源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

清盛も訪ねた賀茂神社(兵庫県たつの市室津)

2012-09-11 13:01:45 | 源平の史跡

大河ドラマ9月2日34回「白河院の伝言」の紀行で紹介されました、
兵庫県たつの市室津にある「賀茂神社」に行ってきました。
1180(治承4)年に清盛は高倉上皇と厳島神社に参拝されました。その時、ここから船で厳島神社まで行かれました。



室津の港が見える所に来ました。ここから街に降りて行きます。海と山に囲まれた隙間にある街と思われるくらいに狭い所にあります。目指す賀茂神社は港の向こうに見える森の中にあります。





街に降りました。車が通れるのか、わかりませんので、街の入口に置いて徒歩で入りました。一歩入ると時が戻ったような錯覚に陥り、戦後みたような街並です。ここがメインストリートで車は一方通行で通れるようです。コンビニは無かったようですが、郵便局、警察、小学校、出張所、診療所など必要な機関はそろっているようです。「写真写しますから表通りに出ないでください」と言ったわけでもありません。漁師町なので、今は寝ている時間なんでしょうか。


室津の観光ガイド案内所のある「海駅館」を訪ねました。ここに来ると江戸時代です。江戸後期に建てた豪商:嶋屋の屋敷をそのまま保存したものです。



街を歩きながら賀茂神社の下につきました。海駅館から10分くらいです。チョットきつそうな階段で、旗が一本、清盛ゆかりの室津とあります。これで清盛との関係があるところだと感じます。



賀茂神社山門






(境内にある説明板より)
治承4年(1190)とありますが、これは1180年の間違いだと思われます。

平家物語巻第四に、「厳島御幸」として高倉上皇が参拝後の帰途、播磨の国山田の浦(兵庫県神戸市垂水区舞子あたり)から福原に寄られたと書かれています。

1180年の6月に福原に遷都、そして12月に都を再び京都に戻しました。清盛62歳の時のことです。1年後に清盛は、熱病により亡くなりました。享年63歳


本殿



拝殿



播州名所巡覧図会に書かれた賀茂神社
現在もほとんど変わらない配置です。右側からのぼります。
[1804(文化元)年発行]  (※境内に掲示された説明板より)




シーボルトが書いた賀茂神社の風景です。









神社から海が見えます




室津観光マップ地図(西播磨観光スポットHP)


たつの市のHP 「室津と清盛

兵庫県たつの市御津町室津74地図

 

 

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妓王 妓女(ぎおう ぎじょ 神戸編)

2012-09-05 02:38:08 | 源平の史跡

平家物語巻一「妓王」のことが書いてあります。

都で評判の白拍子:妓王を清盛は寵愛した。そして、妹の妓女、母のとじにも立派な家を与え、毎月百石の米と百貫の金銭を与えた。

 清盛が福原に居を構えて、大輪田の泊りでの貿易、福原の清盛の屋敷:雪見の御所で遷都計画を練っていたとき、妓王・妓女もこの地にいたと思われます。
それが、大輪田の泊り近くの来迎寺(築地寺)にある墓へとつながったのでしょう。

妓王・妓女の墓(右の囲まれたところ)
塔は松王丸の供養塔



来迎寺(築島寺)


来迎寺は
兵庫県神戸市兵庫区島上町2-1-3. (
地図

 

 

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源頼政(みなもとのよりまさ)

2012-09-02 03:40:40 | 源平の史跡

大河ドラマ33回で、源頼政は、清盛50歳の宴にお祝いを言うために登場しました。

平家物語四「鵺」に出てきます。


1104~1180(長治元~治承4)生年???平安時代後期の武将・歌人。
その才が後白河天皇に愛され、保元の乱(1156年 保元元年)では後白河方の源義朝の下で戦う。続いて義朝が起こした平治の乱(1159年 平治元年)では、平清盛に味方し、源氏でありながら平家の政権下に名を残す。しかし、出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のとき、清盛の推挙で従三位に叙せられたのは75歳になってからである。清盛の厚い信頼もあったが、目に余る平家の横暴に反平家の兵を挙げるも、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、宇治川で敗れ平等院で切腹して果てました。77歳。

頼政の墓が兵庫県西脇市にあります。(地図

長明寺



頼政のお墓




歌人としても有名で『新古今和歌集』にも収められている。





頼政 鵺(ぬえ)退治の由来(平家物語に書かれています)
1153(仁平三)年夏、近衛天皇は奇病になやまされておりました。深夜になると黒雲が御所をおおい鵺の鳴き声が聞こえてその度に天皇は苦しまれた。薬も名僧たちの祈願も効かなくやがて雲の中に住む妖怪の仕業と考え弓の名手源頼政に妖怪退治が命じられた。きっと見上げた頼政は弓をひき、「南無八幡大菩薩」と心の弓に祈念して矢を力一杯放つと見事命中、落ちてきた妖怪を家臣の者の早太が刺し殺した。火をともして見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、恐ろしいという以上である。天皇は感心され獅子王という名剣を下された。
(平家物語から)解説版設置者:高松町郷土史研究会




鵺(ぬえ)とは夜に鳴く鳥のことであり、現在ではトラツグミのこととするのが定説です。この鳥の寂しげな鳴き声は平安時代頃の人々には不吉なものに聞こえたことから凶鳥とされていました。


神戸市須磨区須磨寺の近くに(地図
頼政薬師寺があります。寺号は浄福寺。
ご本尊は、聖徳太子作と伝わる薬師如来。一時期、荒廃していたのを源頼政が再興したので「頼政薬師寺」と呼ばれています。

 


清盛は、太政大臣になって3ヶ月で辞任します。そして、51歳のときに熱病にかかり生死の境をさまよいます。

 

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平 忠度(ただのり)【神戸編】

2012-09-01 03:30:12 | 源平の史跡

 忠度は、平忠盛の六男で清盛の異母弟にあたり、清盛より26歳年下で清盛兄弟の末弟です。薩摩守で、歌人としても優れた才をもった武将です。1184(元暦元)に一の谷合戦に敗れて死去、享年41歳。

巻第九「忠度最後」では、一の谷の西の大将軍として陣取っていましたが、平家の劣勢を知り、退却していく途中で源氏方の六野太忠純(ろくやたただすみ)に討ち取られました。六野太は、打ちとった武将が誰だか分からなかったが、箙(えびら:弓を入れる容器)に結び付けられていた文に一首の歌が詠まれていて、それで薩摩守忠度であることを知りました。
「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 
     花やこよひの 主(あるじ)ならまし」
(旅路に日が暮れて、桜の木の下陰を一夜の宿とすると、花が今夜の主人となってもてなしてくれることでしょう。)


(参考資料:杉本圭三郎著 平家物語)

 

忠度の史跡は、神戸にもあります。

一の谷の合戦で敗れ、逃亡するときに討ち取られ、腕と胴が別々に埋葬されました。その場所が、神戸と明石にあります。
今回は、神戸の史跡を紹介します。

腕塚 (地図
  

 

腕塚より北へ400mほど行った所に腕塚町という町名があります。忠度の腕塚からついた名前のようです。約1000年も前の人物と関係のある地名が現在まで続いてきて残っているのです。

 

胴塚地図

 

名前が「ただのり」であることから、忠度の官名「薩摩守」は、無賃乗車(タダ乗り)を意味する言葉としてつかわれることがあります。狂言「薩摩守」では、船賃を踏み倒そうとする出家僧が描かれています。
(参考資料:Wikipedia)

 

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