* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十五句「入道死去」

2007-03-21 16:45:51 | 日本の歴史

   石の水槽に叡山・千手堂の水を汲み入れて、”清盛”はそれに浸か
     
るが、この水が湯のように沸きあがって水蒸気となってしまうほど
      の熱病?

 <本文の一部>

 同じき二十七日、「前の右大将宗盛、源氏追罰のために、東国への門
 出」と聞こえしかば、「入道相国(清盛)、例ならざること出でき給へり」
 とて、右大将、その日の門出とどまりぬ。
 同じき二十八日より、「重き病うけ給へり」とて、京中、六波羅、大地
 うちかへしたるごとくにさわぎあへり。たかきも(身分の高い者も)、い
 やしきも、これを聞いて、「あは、しつるは(それ見たことか)」とぞ申
 しける。

 入道、病ひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身の
 うちのあつきこと、火をたくがごとし。臥したまへる所、四五間がうち
 へ入る者は、あつさ堪へがたし。ただのたまふこととては、「あつや、
 あつや」とばかりなり。比叡山より、千手院の水を汲み、石の舟にたた
 へ、それにおりて冷したまへば、水おびたたしく沸きあがり、ほどなく
 湯にぞなりにける・・・・・・

 入道相国の北の方、ニ位殿(平時子)の夢に見給ひけるこそおそろしけ
 れ。福原の岡の御所とおぼしきてある所に、猛火おびたたしく燃えた
 る車を、門のうちへやり入れたり・・

 「閻魔より、平家太政入道殿の御迎へに参りて候」と申す。「さて、
 その札はいかなる札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提、金銅十六丈の
 廬遮那仏を、焼き滅ぼし給へる罪によって、無間の底に落ち給ふべき
 よし、閻魔の庁に御さだめ候ふが、『無問』の『無』をば書かれ、
 『間』の字をば書かれず候ふなり」とぞ申しける。
 二位殿夢さめてのち、汗水になり、これを人に語り給へば、聞く者、
 身の毛もよだちけり・・・・・・

  同じき閏二月二日(治承五年(1181)三月二十日)、二位殿あつさ堪へが
 たけれども、枕がみにたち寄り、泣く泣くのたまひけるは、「御ありさ
 ま、日にそへてたのみすくなうこそ見えさせ給へ。おぼしめすことあら
 ば、ものおぼえさせ給ひしとき、仰せおかれよ」とぞのたまひける。

 同じき四日、病に責められ、せめてのことには、板に水をそそぎ、それ
 に臥しまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶闢地して、つひに
 あつけ死にぞ、死に給ひける。

 馬、車の馳せちがふ音、天もひびき、大地もうごくほどなり。「一天の
 君、万乗の主、いかなることおはすとも、これには過ぎじ」とぞ見えし。
 今年六十四にぞなり給ふ・・・・・・

 さてもあるべきならねば、同じき七日、愛宕(念仏寺の辺)にてけぶりと
 なしたてまつりて、都の空に立ち上がる。骨をば円実法眼頸にかけ、摂
 津の国へくだり、経の島にぞをさめてげる。されば日本一州に名をあげ、
 威をふるひし人なれども、片時のけぶりとなり、屍は浜のいさごにうず
 んで、むなしき土とぞなり給ふ。

     (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 <あらすじ>

(1)<清盛が病に倒れる>
   
治承五年(1181)二月二十七日、前・右大将・宗盛が総大将となっ
   て、源氏追罰のため東国に向かう予定であったが、”清盛”が病
   に倒れたため、その日の出立は取り止めとなった。

(2)<清盛の”熱病”のありさま>
   同二十八日、身体中が熱くなる重い病にかかった”清盛”は、比
   叡山・千手堂の水を汲み下ろして、この水を入れた石の水槽に身
   体を浸して冷やそうとするが、この水が湯のように沸きあがって
   しまい、筧からの水を身体に注ぎかけるものゝ、焼け石に当った
   水のように、飛び散るありさま。

(3)<”清盛”の妻”時子”が見た夢の話>
   閻魔大王より、清盛の迎えの車が来て、仏を焼き滅ぼした罪で、
   無間地獄の底へ落す、という判決があったと伝える。
   (平家による南都の仏閣を焼失のこと)
    ”時子”は、夢から覚めて身の毛のよだつ怖ろしさに、すぐさ
   ま神社仏閣に金銀などの宝物や、鎧・兜・弓矢・太刀にいたるま
   で、これを奉納して清盛の病気平癒を祈ったが、祈願は叶いそう
   にも見えなかったのである。

(4)<”清盛”の遺言!>
 
  同じ閏二月二日、日頃は剛毅な”清盛”も、さすがに息も絶え絶
   えに”時子”に話しかける。『ただ無念なのは、兵衛(ひょうえの)
   佐(すけ)・源頼朝の首を見なかったこと。わしが死んだ後は、仏事
   供養も堂塔建立も無用!直ちに追手を差し向けて”頼朝”の首を切
   落して、わが墓前に供えよ!、そのことこそ今生後生の孝養という
   ものじゃ・・・」と語った。
   

(5)<”清盛”の最後>
   同じ四日、苦しみを少しでも和らげようと、床板の上に水を注ぎ、
   その上に身体を横たえるが、熱さの中に苦しみつゝ、やがて苦悶
   のうちに死んでいったのであった。(治承五年(1181)閏二月四日・
   六十四歳)
清盛”の死によって、天子さまがお亡くなりになっ
   ても、これほどの騒ぎにはならぬと思われるほどの、騒動となっ
   た。

(6)<その後>
   同じ七日、愛宕念仏寺において火葬に付し、福原の”経の島”へ
   遺骨を納めた。
    さしも栄耀栄華を誇った一代の傑物も、ついには浜の砂に埋も
   れて、只の土に帰ったのであった。
    葬送の夜、六波羅の西八条殿が不審火によって炎上した、放火
   の噂があったと云う。

(7)<”清盛”の功績「防波堤」>
   生前”清盛”は、福原に”経の島”を築いて、年々の暴風雨によ
   る難破などの航行不安を解消したことは、賞賛に値することであ
   った。
    度々の難工事に、”人柱”の話もあったが、”清盛”は、石に
   一切経を書かせて、これをもって築いたので”経の島”と名づけ
    られたと云う。  

 


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