源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

多田源氏祖の墓

2015-12-19 12:11:54 | 源平の歴史

多田満仲公(ただのみつなか)の墓(高野山)

平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、源 満仲(みなもと の みつなか)とも呼ばれています。

 

高野山奥の院入口

 

弘法太子腰掛の石

 


平家武将 妹尾太郎兼康公墓 (岡山県吉備津)

2014-04-25 02:43:46 | 源平の歴史

平家武将:妹尾太郎兼康公(せのうたろうかねやす 別名:瀬尾)のお墓に、再び参拝しました。

8年前に訪れた時は、通りすがりにお墓があるのに気ずいて、なにげなく寄って、携帯でお墓の写真をアップしましたら、思いかけず、妹尾(瀬尾)一族の方から多くのコメント、知識をいただきました。今回の吉備路散策の一つに妹尾兼康公のお墓を参拝することも大きな目的でした。

 

妹尾太郎兼康は1183(寿永2)年、平敦盛(たいらのあつもり)に従って北陸へ出兵し、同年5月、有名な倶利伽羅(くりから)峠の戦い、 火牛(かぎゅう)の奇襲作戦で敗れ、木曽義仲(きそよしなか)の軍に捕らわれますが、敵ながら殺すのは惜しいと義仲も思ったらしく、倉光三郎成澄に預けられます。
『平家物語』では、巻八に「妹尾最期(さいご)」という一節を設けて兼康の最期を描き、木曾義仲をして「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたのであった。

 

妹尾兼康公墓(鯉山(りざん)小学校敷地内)
以前に来た時より立派になっていたのに驚きました。   

   

2006年6月に訪問した時のお墓(携帯で送信した画像)

 

左の塔の後ろには、平成26年吉日と記されています。

 

お墓の後ろが鯉山小学校

 

 



妹尾太郎兼康公(せのおたろうかねやす 1126~1183)は、このあたり板倉郷の豪族でした。高梁川(たかはし)の湛井(たたい)から水を引き、今も使われている十二郷用水路を改修した人です。

平家物語にも平清盛の信頼を受け平家の侍大将として1183(寿永2年10月12日)年、木曽義仲の軍勢と板倉城(岡山市高松)で戦い、討死したとあり、その後、家臣の陶山道勝(すやまみちかつ)は屍を城跡に埋めて供養のために寺を建てました。それが、道勝寺で今の鯉山(りざん)小学校です。

昭和54年11月  鯉山小学校文化財保護少年団

※お墓の近くに陶山〇〇と看板のあがった会社がありますが、陶山道勝との関係は不明です。

 

 2006年6月8日掲載の「平家武将:瀬尾兼康公」の記事は こちらから

 

妹尾兼康公墓の地図は こちらから 

(鯉山小学校:岡山県岡山市北区吉備津1444)

 

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新年の挨拶 (義経対武蔵)

2006-01-01 00:45:43 | 源平の歴史
「日本一の剣豪は誰か」大会を勝ち抜いてきた義経と武蔵、いよいよ優勝決定戦です。

義経は壇ノ浦で平家を壊滅させたときに陣取った満珠島から、かたや武蔵は巌流島で小次郎を破ったときに船出した伊勢屋跡から遅れることなく出陣し、対決の場所:みもすそ川公園で2006年1月1日16時に相対しました。
(壇ノ浦と巌流島は約6Kくらいの距離です)

開始の合図と同時に間髪を入れずに、武蔵は櫂で作った木刀を義経の眉間めがけて振り下ろした。
義経は、想定内とばかりに得意の八艘飛びの術でヒラリと体をかわした。
武蔵、二太刀、三太刀と義経めがけて振り下ろすがヒラリヒラリと体をかわされた。
そして武蔵がこれで止めを刺すと渾身の力を込めて振り下ろした九太刀目、八艘までしか飛んだ経験の無い義経ピンチ、9回目の太刀をかわし返す刀で武蔵を打ち倒せるか???

さて、あなたはどちらが勝つと思われますか。

結果は、今年の大晦日の臨時ニュースで発表される予定です。

宮本武蔵についてはこちらへどおぞ

現在の渡辺の津

2005-12-31 00:43:06 | 源平の歴史
写真は、天満橋とその西側で渡辺の津があった場所を写した合成写真です。

・平安時代より鎌倉時代にかけて皇族、貴族の紀州熊野本宮へ行く
熊野街道の起点として賑わいました。
又、昔の文献にも記述があります。
・森の石松が金毘羅参りの帰り「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねぇ」と言ったのは、
ここから京都へ上る船の中と言うことになっています。
・「道中膝栗毛」でも『・・・弥次さんと北さんなるもの、伏見の昼舟に途中より飛び乗りて、はやくも
大坂の八軒家にいたり、ここより舟をあがりたるは最早たそがれ時にして・・・』とあります。

今年、最後の日となりました。4月より書き始めたこのブログへご訪問くださった皆さん、ありがとうございました。義経や源平に関する史跡はまだまだあります。来年もそれらの史跡を訪ねてアップしていきます。お暇の時にでも覗いてみてください。
それでは、よいお年をお迎えください。

義経の隠れ家

2005-12-29 00:45:13 | 源平の歴史
頼朝と不仲になった義経が弁慶ら郎党と西国目指して大物浦(だいもつうら)から船出するために、一時身を隠していた場所がこの大物主神社付近だと言われています。境内に「義経と弁慶の隠れ家の跡」の碑があります。
当時は、この神社の前は海であったと言われていますが、現在は住宅と工場地帯です。

清盛供養等

2005-10-02 00:45:03 | 源平の歴史
明石市の善楽寺に高さ:3.5mの清盛の供養塔があります。
お寺再興に尽力した清盛を供養するために建立されたと言われています。

このお寺は、「源氏物語」に登場する場所です。境内に、
明石藩主五代目松平忠国が建てたと言われる「光源氏古跡明石の浦の浜の松」
の石碑がある。忠国の和歌
「いにしへの名のみ残りてありあけの あかしの上の親住みし跡」



源平合戦の虚像を剥ぐ

2005-09-27 00:35:39 | 源平の歴史
25日(日)、神戸市兵庫区 歴史資料ネットワーク主催の歴史講演会に行ってきました。
約300名くらいが参加していました。

日時:平成17年9月25日(日)13時~16時
場所:神戸水道局 たちばな研修所

      【源平合戦シンポジウム】
1.スライド「神戸源平史跡の今昔」  神戸大学大学院 山本陽一郎
2.基調講演「源平合戦の虚像を剥ぐ」 東京都立大学 助教授 川合廉
3.パネルディスカッション 「内乱史研究の最前線~武士、伝承、地域社会」

【川合助教授の講演内容】
合戦後、京武家社会の頂点にたった義経が、一の谷合戦について語ったため義経自身の活躍がいかにすばらしかったかと言う話が都では定説になった。
そのため、生田の森の攻防の記述は少なく、鵯越(山手)を攻めた地元の有力武将・多田行綱の戦闘などは義経の行動として伝説化されてしまった。
(このような内容だったと思います。)