源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

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神戸市兵庫区内の平清盛史跡を訪ねる 大輪田の泊2

2012-02-26 02:32:41 | 平清盛

大輪田の泊りに近い清盛史跡NO2です。
18薬仙寺、17清盛橋、14清盛塚を紹介します。。

 
          (地図)

 

18薬仙寺
寺の名は、後醍醐天皇が隠岐国から帰京の際、兵庫津福厳寺(現・門口町)に宿泊した際、この寺の霊水を服薬用に差し上げたことから名づけられたといわれる。境内に「後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水」の碑がある。
福原遷都の際、清盛の別邸である萱の御所に、後白河法皇を幽閉したので、牢の御所とも言われています。

 

 

霊水の源泉

 

17清盛橋
薬仙寺と清盛塚を結ぶ位置にある橋です。
橋の欄干に下右の源平合戦に関する絵が貼られています。
 

 

14清盛塚・清盛供養塔・琵琶塚
清盛の遺骨を埋葬した清盛の墓と信じられていた十三重の塔でしたが1286年に建てられた供養塔である事が判明した。琵琶塚は、もとは前方後円墳でしたが、平家物語の琵琶の名手「平経正(敦盛の兄)」と結びつけ琵琶塚と呼ばれるようになりました。
琵琶塚の文字は明治35年に彫られ、清盛像は昭和43年に建てられました。

       十三の塔             琵琶塚
 

 

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神戸市兵庫区内の平清盛史跡を訪ねる 大輪田の泊1

2012-02-23 09:36:37 | 平清盛

兵庫区の北側は清盛が邸宅をつくり、福原遷都の地として、天皇、上皇を招きました。

JRを境にして南側は、大輪田の泊りの地として開けていきました。
今回は、2久遠寺、9築島寺、19和田神社を紹介します。


 
                  (地図)


2 久遠寺
平清盛の経ケ島築造の頃、このあたりは浜辺であったと言われ、 俗称「浜の寺」と言われていた。
 

 

9 築島寺(来迎寺)
寺伝によれば、平清盛が経ケ島を築造する際、竣工直前に暴風雨によって破壊されたため、陰陽博士に占わせ人柱をたてることになり、身代わりとなったのが「松王丸」で、その犠牲によって無事に島が築造された。
その供養塔が右の写真の左の塔、右の塚は清盛の愛人「妓王と妓女」の五輪塔。

 


19 和田神社
元は、現在地から西南に約800mの海岸にあり「蛭子(えびす)の森」と呼ばれていました。
平清盛が大輪田泊りの修築の際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し安芸の宮島より
市柿嶋姫大神を勧請しました。その後、南浜総氏神と広く人々に親しまれ、隣松院と呼ばれた
社務所には、西国大名や勝海舟が訪れました。

 

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神戸市垂水区の源平合戦の史跡を訪ねる

2012-02-21 11:52:39 | 須磨敦盛コース

ボランティアで参加しているデェイサービスで平清盛について話することになりました。そこで、垂水区役所にパンフレットをもらいに行きましたが部数が少ないので三宮のインフォーメーションセンターに行ってほしいとのことです。その時に今まで無かった垂水区内の源平合戦に関する史跡紹介mapをみつけ、近くに御霊神社があるのを見つけましたので、行ってみることにしました。ついでに垂水区内の源平合戦の史跡を紹介します。

垂水区内史跡map
 
18 御霊神社   4 源平合戦供養塔  19 奥畑大歳神社  

18 御霊神社(ごりょうじんじゃ)
このあたりは、一の谷の合戦で源平の兵が激しく戦った地域でもあり、戦死者が多く出たためその霊を祭るために建てられました。現在は、端丘八幡神社に合祀されていますが、その跡地には祠があります。(参考資料:垂水観光推進協議会パンフレット)


 

 

19 奥畑大歳神社
源平一の谷合戦地より近く、源義経が必勝祈願のために弓を引いた伝説があります。毎年1月に、弓を引いて的を射る「弓引きの神事」が行われています。


4 源平合戦供養塔




 
分かりにくい所にあります。左写真の指マークを入ると
右写真の所に行きます、そこを下ると供養塔です。
下写真の赤丸に上の指マークがあります。

 

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兵庫区歴史講演会2月18日(土)

2012-02-19 03:12:53 | 平清盛

兵庫区公会堂で「歴史講演会」が開催されました。
250名ほどの参加者で会場はほぼ満員です。

大河ドラマ「平清盛」に関連して、約2時間半の講演でした。

◆桂三ノ助さんの落語「平成の清盛」

◆講演は、清盛塚について
  ・コーディネーター 奥村弘氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)
  ・「清盛塚の誕生」~中世兵庫津の歴史
            藤田明良氏(天理大学国際文化学部教授)
  ・「清盛伝説と神戸市民}~清盛塚の移転


落語 清盛のことについて調査していた人が何故か風呂屋をやって成功した。
             清盛遷都→銭湯  お時間がよろしいようで。


1285年(弘安8)に亀山上皇が兵庫嶋、和多(和田)御崎に来られた。これは、讃岐の善通寺修造のための費用を兵庫で徴収しようと下見に来られた。その時、多数の船、遊女がでてにぎやかだったと随行の公家が日記に書いている。
清盛塚は、清盛の墓であると思われていたが、1921(大正10)年ころ神戸市の都市計画で移転案出された時、築島寺の檀家などが反対運動があった。そこで、1923(大正12)年、清盛塚を発掘調査をした結果、骨などが出なかったことから清盛の墓で無いことが判明した。そして、現在の位置に移転しました。

当時の神戸市の資料には
「なんと言っても平相国は我が神戸市の発展の歴史と切り離すことの出来ない大人物であった」
又、新聞には、
「神戸市成立の素因は、実に清盛の兵庫築港に胚胎(はいたい)するものとせねばならぬ」・・・・・「神戸が東洋一の良港湾の素実を有するものとせられたのは、清盛の兵庫築島=経が島=に出立するのである。」
※胚胎とは、物事の起こる原因やきざしが生じること


三ノ助師匠の落語


大学の先生による講演

 

兵庫津絵図(安政6年)

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神戸市西区内の平清盛史跡を訪ねる 太山寺

2012-02-17 02:57:28 | 平清盛

太山寺は、「播州太山寺縁起」によれば、元正天皇の勅願寺として716年(霊亀2年)に発願者である藤原鎌足の孫の藤原宇合が堂塔伽藍を建立したとされる。
平家武将の尊崇も厚く、平家一門書字の伝説をもつ法華経をはじめ武将の鎧や腹巻など平家ゆかりの品が多数伝わっている。
神戸市西区伊川谷町前開224 (地図

 
         仁王門             三重の塔


本堂(神戸市内唯一の国宝)

 

仁王門から入って本堂に通ずる路を歩いていくと権勢を誇った頃の雰囲気が残っています。今は訪れる人もほとんどありませんが、平家全盛の頃、武将たちが通った当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
「播州太山寺伽藍之図」そのままの配置で残されています。

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神戸市垂水区内の平清盛史跡を訪ねる

2012-02-16 03:20:34 | 平清盛

垂水区内の清盛関連史跡は、乙女大明神、石水寺です。

 


3 乙女大明神

平清盛の建立と言われています。さざれ石をご神体として宋貿易の船の安全を願った。そして神社を乙女大明神と名付けました。
1184年の一の谷の合戦では、義経と熊谷直実がこの付近で別れ、平家の一の谷の陣が望める鉄拐山に到着し、義経勝利の作戦「鵯越の坂落とし」を遂行しました。


バス道に面した鳥居から下に降りて行くと神社があります。
鳥居には、竜宮城の看板があります。
安産「乙姫さん」とも呼ばれそこからか、竜宮伝説があります。



切り立った岩に張り付くように本殿が建っています。
 

 

2 石水寺
平清盛の孫師盛(もろもり)を弔ったという石板仏があり、神戸で最古の石仏だと考えられています。

 

 

舞子公園
明石海峡の観える松林は、昔から風光明媚なところとして詩にも詠まれてきました。
平清盛もこの辺りで酒宴を開いたと言われています。

今は、昔の松林はほとんどありません。海岸線は埋め立てられて海水浴場になっています。明治40年ころの根上の松の面影も残っていません。

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神戸市須磨区広報誌で訪ねる平清盛その2

2012-02-11 00:01:00 | 平清盛

須磨区広報誌に掲載されている清盛関連の史跡その2です。
(紹介文は、広報誌を参考にしています)

 

 

勝福寺
平清盛が経ケ島(きょうがしま)築造の際、この寺の衆徒が大いに協力したので、重要文化財になっている金銅製の密教法典のほか築島供養式の際の幡などが寄進されています。又、松王丸の手紙が伝わっています。
※蟠(ばん)とは、寺院の境内や堂内に立てる旗。
 

 

車大歳神社
清盛とは関係がありませんが国指定重要無形民族文化財の「翁舞(おきなまい)」が伝わっています。
翁舞は、能楽の源流とされる中世芸能で、一般には「露払い」「翁」「三番叟」の3部構成ですが、当社の舞は、後に「父の尉(じょう)」が加わる4部構成です。これは、江戸時代の形態で、芸能の変遷を示す全国的にも珍しいものです。毎年、1月14日に行われる。
 





ここは分かりにくい場所です。
バス道に面して神社の案内板を見つけたら坂を上がってください。
 

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神戸市須磨区広報誌で訪ねる平清盛その1

2012-02-10 02:58:32 | 平清盛

須磨区には、源平一の谷合戦の安徳天皇御在所があって、義経が鵯越の坂落としをした場所でもあります。(鵯越の坂落としをしたと言われる場所は、兵庫区説もあります)
多くの史跡がありますが、とりあえず広報に掲載された史跡を紹介します。
(紹介文は広報誌の説明を参考にしています)

須磨区史跡地図
 

妙法寺
清盛が福原に都を移した時に、平安京の鞍馬になぞらえてここを新鞍馬て保護したと言われています。
本堂

妙法寺入り口

 

須磨寺
本堂西にある出世稲荷は、清盛が福原京の守護神として湊川のほとりに奉ったものです。立身出世、事業成功の神として信仰を集めました。明治中期、湊川を改修した際にこの地に移されました。

本堂

 

熊谷次郎直実 「そもそもいかなる人か。名乗らせたまえ、お助けしよう」
敦盛 「討ち取ればよい手柄となるぞ。名乗らずとも首を取って人に問え」
左 敦盛  右 直実
 

        敦盛首洗池          義経腰掛松
 

 

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神戸市中央区広報誌で訪ねる平清盛その2

2012-02-06 03:00:50 | 平清盛

広報誌には掲載されていませんが、中央区の清盛関連と源平合戦の史跡を紹介します。


4 六甲八幡神社
平清盛が福原遷都のとき京都岩清水八幡宮を勧請し、地名も八幡に改めたとあります。「太平記」摩耶城合戦(1333)の条に「八幡林」とあるのは当社の森のことです。
 


9 篠原北厳嶋神社
創建は「福原新都の節、布引の滝より夜な夜な光物有と清盛公よりある。これを退治すると白玉を頂く大竜なり。この白玉を此所に安置し奉った」と古老より言い伝えられることより、1180(治承4)年とされる。
神社の縁起となっている「福石」は、平清盛が平盛継に命じて討ち取った、頭に珠を担ぐ大蛇の首を埋めた上に置いた大きな石といわれています。
 ここでは「だんじり」も有名で、5月の春祭りでは市内1,2番の大きさとされる勇壮なだんじりがねり歩く。
 


        神社から神戸港が見えます


5 小野八幡神社
源平一の谷合戦の東城戸の戦いで先駆けして討ち死にした源氏の河原太郎高直と次郎盛直兄弟の功を賞して報恩寺を建て、寺の鎮守としてこの社を建立したと言われています。
兄弟の史跡は、三宮神社に「河原霊社」と追谷墓園内に「河原兄弟の墓」があります。
 


6 三宮神社 
東城戸の戦いで戦死した河原兄弟の功に報い、源頼朝が報恩寺を建立した。三宮の発展で行方不明となったが、地元の有志が三宮神社境内に「河原霊社」の小祠(ほこら)を建立したものです。
境内には「史跡神戸事件発生の地」の石碑と昔の大砲が置かれています。
 

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神戸市中央区広報誌で訪ねる平清盛その1

2012-02-05 03:14:44 | 平清盛

神戸市広報誌中央区版に掲載されている平清盛関連の史跡は、北野天満神社、布引の滝、生田の森、熊野神社、花隈厳島神社が紹介されています。
(史跡の紹介文は、広報誌を参考にしています。)

布引の滝
「平治物語」では、平清盛が滝見物のさい、同行の家臣の難波経房(つねふさ)が源義朝の長男:義平の霊に殺される話があります。「源平盛衰記」では、清盛の長男:重衡の家臣:難波経俊が滝壺に入り、竜宮城に行った話などがあります。
布引の滝は、日光華厳の滝、紀州那智の滝とともに3大神滝と呼ばれています。
生田川にあって、上流から雄滝(おたき、43m)、夫婦滝、鼓ケ滝、雌滝の4つの滝の総称です。
        雄滝                     雌滝
 

 

北野天満神社
平清盛が福原遷都の際に、禁裡守護・鬼門鎮護の神として京都の北野天満宮を勧請して建立し、このあたりの村を北野村と呼ぶようにしたと言われています。当神社前の東西の道は北部西国街道として旅人の往来を多く、また隣には「風見鶏の館」(写真右)や南を望めば神戸港を一望にできる景勝地として昔から観光地としても有名なところです。
 

 


生田の森
一の谷合戦の際、平家軍はこの生田の森を東の城戸として、生田川に茂木を並べて陣を張り、平知盛を大将として源氏の範頼軍を迎え撃った場所です。
 

 

 熊野神社
平清盛の福原遷都の際に、五条大納言那綱が建立したと言われています。五条大納言那綱は、この地域に「宇治新亭」を造り、安徳天皇が京都に帰られるときにこの亭に一泊されたと言われています。
 

 

 花隈厳島神社
清盛が経が島(きょうがしま)を築造の際に、人々の安泰を願い、厳島明神を宮島の七浦にちなみ7カ所に祭り、兵庫七弁天と呼びました。その一つが花隈弁天です。
 

 

 

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