歌われ古くから有名な松のあったところ、戦災で焼失しました。
鎌倉時代の歌人藤原為家の歌に 「秋風の吹き来る峰の村雨にさして宿かる和田の笠松」
 

 

8能福寺
清盛の剃髪出家(ていはつ)や住職の円実法眼(えんじつほうがん)が亡くなった清盛の遺骨を持ち
帰ったという逸話の舞台にも想定されています。
他に、神戸事件で責任を取って自害した「備前藩士滝善三郎正信の供養塔」の史跡もあります。

平清盛の菩提をとむらった「平相国廟(へいしょうこくびょう)」



下右写真は、兵庫の大仏で台座の中には重要文化財の「十一面観音像」があります。
高さ地上より18m60トン

 

 

7金光寺
経ケ島(きょうがしま)築造のとき、清盛の枕元に童子が現れ「兵庫の海中に霊仏があるので探し出すよう」夢告しました。大輪田も海に網を下ろしたところ、海中から金色の黄金薬師尊が出現したことから、金光寺と名ずけられました。
 

 

16阿弥陀寺
この魚御堂は清盛が魚の供養のため設けたと言う説や重盛の仮屋敷跡との言い伝えもあります。
右写真の礎石は通称「楠公供養石」と言われ、湊川合戦で敗れた楠木正成の首を置いたと言われている。
 

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平清盛について講演しました

2012-03-02 03:14:42 | 平清盛

2月29日に、Yサロン(パソコンを教えているデイサービスの団体)で平清盛について話をする機会がありました。参加者は20名で、平清盛が神戸にゆかりのある人ですから「清盛と神戸」というタイトルで話しました。

清盛は、神戸とゆかりのある人です。

  


宋貿易に目覚めた清盛は、当時、博多にしか来なかった宋の大型船を神戸の大輪田の泊(兵庫県神戸市兵庫区)に入れるように港を整理して、波・風避けのために経が島という人工島を造りました。そして、自分の別邸をその近くに建てました。それが雪の御所として残っています。清盛、55歳の時です。

大輪田橋として大輪田の泊の名残があります。

62歳の時、自分の娘:徳子が高倉天皇との間に男子をもうけ、その子供(3歳)を安徳天皇として即位させました。清盛絶頂期の時です。そして、後白河法皇や旧来の勢力と距離をおくために、福原遷都(兵庫県神戸市兵庫区)を強行しました。1180年6月2日、天皇は、弟:頼盛邸(荒田神社)に、後白河法皇は清盛の別邸:萱の御所に、高倉上皇は、平家一門の家に泊まられました。その他の者は、道路に座すがごとくでした。ただこの遷都は、半年ももたず、11月23日に還都となりました。

 
清盛と後白河法皇とは、仲が悪かったので清盛は、後白河法皇を自分の別邸:萱の御所に幽閉状態で住まわせました。そのために、この御所を「牢の御所」とも言います。

平家物語では、源氏の時代になって語り継がれた平家一門の栄華と滅亡の歴史が描かれています。その中で清盛は、極悪人のように書かれていますが、史実とは違うところは多いです。長く続いた平安時代が一部の特権階級によって私物化されていたのに反発した身分の低い武士集団がこの体制をくつがえそうとして、そのトップに立ったのが清盛でした。そして、ついに武家政権を樹立します。清盛には、それだけの知力と人望もありました。又、家来にも心配りをする一面も持ちあわせていました。
上にも書いたように海外にも目を向け、貿易で国を豊かにしよう、貨幣経済を導入して経済を活発化させようとする、当時としては、誰もが思いつかないような政策を実行しました。
このように清盛は、志の大きな立派な人でした。

しかし、なぜ、こんなに立派な清盛がつくった栄華を極めた平家一門が簡単に次の代で滅亡してしまったのでしょうか。

まずは、後継者である長男の重盛が42歳の若さで死んでしまったこともありますが、
一番大きな原因は、清盛の女好き、女性に優しかった、この性格です。

1.清盛の愛人に祇王・妓女がいました。彼女たちは、姉妹で、滋賀県野洲市の出身です。彼女の村が水不足で悩んでいるのを知った妓女は、清盛にそのことを伝えると清盛はすぐに村の近くの野洲川から水路を引き水不足を解消しました。その川は、今も祇王井川として残っています。
2.そんな彼女のもとに仏御前という若い白拍子が現れると清盛の心はそちらになびき、祇王・妓女は屋敷から追い出されてしまいました。その後、仏御前は、いずれ自分も彼女たちのように追い出されるだろうと思い、ひまをもらって故郷の石川県原町に帰りました。原町には、彼女のお墓と銅像が村の人に守られていまもあります。
3.清盛41歳のとき、平治の乱が起こり、源義朝軍を打ち破り、主な者を処刑しましたが、義朝の子:頼朝(13歳)は、池禅尼(父:忠盛の正室、清盛の継母)の助命願いで処刑は免れ、伊豆に流されました。義経(1歳)は、母:常盤御前と共に捕らえられるが清盛は、常盤御前の美しさに惹かれ、自分の側室になるなら義経は助けてやろうともちかけ、義経の命を助けました。

結局、平家は、清盛が優しさを出した頼朝、義経に滅ばされることになります。
清盛の女性への優しさが平家を滅亡へと導きました。

清盛は、自分の温情で助けてやった頼朝が源氏の大将として自分に歯向かってきたことが相当悔しかったのでしょう、遺言で「自分が死んだら、葬式などはしなくていい、すぐに追手を出して、頼朝の首を墓前に供えよ」といい残しました。

 

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