* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第三十一句「厳島御幸」

2006-05-27 12:31:34 | Weblog
                紫宸殿での即位の式(第八十一代・安徳天皇)

            <本文の一部>

  治承四年(1180)正月一日、鳥羽殿には、入道相国(清盛)もゆるされず、法皇もおそれさせましましければ、元日、元三のあひだ参入する人もなし。故少納言入道の子息、藤原の中納言成範、その弟左京大夫脩範、これ二人ばかりぞゆるされて参られける。

  同じく二十日、東宮(言仁親王・安徳)御袴着、ならびに御魚味(おんまな)初めきこしめすとて、めでたきことどもありしかども、法皇は御耳のよそにぞ聞こしめす。

  二月二十一日、主上(高倉天皇)ことなる御つつがもわたらせ給はぬを、おしおろしたてまつる。東宮踐祚あり。これは、入道相国、よろず思ふままなるがいたすところなり。「時よくなりぬ」とてひしめきあへり・・・・・・・

  新帝、今年三歳(満一年二ヶ月)。「あはれ、いつしかなる位ゆずりかな」と人々申しあはれけり。平大納言時忠の卿は、うちの御乳母帥の典侍の夫たるによって、「『今度の譲位いつしかなり』と、たれかかたぶけ申すべき。異国には、周の成王三歳・・・・・・後漢の孝殤皇帝は、生れて百日といふに踐祚ありて天子の位をふむ。先蹤、和漢かくのごとし」と申されけれど、そのときの有職の人々、「あなおそろし。ものな申されそや。さればそれはよき例どもか」とぞつぶやきあはれける・・・・・・・・・

   同じく三月に、「新院(高倉上皇)、安芸の厳島へ御幸なるべし」とぞ聞こえさせ給ひける・・・・・・
・・・・山門の大衆、憤り申しけるは、「賀茂、八幡、春日なんどへ御幸ならずは、わが山の山王へこそ御幸なるべけれ。安芸の厳島までは、いつのならひぞや。その儀ならば神輿を振り下したてまつりて、御幸をとどめたてまつれ」とぞ申しける。これによって、しばらく御延引あり・・・・・・

  あくる十九日(三月)、大宮の大納言隆季の卿、いまだ夜ふかう参りて、御幸をもよほされけり。この日ごろ聞こえさせ給ひし厳島の御幸をば、西八条の第よりとげさせおはします・・・・・・・・

  同じき二十六日、厳島へ御参着あって、太政入道(清盛)の最愛の内侍が宿所、御所になる。なか一日御逗留ありて、経会、舞楽おこなはる。導師には、三井寺の公顕僧正とぞ聞こえし・・・・・・・

  同じき二十九日、上皇(高倉)、御船かざりて還御なる。風はげしかりければ、御船漕ぎもどし、厳島のうち、有の浦にとどまり給ふ・・・・・・

  五日の日(四月)は、天晴れ、風しずかに、海上ものどけかりければ、御所の御船をはじめまゐらせて、人々の船どもみな出だしつつ、雲の波、けぶりの波をわけしのがせ給ひて、その日の酉の刻(夕方)に、播磨の国山田の浦に着かせ給ふ・・・・・七日、・・・・入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。

  同じく四月二十二日、新帝(安徳天皇)御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、ひととせ炎上ののちは、いまだ造り出だされず・・・・・「大極殿なからんには、紫宸殿にて御即位あるべし」と申させ給ひければ、紫宸殿にて御即位あり。・・・・・・・

  中宮(安徳母后・平徳子)、好徽殿を出でさせ給ひて仁寿殿へうつり、高御座へ参らせ給ふありさま、めでたかりけり。平家の人々みな出仕せられたりけれども、小松殿(重盛)の公達ばかり、父の大臣去年失せ給ひしあひだ、いまだ色(服喪中)にて籠居せられたり。

             (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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         <あらすじ>

(1) 治承四年(1180)二月二十一日、高倉天皇はご病気でもないのに、退位させられて、
    東宮(言仁親王・安徳)が踐祚する。清盛の独裁権力を如実に物語るくだりである。
    (踐祚:皇位を継ぐ実質的な意味)

(2) 新帝(第八十一代・安徳天皇)、わずか満一年二ヶ月という、世の人々は「まぁ何と
    あわただしい御譲位だ」と云いあう。

    平大納言・時忠(清盛の室・時子の兄)の卿は、「古代中国・後漢には、生後百日で
    踐祚の例もあり、この御譲位を誰が非難できようか・・・」と述べるが、故実典礼に詳
    しい人々は、「それは良い例なのか・・・」とつぶやいたと云う。

(3) 同年三月に、高倉上皇は父・後白河院の鳥羽幽閉の今、少しでも権力者清盛の気持
    ちを和らげたいとのお考えから、清盛が尊崇する厳島神社への参詣を願うが、これが
    比叡山の僧たちの強い反対でしばらく延期せざるを得なかったという。

(4) 三月十九日、高倉上皇は、ようやく鳥羽殿へ朝早くにお入りになり、父・法皇と涙ながら
    に語り合はれ、午後になって鳥羽殿を出て厳島へ向かはれる。右大将・宗盛、大納
    言・実房などがお供をする。

(5) 同月二十六日に厳島へ到着し、三井寺の公顕僧正を導師として、写経や舞楽を奏
    した。
    同じく二十九日には、船をととのえて都へお戻りになるが、備後の敷名(広島県)や
    備前の児島(倉敷)などを経て四月五日、福原に入り、七日に都に着く。

(6) 治承四年(1180)四月二十二日、新帝(安徳天皇)の御即位の式があり、中宮(安徳
    母后・平徳子)は、高御座(たかみくら、即位などの大礼の際の天皇の座)へ参られ、
    平家一門の人々みな出仕するが、重盛の子等(維盛、資盛、清経ら・・・)は、前年の
    父の喪で屋敷に引き籠っていたという。

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    ”高倉院厳島御幸記”には、往きにはわざわざ福原の清盛邸に寄り、こゝから清盛
    厳島行きに同行したとあり、福原でのそれを含め、途中の港々での歓待ぶりが目を
    引き、高倉上皇の微妙な心境も記している。


  

  

  

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