* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七句 「殿下乗合(てんがのりあひ)」

2006-03-24 11:15:38 | Weblog
  <本文の一部> 
 さるほどに嘉応元年(1169年)七月十六日、一院(後白河院)御出家あり。御出家ののちも万機(政務)のまつりごとを聞こしめされければ、院、内分くかたなし(上皇と内裏との区別がつかないありさま)。

 世の乱れそめぬる根本は、去んぬる嘉応二年(1170年)十月十六日、小松殿(平重盛)の次男新三位の中将資盛、そのときはいまだ越前守とて、十三になられけるが、雪ははだれに降りたり。枯野のけしきもまことにおもしろかりければ、若侍ども二三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近の馬場にうち出でて、鷹ともあまた据ゑさせて・・・・・・・・

 その時の御摂籙(摂政)は松殿(藤原基房)にてぞましましける。中の御門の東の洞院の御所より後参内あり・・・・・・・

 資盛(清盛の孫、重盛の子)の朝臣大炊の御門猪熊にて、殿下の御出に鼻つきに参りあふ。殿下の御供の人々、「何者ぞ、狼藉なり。御出のあるに、おり候へ」と言ひてけれども、あまりの勇み誇りて世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍ども、みな二十よりうちの若き者どもにて、礼儀骨法(作法)をわきまへたる者一人もなし。

 殿下の御出ともいはず(物ともせず)、一切下馬の礼儀にもおよばず、駆け破りて通らんとするあひだ、暗さはくらし、殿下の御供の人々、つやつや太政入道殿(平清盛)の孫とも知らず、少々はまた知りたりけれどもそら知らずして、資盛の朝臣をはじめとして侍ども、馬よりとって引落し、すこぶる恥辱におよびけり。

                      (注) カッコ内は、本文ではなく私の注釈記入です。
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  平家全盛の世の中で、平清盛の孫、十三歳の少年資盛の鷹狩りの一行が、時の摂政・藤原基房一行の参内の途中に出会い、下馬の礼をとらなかったことから、うすうすは平家の若武者と知りながら、資盛主従を馬から引きずり落すなど散々に痛めつけてしまった。

 資盛一行はほうほうのていで、六波羅の清盛邸へ駆け込み、ことの次第を”おじいさま”に訴えた。可愛いゝ孫が痛めつけられことを知った 清盛 は大いに怒り、摂政・基房を懲らしめてやろうと、重盛 に相談するが、「殿下の一行に会い、乗り物から降りない方が無礼!」だとして、重盛 は 資盛 をはじめその折の侍たちを叱り伊勢の国へ追放し、一方で摂政・基房 のもとへ参り、その無礼を詫びるのであった。

 しかし、清盛 はおさまらず、しばらく後の参内の途中で摂政・基房一行を襲わせ、一行の先導の者や護衛の者たちを、馬から引きずり落して髷を切落したり踏みにじるなど、散々に乱暴を働く、このためこの日の摂政の参内は取り止めるという前代未聞の騒ぎとなってしまった。

 これぞ”平家悪行”のはじめなりと、世の人云う。

   摂政関白に対しての、平家一門による乱暴狼藉という有名な事件ですが、
  史実は、清盛 の犯行?ではなく、平家物語の中で常に沈着冷静、温厚な
  君子として描かれる 重盛 その人の行為だったことが幾つかの記述に見え
  るのである。

      愚管抄(慈円) : イカニシタリケルニカ・・・・
                  不思議ノ事ヲ一ツシタリナリ・・・

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