台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

車路墘(しゃろけん)回憶(上)

2017-09-28 06:32:41 | 台南州

今回は、台湾協会報(7月)に寄稿した記事を掲載します。なお、写真は新しく追加しています。

日本統治時代の車路墘に虎山社があった。


車路墘(しゃろけん)回憶(上) 

台鉄台南車站の次ぎに「保安車站」という駅があり、その駅から巨大な煙突が見える。その煙突には「十鼓文創園區」と書かれている。日本統治時代の台湾製糖車路墘製糖所である。この工場は明治43(1910)年、台南州新豊郡永寧庄牛稠子(ぎゅうちょうし)に設立され、圧搾能力1500トンを有していた。

車路墘とは清朝時代の呼び名で、「街道または大通りのほとり」の意味を持ち、現在の台南市仁徳区に位置する。

ここは、米軍の爆撃による被害もなく終戦を迎え、1946年に設立された台湾糖業公司に引き継がれた後、1969年、台南県の新たな行政区の名前に合わせて仁徳糖廠と改称、1971年には世界的な経済成長の波に乗り2600トンの生産規模を誇ったが、その後世界的規模での砂糖価格の大暴落により、仁徳糖廠も例に漏れず、2003年7月、その93年の歴史に幕を下ろした。 

この旧精糖所の傍に阿弥陀仏亭がある。狛犬(唐獅子)や玉垣が残っているし、それぞれに日本人を含む奉納者の名前も刻まれている。ここが車路墘製糖所の企業神社(虎山社)跡地であると言われれば疑いもなく頷いてしまうところだが、往時の写真と現在の阿弥陀仏亭を見比べると、明らかに周りの地形が異なっていた。

2016年末、台湾の友人からメールが入った。誰もがそう思っていた神社跡地は阿弥陀仏亭ではないという。その後、車路墘製糖所の裏辺りの「虎山」と呼ばれる一角に神社があったことが分かったので、2017年2月、神社跡地の確認に訪れたところ、そこで偶然、埋もれた車路墘の歴史を掘り起こす活動をしているグループと出会うことになった。 

そのグループとは、2000年に台南市に誕生した十鼓撃楽団で、創設者であり、総監督である謝十氏は「伝統的な台湾本土の打楽器を以て世界に文化を広げる」との創設精神を持った芸術家で、「十」は自身の名前でもあり、また、交差した2本の太鼓バチの象徵でもある。

2005年12月、既に廃業となっていたこの仁徳糖廠跡が十鼓撃楽団の練習場となり、その間、楽団は大陸の杭州宋城、米国のブロードウェー、南アフリカのブレトリアやインドのデリー等、世界各国の一流劇場での演奏を行ってきた。しかし最終的に、台南のこの地を演奏拠点とすることに決め、同時にこの廃墟となった工場の歴史を振り返りたいという提案がメンバーから出された。

それを受けて、2013年初め、謝十氏の夫人である張静芬さんが、車路墘の歴史の手掛かりを求め、虎山国民小学の林校長を訪ねることからその活動は始まった。この学校は、大正4(1915)年、工場で働く子弟のために設立された「車路墘尋常小学校分教所(大正6年に車路墘尋常小学校、昭和17年には豊栄国民学校と名称変更)」が起源となっている。

林校長から渡されたのは、日本統治時代に虎山に住んでいた前原清廣氏の夫人からの手紙で、そこには過日卒業した車路墘小学校を訪問した際のお礼が記されていた。そっと開けてみると、その中にはまぎれもなく車路墘の文字が散らばり、過去の車路墘を現在に結び付ける確かな証拠がそこにあった。この手紙を頼りに、遠い過去を現在に引き寄せる作業が始まった。 

前原さんの紹介で、車路墘会前事務局長の高井雄三さん(旧姓飯島雄三)が飯島正藏校長(任期:昭和12~20年)のご子息であることが分かり、それがご縁で張さんと高井さんとの手紙による交信が始まった。

高井さんからは、当時の車路墘を生き返えらせるような貴重な写真や資料の他、川畑キサ子先生(在任:昭和6~15年)のお別れの写真、年一度の虎山神社祭典での神輿、相撲大会等の写真などがあり、その写真の一枚一枚に70年以上前の車路墘が生き生きと蘇っていた。     (つづく)

 

 十鼓文創園區と書かれた煙突 

謝十さんと張静芬さんご夫婦

 

十鼓撃楽団の演奏(提供:張静芬)

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