第五十代・桓武天皇の後胤、平忠盛(清盛の父)が備前守のとき、鳥羽院の御願得長壽院を建立してさしあげ、三十三間の御堂を建てて一千一体の御仏を据え落成させます。
これによって内裏の昇殿を許され(忠盛三十六歳)るのですが、当時は貴族からあごで使われさげすまれていた「武士」の昇殿に、殿上人はこれを妬み、暗闇で袋叩きにしょうと企みます。 忠盛はこれを伝え聞いて、銀箔を押した木の刀を腰刀にして参内し、くらやみに向ってこの刀を鬢(びん)に当てて引いて見せる、これを見てぞっと驚きその夜の闇討は取り止めてしまった、というくだりです。
(氷の刃のように見せた・・・)
いまから八百七十余年前のお話です。
本文の始まりと文中の一部・・・・。
祇園精舎の鐘のこゑ 諸行無常のひびきあり 沙羅双樹の花の色
成者必衰のことわりをあらはす・・・・
雲の上人これをそねみいきどほり、同じき年の十一月二十三日、五節の
豊明の節会の夜、忠盛を闇討にせんとぞ擬せられける。 忠盛このよしを
つたえ聞きて「われ右筆の身にあらず、武勇の家にむまれて いま不慮の
難にあはんこと身のため家のため心憂かるべし、詮ずるところ『身を全うし
て君につかへよ』といふ本文あり」とて、かねて用意をいたす。 参内のは
じめより大きなる鞘巻を束帯の下にさし、灯のほのぐらきかたに向ってこの
刀を抜きだし鬢にひきあてけるが、よそよりは氷などのように見えたり。諸
人目をぞすましける。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます