写真の大石は、阿弥陀寺の中庭にあって、この寺の近くにあった魚御堂の礎石で清盛が魚族の供養のために魚御堂を建てたと言う説があります。
阿弥陀寺(あみだでら)は、清盛が海路安全の守護神として建立したとも、又、自らの繁栄を祈願した寺とも伝えられています。
阿弥陀寺(あみだでら)は、清盛が海路安全の守護神として建立したとも、又、自らの繁栄を祈願した寺とも伝えられています。
経島(きょうのしま・大輪田の泊り)築造のさい、人柱となった松王丸の菩提を弔うため清盛がこのお寺「来迎寺(らいごうじ)」を建てたと言われています。築島寺とも呼ばれています。
境内には、松王小児入海の碑と松王丸の墓、清盛の寵愛を受けその後尼となって嵯峨野で生涯を終えた妓王とその妹妓女の墓があります。
境内には、松王小児入海の碑と松王丸の墓、清盛の寵愛を受けその後尼となって嵯峨野で生涯を終えた妓王とその妹妓女の墓があります。
萱の御所(かやのごしょ)とも言われ、清盛が後白河法皇を幽閉したことから牢の御所とも言われています。薬仙寺の境内にその碑があります。
御所は別の場所にありましたが、運河拡張で運河に没してしまうのを惜しんでこの場所に碑が建てられました。
御所は別の場所にありましたが、運河拡張で運河に没してしまうのを惜しんでこの場所に碑が建てられました。
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今日の大河「義経」は、ドラマとしての大きな変化はなかった。次の章への布石的な内容でした。
屋島に逃れた平家は、清盛の時代の「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した時代に戻ろうと考えている。写真は、清盛塚。
義経には、色々な問題がふりかかり、一の谷の戦いの第一の功労者であるのに平家討伐の軍にも参加できず。
そのとき母常盤が義経を訪ねてきて「物事の表も裏もみよ、そして鎌倉も法皇も」と忠告していく。これが義経への母の最期の言葉となった。稲森いずみ常盤死去。
来週は「忍び寄る魔の手」、どんな魔の手が義経に迫るのか、そして8月には入ると「屋島の戦い」へと場面は展開していきます。
屋島の戦いの史跡を紹介しています。
1180年(治承四年)、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じ都造りをはかったのが「福原遷都」である。
雪見御所は清盛の別邸でこの北側に皇居があった。
しかし、都造りは途中で頓挫し、半年で平安京に還都したため実態としての都は完成しなかった。
雪見御所は清盛の別邸でこの北側に皇居があった。
しかし、都造りは途中で頓挫し、半年で平安京に還都したため実態としての都は完成しなかった。