今月号の「な~るほど・ザ・台湾」は「花蓮・豊田神社~東部開拓にかけた賀田金三郎」です。
賀田金三郎は、日本統治時代の台湾を調べてゆくと、多くの分野で同氏の名前が出てくる。それほど、数多くの事業を手掛けた実業家であった。今回は、台湾の花蓮県寿豊郷で見つけた「開拓記念碑」から、賀田が起こした賀田組の東部での開拓事業を追ってみることにした。また、事業を通じて、当時の民政長官であった後藤新平との繋がりは、商売の損得を越えたところにあったようである。文書の中では、このことを代表する2つのエピソードを紹介している。
紙面の関係で書ききれなかった、賀田金三郎と後藤新平との最後の「訣別」をブログを通じて紹介することにします。
大正10(1921)年春、そんな賀田に体の異変が起こり、遂に入院することになる。この時、既に自分の死期を悟り、賀田組を株式会社に組織し、家族の将来に備えたようである。亡くなる2日前、旧知の友である後藤新平が見舞いに訪れる。賀田は家紋の付いた羽織を夜具の上に掛けて迎えた。「目と目は見合せられた。手と手は握られた。しばしは互いに言葉も無く、無言の雄弁は、この一室の空気を領して、天地を尺寸の中に縮めたとも云はうか、いかなる文章家も、斯一場の偉大なる対立を形容する文字をたやすくは見出し得ないであろう」と賀田金三郎翁小傳は綴っている。賀田金三郎、享年66歳であった。
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