台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

車路墘(しゃろけん)回憶(下)

2017-10-08 19:49:00 | 台南州

もっと車路墘について知りたい。歴史を繋ぐ人がいる限り、歴史は残るとの思いで、2014年4月、現在の車路墘を知る張静芬さんが日本を訪問し、前原博久さん(前原清廣さんの長男)、高井雄三さん、池田恵美さんと過去の車路墘を知る4人の初めての出会いが実現した。日本人の3人から異口同音に発せられた言葉は「今の車路墘はどうなっていますか」であった。ゆっくりと70数年前を確かめるように思い出しながら、誰とはなしに、語り始めた。3人の言葉は勝手気ままに話の順序もなく、堰を切ったように次から次と話題が交錯したので、同行した張さんの通訳は当惑したと思われる。しかし、来日した張さんは、昔の車路墘が真に現在の場所に生きていることを実感して、「私達は虎山と車路墘を守ってゆきます」と決意を語り、ここに車路墘を知る新しい4人の仲間が誕生した。

 この後、徐々にではあるが車路墘について分かってきた。この地はかつて「虎山」とも呼ばれた。清朝時代の正式な地名は牛稠仔で、現在の成功村である。この地から新石器時代の石器や陶器が見つかっているので、紀元前数千年前から大きな集落が形成されていたことが窺える。丁度、車路墘製糖の北側一帯といった方が分かりやすい。

 製糖会社入口左の坂を多少し上ると左側に、昭和9(1934)年5月27日に建立された阿弥陀仏亭がある。入口には一対の唐獅子が安置されており、石座には奉納者12人の名前が刻まれている。阿弥陀仏亭が何故に建立されたのかは明らかではないが、一人の女性が身を以って爆弾の破裂から工場を救ったとの言い伝えが残っている。

 一方、虎山神社は昭和8(1933)年6月7日、当時の製糖所所長糸井益雄の発案で、製糖工場の発展と従業員の健康を願い、職員及び工員の浄財によって虎山の高台購買部付近に造営された。現在の進修館一帯である。糸井氏は神紋の作成や鎮座祭執行に関わる全ての行事を取り仕切ったとのことで、神社の例祭には大人に交じって子供達もお神輿担ぎに駆り出され、終日賑わったらしい。

2003年7月、廃業となった仁徳糖廠は、その事務所だけを残し、外は全て倉庫太鼓を中心とする十鼓撃楽団の演奏練習場に貸出された。その後、演奏練習場は十鼓文創園区となり、創園区を経営する張靜芬さんご夫妻の熱意により、新たに太鼓を交えた音楽のテーマパーク「十鼓仁糖文創園区」として、国際芸術村に変身した。また、製糖工場の製糖工程を知ってもらうために、製造ラインや倉庫の部分に修理が施され、現在はスタッフ30人で運営されている。その後2012年に入り、「旧製糖工場保存運動」や「加油!男孩(少年頑張れ!)」の撮影ロケで仁徳糖廠が使用され、その知名度が上がり、旧仁徳糖廠が保存されることになった。現在、一日3部、4セットの演目、7人編成の鼓楽が毎日上演されている。台湾の古都と言われた台南市に響き渡る太鼓の音で、今日も台湾文化の伝承が続けられている。

十鼓文創園区は、仁徳糖廠からその施設と場所を賃借しているので経営は楽ではないが、車路墘を知る人達のために、そしてまた新しい文化創世発祥の地としての知名度を高めるために、30人のスタッフ全員が日々で一生懸命頑張っているとのことであった。

 

阿弥陀仏亭   

虎山神社跡地

川畑キサ子先生とのお別れ時の集合写真(虎山神社前で)提供:高井雄三




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