* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二句「三台上禄(さんだいじょうろく)」

2006-03-17 11:50:14 | Weblog
 
 平忠盛が、仁平三年(1153年)正月十五日に亡くなり(五十八歳)、そのあとを嫡男"清盛"が継ぐ。清盛は「保元の乱」で功をたて大国・播磨守となり、更に太宰大弐(大宰府の次官)につき、次いで「平治の乱」で先駆け勲功をあげてとんとん拍子に出世、大納言から左右大臣をとばして太政大臣・従一位にあがり、摂政関白に並ぶ待遇を得るまでになる。

 "清盛"は仁安三年(1168年)十一月、五十一歳で病となり"出家"して浄海と名乗る。

 平家一門が栄華を極めるなか、平大納言時忠(清盛の小舅)の言葉「この一門にあらざらん者は人たるべし」が良く知られる。

 あまりに平家に偏った栄耀栄華に、これを批判する者も少なくなかった為、清盛は一策を案じ"童子"数百人を"おかっぱ頭"に"赤い衣服"を着せ揃え、京の街中を歩かせ"平家の悪口"を云う者がいれば片っ端から引っ捕えて資財を没収した。
(少年諜報機関、(平安の紅衛兵?))

三台上禄」とは、
   太政大臣・左大臣・右大臣をたとえて云い、最高官を極めること。

保元の乱」は、(1156年)朝廷権力争いによる「後白河帝・藤原信西・
         平清盛・源為義」側と、「崇徳上皇・藤原頼長・源為義」
         側の争いで、後白河帝側の勝利となる。

 「平治の乱」は、(1159年)貴族の権力闘争で「藤原信西・平清盛」側と、
         「藤原信頼・源義朝」側の戦闘で、信西・清盛側が勝利する。
          (信西は誅殺され、) (源義朝は東へ逃れる途中でかつての
            配下に殺され、幼少の頼朝は伊豆の蛭小島に流される)

 <原文の一部>

 うちつづき、宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言に経あがって、左右を経ずして内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将にあらねども兵仗を賜はりて随身を召し具して、牛車、輦車に乗りながら宮中を出で入りぬ。ひとへに執政のごとし。

 かたはらにて そしりかたぶけ申すことは、常のならひなれども、この禅門のせざかりのほどは いささかいるかせに申す者なし。 そのゆゑは入道相国はかりごとにて、十四五六ばかりの童部(わらべ)を三百人そろへて、髪を禿(かぶろ)にきりまはし、赤き直垂(ひたたれ)を着せて召しつかはれけるが、京中にみちみちて往反しけり。おのづから平家の御ことをあしきさまに申す者あれば、一人聞き出ださるるほどこそあれ、三百人に触れまはして、その家に乱れ入り資財雑具を追捕して その奴をからめて六波羅に率てまゐる。


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