源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

正覚寺(仏御前)

2005-11-20 02:53:55 | 安宅の関コース
最初に尋ねた史跡です。

仏御前が、清盛の元を去るとき、「靴を履いた珍しい阿弥陀像」を与えたと言われています。
その履行阿弥陀如来像(くつばき)」」と仏御前像が安置されています。

拝観には予約が必要なようです。

仏御前安置所

2005-11-19 01:48:16 | 安宅の関コース
17歳で平清盛の寵愛を受けた白拍子・仏御前は、そのために前の清盛の愛人・妓王が屋敷を追い出されるのを見ていつかは自分もそうなるだろうと空しさを感じ故郷・原村に帰って仏の道に入った。その尊像は、代々村の一般の家庭で守られてきて、昭和のはじめから現在の家に安置されています。

清盛から追い出された妓王が襖に書き付けた一首
「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に あはではつべき」 

義経 北陸道の史跡

2005-11-15 23:43:27 | 安宅の関コース
義経は、一の谷そして屋島と平家を追い詰め、壇ノ浦で滅亡させたが、頼朝は義経の軍事の才能と人気に危険を感じ「義経追討令」出した。追われる身となった義経は、京都→吉野→北陸→奥州へと落ち延びて行きました。

16日~17日にかけて、「義経伝説 南加賀の旅」を参考にして北陸にある義経関係の史跡を訪ねます。

上記の本は南加賀観光物産推進協議会に申し込めば送ってくださいます。

壇ノ浦合戦の史跡地図

2005-11-15 00:30:03 | 壇ノ浦合戦
            赤字は今回訪問した史跡です。

 満珠・千珠島・・・源平が集結した場所。
 豊功神社・・・満珠・千珠島を見るビューポイント
3 平家塚・・・平家落人の墓と伝えられており、古い五輪塔6基のほか墓石があります。
 平家の一杯水・・・合戦で喉の渇いた平家の武将が水を飲んだ場所
 みもすそ川公園・・・公園の前の海峡で壇ノ浦決戦が行われた。そのときの両軍の総大将の像があります。源氏軍・義経  平家軍・平知盛
 赤間神宮・・・安徳天皇が祀られており、竜宮城をイメージして造られています。耳なし芳一像や平家一門の墓・7盛塚があります。
安徳天皇陵と紅石稲荷神社が近くにあります。
7 海響館・・・平家蟹が展示されています。
 大歳神社・・・義経が戦勝祈願をしたところ。
9 厳島神社・・・安芸の厳島神社の分霊を平家の守護神として祀った。
10 御旅所・・・安徳天皇が引き上げられた時、一時安置された場所。
11 きぬかけ岩・・・敗れた平家の武将の妻が岩に衣をかけ身投げしたところ。
12 西楽寺・・・平家ゆかりの寺、本尊・阿弥陀如来像は重盛の守り本尊。
13 清盛塚・・・壇ノ浦合戦時、平家が砦を造っていた場所とされています。

●壇ノ浦合戦壁画・和布刈公園内に長さ44mの合戦を描いた有田焼の壁画があります。
    しずかblog(壁画の紹介をされています)
●門司城址・・平知盛が壇ノ浦の見える古城山に築造した城。
●海御前の碑・水天宮には平教経の奥方(海御前・あまごぜ)の碑があります。
●殿墓・・平家の敗戦を知った平休息が、山中に逃れ一族の墓を集めた所。
●平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
●貴船社の三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている
              (非公開)
●柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
●風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
●海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。

門司にある史跡の紹介はこちらへどうぞ(10月18日~23日)




13日大河「夢の行く末」

2005-11-14 02:30:24 | 大河「義経」
今回は、それほどの山場もなく、見るのもあまり力がはいりませんでした。
ストーリーもうろ覚えでコメント書くのに苦労しています。
頼朝の攻撃が強化され、院もしずかも問い詰められていました。義経は、ころころ変身する後白川法皇をまだ信じているようで、義経、人が良すぎるよと言いたいくらいです。ドラマの最後は、行家が処刑された。
追い詰められていく義経ですが、最終地の平泉行きが決定、「義経」フィナーレに向かってどんな盛り上がりを見せてくれるのでしょう。

16日~17日に安宅の関を中心に北陸の義経史跡を訪ねます。ドラマでは、27日頃に放送予定です。

一の谷坂落し講演会

2005-11-12 23:47:57 | 一の谷の合戦
須磨歴史倶楽部主催の「源平講座」に参加しました。
日時:11月12日(土)14:00~
場所:すまいるプラザ大黒

義経の急襲「逆落し」の場所については、諸説ありますが、会場には、義経進軍ルート立体地形図があり、須磨歴史倶楽部は「坂落し」の場所を
『鉄拐山の東南の山複から赤旗谷』で行われたと決めておられます。

●平家物語では、熊谷次郎直実が一の谷へ行く道筋を「落さんずる谷をば弓手に見なし、馬手へあゆませゆく程に、としごろ人もかよわぬ田井の畑(多井畑)といふふる道をへて、一の谷の浪うちぎわへぞ出たりける」と記している。
●「源平盛衰記」では「辰半に鵯越一の谷の上、鉢伏礒の途(蟻の戸)という所に打ち登り。兵共遥に指のぞきて谷を見れば、軍陣には盾を並突、士卒は矢束をくつろげたり。前は海後は山、波も嵐も音合わせ、左は須磨右は明石、月の光も優ならん」と記しています。

このような文献や地図に残る名称、伝承又騎馬での奇襲を得意とした義経の兵法を考え合わせて「須磨一の谷」説をとっておられます。

知盛自害 平家滅亡

2005-11-12 02:08:41 | 壇ノ浦合戦
ブログ壇ノ浦決戦もいよいよ最後です。
平家はこの地で滅亡しました。最後に登場するのは知盛が一番ふさわしいと思います。

新中納言知盛は、「見るべきほどのことはみな見届けた。今は自害しよう」
といって、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、
「どうだ、約束を変えることはないか」と言われると「いうまでもありません」
とこたえて、中納言に鎧二領をお着せ申し、自分も鎧二領着て、手をとりあって
海へ入ったのであった。・・・・
海上には、平家の赤旗や赤印が投げ出され、放り捨てられたので、竜田川のもみじ葉を嵐が吹き散らしたようである。
(平家物語)