* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第三十四句「競」(きほふ・きおう)

2006-06-01 12:19:29 | Weblog

    (霞の上段)””は居るか?と尋ねる”宗盛
     (霞の下段(左))宗盛の愛馬”南鐐”を騙し取って三井寺へ向う
     
(霞の下段(右))炎上する””屋敷

            <本文の一部>

  宮(高倉の宮・以仁王)は、高倉をのぼりに、近衛河原を東へ、川を渡らせ給ひて、如意山へかからせましまします。いつならはせ給ふべきなれば(経験したことのないことなので)、御足かけ損じて腫れたり。血あえつつ、いたはしうぞ見えさせ給ひける。知らぬ山路をよもすがら分け過ぎさせ給へば、夏山の茂みがもとの露けさも、さこそ所せばくおぼしめされけん。

  とかうして、あかつきおがたに園城寺(三井寺)へこそ入らせ給ひけれ。「かひなき命の惜しさに、衆徒をたのみ来たれり」と仰せければ、大衆うけたまはって、法輪院に御所をしつらひて、入れまゐらせけり・・・・・

  年ごろ日ごろもあればあれ、源三位入道(頼政)、今年いかなる心にて、か様に謀叛をば起こしたりけるぞといふに・・・・・・

  ・・・・たとへば、そのころ、源三位入道の嫡子、伊豆守仲綱がもとに、九重に聞こえたる名馬あり。鹿毛なる馬のならびなき逸物なり。名をば「木の下」とぞいひける。前の右大将(宗盛)、使者を立て給ひて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」とのたまひつかはされたりけれども、「乗り損じ候ふあひだ、このほどいたはらんがために、田舎へつかはして候。やがて召しこそのぼせ候はん」と返事せられたりければ、右大将、「さらば力およばず」とておはしけるところに、平家の侍並みゐたりけるが、ある者が、「昨日も候ひしものを」、「今朝も庭乗り候ひつる」なんど口々に申せば、右大将、「憎し。さては惜しむござんなれ。その儀ならば、その馬、責め乞ひに乞へや」とて、侍して馳せさせ、文などして、おし返し、おし返し、五六度までこそ乞はれけれ・・・・・・・

  ・・・・右大将、この馬を引き廻し、引き回し、見るべきほど見て、「憎し。さしもこれをば主が憎しみたる馬ぞかし。やがて主が名乗を金焼にし候へ」とて、「仲綱」といふ焼印をしてぞ置かれる。客人来たりて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」と申せば、右大将、「仲綱めがことに候ふやらん。仲綱め、引き出せ」「仲綱め、打て」「はれ(なぐる)」なんどぞのたまひける。

  同じき十六日(五月)夜に入りて、源三位入道(頼政)、家の子郎等を引き具して、都合その勢三百騎、屋形に火をかけて三井寺に馳せ参る。
 渡辺の滝口(花形)が宿所は、六波羅の裏の桧垣のうちにてぞありける。競が馳せおくれてとどまって候ふよしを、右大将聞き給ひて、あくる十七日の早朝に使者を立て、召されければ、競、召しによって参りたり・・・・・・

  ・・・・「年ごろなんじがこの辺を出で入りするを、『召し使はばや』と常に思いしに、さらば当家に奉公いたせかし。三位入道の恩にはすこしも劣るまじ」とのたまへば、競、かしこまって申しけるは、「たとひ三位入道年来のよしみ候ふとも、朝敵となられたる人にいかでか同心をばつかまつるべき。今日よりは、当家に奉公つかまつらむ」と申せば、右大将、よにもうれしげにて入り給ひぬ・・・・

  すでに日もやうやう暮れければ、競申しけるは、「宮ならびに三位入道、すでに三井寺にと承り候。さだめて今は討手を向けられ候はんずらん。三井寺法師、渡辺(党)には、そんぢやうそれなんどぞ候ふらめ。競、撰り討ちなんどつかまつるべう候。乗りて事にあふべき馬の候ひつるを、したしき奴ばらに盗まれて候。御馬一匹、下げあずからばや」と申しければ、右大将、「いかにもして、ありつけばや(自分の屋敷に落ちつかせたい)」と思はれければ、白葦毛なる馬の太くたくましきが、「南」とつけて秘蔵せられたるに、白覆輪の鞍置いて競に賜ぶ。この馬を賜って宿所にかへり、「はやはや、とくして日も暮れよかし。三井寺へ馳せ参りて、三位入道殿のまっ先駆けて討死せん」とぞ思ひける。

  ・・・・賜はりたる南鐐にうち乗りて、乗りがへ一匹具し、舎人の男にも太刀わきばさませて、屋形に火をかけ、三井寺に馳せ参る。
「競屋形より火出できたり」と申すほどこそありけれ、六波羅中騒動す。右大将、「競はあるか」とたづねられければ、「侍はず」とぞ申しける。「すは、きやつに出しぬかれけるよ。やすからぬもの(憎い奴だ)かな」と後悔し給へども、かひぞなき。

  ・・・・・競、かしこまって申しけるは、「伊豆守の木の下の代りに、右大将殿の南鐐をこそ取って参りて候へ」と申せば、伊豆守大きによろこびて、この馬を乞ひて、やがて「宗盛」といふ金焼をさして、そのあした六波羅へつかはし、門のうちへぞ追い入れたる。侍ども、この馬を取って参りたり。右大将、この馬を見給へば、「宗盛」といふ金焼を見給ひて、大いに怒られけり。「今度三井寺に寄せたらんずるに、余は知らず、あひかまへて、まづ競め生捕にせよ。のこぎりにて首を切らん」とぞのたまひける。

                (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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       <あらすじ>
(1) 高倉の宮・以仁王(もちひとおう)は、御所を脱出して普段は経験するこ
    
とのない、川を渡り山をのぼり足を傷めて血を流しながら、やっと明け方
    になって園城寺(三井寺)にお着きになった。

(2) 永年何事も起こさず、今日まで無事にきたのに何故”源三位入道・頼政
    がこのような謀叛を起こした理由のうちの一つに、前右大将・宗盛
    ”頼政・仲綱”父子に対しての理不尽な仕打ちを語る。

     伊豆守・仲綱の”木の下”という名馬を、宗盛が権柄づくで奪い取り、
    馬の尻に”仲綱”の焼印を押して、来客に見せたり、鞭打ったりなぐった
    りしたという。
     仲綱はこれを聞いて、「大事な馬を、地位に物言わせて奪い取られた
    ことだけでも我慢がならないのに、馬のために日本国中の物笑いになる
    のは無念で、恥を見るくらいなら死んだほうが良い」と悔しがった。

(3) 源三位入道・頼政の配下に”渡辺党”があり、その””という優れた武
    者に、宗盛が”奉公せよ”と呼びかける、も思うところあって偽って仕
    え、宗盛もこれを引き立てて、気を許すようになる。

(4) はある日、宗盛をだまして、秘蔵の名馬”南鐐”を賜って、そのまゝ自
    分の屋敷に火をかけて、三井寺へかけつけるのであった。

     競の屋敷から火の手が上がったのを見て、宗盛を呼ぶが侍たちは
    ”居ない”という、さては騙されたか憎い奴め!と後悔したが、すでに
    後の祭りであった。

(5) 三井寺へ到着したは、「伊豆守の名馬”木の下”の代わりに宗盛秘蔵の
    名馬”南鐐”を取って参りました」と申しあげる。伊豆守はこの”南鐐
    をもらいうけて、「宗盛」という焼印を押し、その翌日に六波羅の屋敷の
    門内へ追い入れた。

      宗盛は激怒して、「三井寺を攻める時は、他の者はとに角あの”
    だけは生捕りにせよ、”のこぎり”で首を切ってやる!」と云ったとい
    う。

    まさに、渡辺党””の武士の心意気であった・・・・。

    第三十八句「頼政最後」では、この”競”が獅子奮迅の働きをして、平家
    の侍たちは何としても生捕りにしようと狙ったが、”競”もそれを心得て
    散々に戦って後、自害して果てゝしまうのである。

 

 

 

  

 

 

  

 

 

 

 


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